Ⅳ
『果てしなく哀れね』
リズヴェラの声が、今度は憐れみを含んで頭上から降り注いだ。
『あなたは己を、その立派な運命の紡ぎ手だと思い込んでいる。でもね、その実、神々が退屈しのぎに盤上で狂わせる一粒の駒に過ぎないのよ。あなたが熱狂し、信じて疑わないその大いなる運命の舞台は……神々が私たちを殺し合わせるための、ただの屠殺場よ』
「光の届かぬ者の戯言に耳を貸すほど、私は愚かではない」
私は魂の深淵を覗き込む『霊的透過』の視座へと意識を移行する。
闇の粉塵も、物理的な障害物も、この視界を遮ることはできない。
世界は灰色の輪郭となり、その中で、命の炎だけが色彩を持って浮かび上がる。
私の斜め上空の位置。禍々しくも巨大な、赤黒い業火のように燃え盛る魂の輪郭。
私は右手を虚空へとかざし、重力と次元の理を捻じ曲げた。
強烈な念動の引力。
不可視の巨大な掌がリズヴェラの魂を鷲掴みにし、私の元へと一直線に引きずり下ろす。
『――っ!?』
リズヴェラが短い悲鳴を上げる。彼女の抵抗を許さず、重力落下をも超える速度で、彼女の肉体が私の眼前へと引き寄せられてくる。
私は黄金の槍を両手で構え直し、無慈悲に、彼女の心臓を穿つべく穂先を突き出した。
これで終わる。
悪逆なる魂は浄化され、この聖堂は再び沈黙の調和を取り戻す。
だが。
必殺の槍が、彼女の胸に到達しようとしたその瞬間。
闇が晴れ、私の視覚が物理の光を捉えた刹那、槍の穂先の先にいたのは、異形の女悪魔ではなかった。
蝙蝠の翼も、黒革の衣装もない。
そこにいたのは、四百年前、私が愛したあの日のままの――素朴な麻の服を着て、長い髪を風に揺らす、人間の少女の姿であった。
彼女の瞳が、恐怖ではなく、かつて私に向けたような、無垢で柔らかな愛情を帯びて私を見つめている。
「――っ」
『理の一刻』。
時間と呼べぬ間に、絶対であるべき私の思考に、致命的な欠落が発生した。
捨て去ったはずの、天使であった頃の記憶。人間の少女の体温、雨上がりの土の匂い、共に笑い合った日々の鮮烈な情景が、私の領域を暴力的に書き換えた。
私の体から噴出していた四つの巨大な光の翼が、その一瞬だけ、激しく明滅し、光量を落とした。
ためらい。
神の意志の代行者である私が、決して抱いてはならない『躊躇』。
その一瞬の揺らぎこそが、彼女の待っていたものであった。
少女の柔らかな微笑みが、瞬時にして氷のように冷たい悪魔の嘲笑へと反転する。
彼女は人間の姿などしていなかった。それは高度な幻惑。私の深層心理にある脆弱な記憶を引きずり出すための、周到な罠。
引き寄せられた勢いを逆に利用し、リズヴェラは残った左手にいつの間にか握りしめていた漆黒の長剣を、真っ直ぐに私へと突き出していた。
私の槍の穂先が彼女の肩を掠め、浅い傷を負わせるのと同時。
不快な金属音が、私の胸元で弾けた。
「ガ、アァァァァァァァッ……!?」
私自身の口から、数百年ぶりに聞く『苦痛の声』が漏れ出ていた。
絶対の強度を誇るはずの黄金の人型全身鎧が、まるで薄紙のように容易く貫かれていた。漆黒の剣の切先が、鎧の胸部装甲を砕き、私の存在の核である高密度のエネルギー中枢へと深々と突き刺さったのだ。
私の存在を繋ぎ止めていた神聖な律動が、剣から流れ込む冒涜的な呪詛によって急速に書き換えられ、崩壊していく。
霊的な神経網が焼き切れ、かつて人間だった頃に感じたような、生々しく、耐え難い『激痛』が全身を駆け巡った。
「ンフフ、私の天使様」
リズヴェラが、耳元で残酷に囁く。
直後、彼女の左手から不可視の爆発――凄まじい念動の衝撃波が至近距離で放たれた。
「――ッ!!」
私の巨大な体躯が、木の葉のように宙に舞った。
黄金の鎧が軋みを上げる。私は無様に空中を吹き飛び、祭壇の残骸を粉々に打ち砕きながら、聖堂の冷たい石畳の上へと叩きつけられた。
視界が激しく点滅する。
エネルギーの流出が止まらない。私は立ち上がろうと力を込めたが、腕は麻痺したように動かず、槍を取り落とした手のひらからは、私の血とも呼べる黄金の光の粒子が絶え間なく漏れ出していた。
かろうじて顔を上げる。
私の視界の先、傷ついた胸元に、冷たい刃が突きつけられていた。
リズヴェラが、私を見下ろしている。
片腕を失い、肩からは私の槍による傷から黒い血を流しながらも、その姿は夜の闇を支配する女帝のように圧倒的だった。
彼女の眼差しには、勝者の驕りも、復讐の歓喜もない。ただ、果てしなく深い、底知れぬ哀愁だけが漂っていた。
「これは、あなたが予想できた運命かしら?」
彼女の唇から紡がれた言葉は、私の胸の傷よりも深く、私の存在の根幹を抉った。
私は何も答えることができなかった。
運命の紡ぎ手、神の理の代行者。そう自負していた私の驕りは、たった一瞬の『人間としての記憶』によって粉々に打ち砕かれた。彼女の言う通り、私は神の盤上で踊らされる、滑稽な駒に過ぎなかった。
リズヴェラは剣を引き抜いた。
私にトドメを刺すことはせず、彼女は背中の片翼と、残された魔力を用いて、空へと舞い上がった。
「またどこかで会いましょう」
彼女の姿が、弾丸のような速度で上空へと飛び立つ。
轟音と共に聖堂のドーム状の天井が完全に突き破られ、瓦礫が降り注ぐ中、彼女は星の瞬く夜空へと姿を消していった。
私は激痛を堪え、残された力を振り絞って立ち上がった。
消えかけの光の翼を無理やり展開し、彼女が空けた天井の大穴から、夜の虚空へと飛び出す。
だが、遅すぎた。
眼下に広がる街の闇を、そして果てしない星空をいくら見渡しても、彼女の禍々しい魂の光はすでにどこにも見当たらなかった。
完全に、見失ったのだ。
私は夜空の中心で、力なく静止した。
胸の傷からは未だに光の粒子が漏れ出し、私の力を少しずつ削り取っている。
完全なる敗北。神の軍勢の将であるこの私が、たった一人の悪魔に、それもかつて愛した女に後れを取った。
この事実が意味する重さに、私の思考は消滅寸前となっていた。
その時だった。
私の頭上から、キラキラと、微かな光を反射しながら落ちてくるものがあった。
私は無意識のうちに手を伸ばし、それを空中で掴み取る。
そして、ゆっくりと黄金の拳を開く。
「…………」
私の手のひらに乗っていたのは、先ほどリズヴェラが見せびらかしていた、あの古びた銀の指輪だった。
傷一つない。彼女が去り際に、わざと落としていったのだろう。
四百年前の誓い。
不器用な愛の証。
それが今、神の鎧に身を包み、敗北に打ちひしがれる私の手のひらで、冷たく、そしてどこか優しく輝いていた。
眼下に視線を移す。
リズヴェラが去ったことで、彼女が放っていた呪いの源泉が断たれたのだろう。街を覆い尽くそうとしていた禍々しい瘴気や、人々を石に変えていた呪詛が、朝霧が晴れるように徐々に消え去りつつあった。
呪いから解放された人々が、広場に、そして街のあちこちに倒れ伏している。
やがて、誰かが空を見上げた。
夜空に浮かぶ、私の姿。
傷つき、光をこぼしながらも、四つの翼を広げて空に佇む黄金の天使の姿を。
「おお……スロニエルグラフィエル様!」
「奇跡だ! 天使様が、我らをお救いくださったのだ!」
「偉大なる主の御使いに、讃美を!」
一人、また一人と、民衆たちが立ち上がり、私に向けて両手を合わせ、額を地面に擦り付けて祈りを捧げ始めた。
彼らの声は波のように広がり、やがて街全体から、私の名を称え、狂喜乱舞する大歓声となって夜空に響き渡った。
彼らは知らない。
私が彼らを救おうとしたわけではないことを。
彼らが祈りを捧げるこの天使が、悪魔の罠に落ち、無様に敗北を喫し、一命を取り留めただけの哀れな敗残兵であることを。
「スロニエルグラフィエル様! 万歳! スロニエルグラフィエル様! 万歳!」
波のように押し寄せる無知なる信仰の声。
私は、手のひらの銀の指輪を強く握りしめた。
神の理、運命の調和。それらが今、いかに空虚な響きであるか。
私はただ、狂騒する民衆を見下ろしながら、沈黙のまま、星々の冷たい光に包まれていた。




