Ⅱ
「敵だ! 見えない悪魔の攻撃だ! ルキア様をお守りしろ!」
クラウディウスの悲痛な叫びも虚しく、騎士たちは次々と不可視の刃によって蹂躙されていった。ある者は四肢をもがれ、ある者は見えない力で壁に叩きつけられて全身の骨を砕かれた。それは戦闘ではなく、一方的な屠殺だった。
「主よ、御光をもってこの邪悪を退けたまえ……ッ!!」
残された聖女ルキアが、震える手を組み合わせ、持てる魔力のすべてを振り絞り障壁を展開した。彼女の周囲に、半球状の青白い光の壁が展開される。
直後、刃がその障壁に激突した。
魔力の軋む音が響き渡る。ルキアは口から鮮血を吐き出しながらも、必死に障壁を維持しようとしていた。
「あぁ……偉大なるスロニエルグラフィエル様! どうか、どうか我らに救いの手を!」
ルキアは血走った目で私の黄金の背中を見つめ、懇願し、涙ながらに叫んだ。
その攻撃の正体がはっきりと見えていた。空間の位相をずらし、次元の隙間から放たれる魔力刃。それがどの角度から、どれほどの速度で飛来しているか、すべてを完全に把握していた。
私の手に持つ黄光の剣を一度振るえば、その魔力刃を相殺し、彼らを救うことは容易かっただろう。
「スロニエル……グラフィエル様……?」
私が助ける素振りを微塵も見せないことに気づいたルキアの顔が、絶望に歪む。
「ああっ……嫌……!」
助けを求めるためにルキアが一瞬、気を逸らしたその隙を、悪辣な者は見逃さなかった。
障壁の修復が追いつかず、最も脆弱になった箇所へと、ひときわ強大な不可視の一撃が突き刺さる。硝子が砕けるような派手な音と共に光の盾が四散し、無防備になったルキアの肉体へ、容赦のない呪力の嵐が直撃した。
防ぐ手段を失ったルキアの肉体に、無数の魔力刃が殺到する。
「アァァァァァァァァッ!!」
断末魔の叫びは一瞬で途絶えた。
聖女と呼ばれた女の体は、文字通りバラバラに吹き飛んだ。肉片と血液の雨が、聖堂の石畳に降り注ぐ。私の方へと飛散してきた血飛沫は、私の翼が放つ光の領域に触れた瞬間、浄化され、蒸発し消滅した。
静寂が戻り、血の匂いと、内臓の熱気が聖堂内に満ちる。
背後の喧騒が消え、再び聖堂に重苦しい静寂が舞い降りてきた。
残ったのは、呪いで石化した信徒たちと、今しがた散乱したばかりの騎士と聖女の新鮮な肉片だけだ。
「ククク……アハハハハハハ!」
不気味な、しかしどこか甘ったるい響きを持った笑い声が、聖堂の奥底から響き渡った。
空間が歪み、闇が凝縮して人の形を成していく。
そこに姿を現したのは、肉体を黒革の衣装で包み、背中から蝙蝠の禍々しい双翼を生やした女悪魔だった。
赤黒い唇を三日月のように歪め、魅惑的な黄金の瞳で私を見据えている。
「私の聖堂を穢したな」
空間そのものを震わせる神威の声で問うた。
「あら、そんな恐い声を出さないでよ。久しぶりの再会じゃない」
女悪魔――リズヴェラは、足元の血だまりを気にする様子もなく、愛おしそうに見つめながら、優雅な足取りで祭壇の前へと歩み出た。
彼女は元人間だった。
四百年前、私がまだ不完全な下級天使として地上を這いつくばっていた頃、私の傍らにいた女。私と彼女は、互いに心を通わせ、共に戦い、そして愛し合った恋人同士だった。
だが、長い年月はすべてを変容させる。
私は肉を捨て去り、高位の天使として神の玉座の一部となった。
彼女は業に呑まれ、肉体を異形へと作り変え、大悪魔として地獄の泥を啜る道を選んだ。
今、私たちははっきりと異なる絶対的な敵対者として、この血塗られた聖堂で対峙している。
「わざわざ会いに来てくれて嬉しいわ、私の愛しい天使様」
リズヴェラは恍惚とした表情で、私の黄金の鎧を見てくる。彼女の言葉の端々に、狂的な執着、そして私という存在を冒涜することへの悦びが入り混じっていた。
「でも、少し冷たくない? あなたを崇拝していた可愛い信者たちが死んじゃったのに。まあ、どうせ彼らの代わりなんて、地上の泥をすくえばいくらでもいるんでしょうけど」
彼女の滑稽な挑発程度、私の心は凪いだ水面のように静まり返っていた。
「なぜ、ここを襲った」
「あら、私が一方的に悪いみたいな言い方ね。心外だわ」
リズヴェラは嘲笑しながら、肩を竦めた。その仕草は、かつて人間だった頃の彼女の癖そのものだった。
リズヴェラはわざとらしく血のついた指先で自らの唇を撫でた。
「ここの人間たちが、私の『所有物』を盗んだのよ。だから、当然の権利として奪い返しに来ただけ。そしたら彼らが一丁前に魔法だの剣だので攻撃してくるものだから、つい身を守ってしまったの。ほら、私って、とてもか弱いじゃない? よく知っているでしょ? あれだけ守ってくれたんだから。これは正当防衛よ」
クスクスと、悪趣味な嘲笑が聖堂に響く。
泥棒に制裁を下す。悪魔の論理としては筋が通っている。だが、そんなことは私にとってはどうでもいい。私の領域が物理的・魔術的に汚染されたという事実のみが、彼女を排除する理由として存在していた。
「見てよ、これ。あいつら、こんな大切なものを地下の宝物庫に隠していたのよ。『スロニエルグラフィエル様の聖遺物』だなんて大層な名前を付けてね」
嘲笑うようにそう言いながら、リズヴェラはドレスの谷間から、一つの小さな物体を取り出して見せびらかした。
その先で鈍い銀色の光を放っているもの。
それを見た瞬間、私を取り巻く光の翼の明滅が、ほんの僅か、揺らいだ。
それは、細工の拙い、古びた銀の指輪だった。古ぼけた飾緒のついた指輪。不格好な細工が施された、何の魔力も帯びていないガラクタの装飾品。
四百年前。下級天使であった私が、人間の少女であった彼女に、不器用な誓いと共に贈った、安物の指輪。
それがなぜ、この大聖堂の宝物庫に『聖遺物』として納められていたのか。人間たちがどのような経緯でそれを手に入れたのか、私には知る由もない。
彼女にとって、遠い過去の、互いの体温すら感じ合えた時代の思い出の品。
リズヴェラは、その指輪を私に見せびらかすように、指先でコインのように転がし弄んだ。
それを見せびらかすリズヴェラの瞳には、かつての愛憎と、私に対する挑発の光が混ざり合っていた。
無言のまま、ただその飾緒のついた指輪と、それを持つリズヴェラの顔を見つめる。私の内側に渦巻く膨大なエネルギーの海に、果たして四百年前の感情の残滓が波立っていたのかどうか、それは己でも分からなかった。
周囲を白く染め上げる光の海だけが、静かに、ただ静かに広がり、永遠にも似た沈黙が聖堂を支配した。
「ねえ、覚えてる? あなたが私に……」
私は、リズヴェラの言葉の続きを聞くことはなかった。
私の心でいかなる思考が支配し、いかなる情動の残滓が処理されたのか、それを語る言葉を私は持ち合わせていない。
ただ、私は右脇に携えていた輝く長大なエネルギーの槍を、静かに構えた。
「……あら」
リズヴェラは嬉しそうに笑い、漆黒の魔力を全身から立ち昇らせた。
莫大な神気が槍の穂先に収束し、空間そのものが軋みを上げる。私は一切の躊躇なく、かつて愛した女の心臓に向けて、極大の神気と共に、黄金の槍を投擲した。
雷光をも凌駕する黄金の流星が、深い闇を切り裂き、一直線に飛翔した。轟風と閃光が、静寂の聖堂を薙ぎ払う。




