Ⅰ
四百回の星の巡り、あるいは定命の尺度にして四世紀という歳月は、悠久なる天の歴史においては瞬きほどの時間に過ぎない。しかし、その短い時の間に、かつて地上の泥に塗れ、人々に寄り添う最下級の使い――天使階級であった私は、今や遥かなる高みへと昇り詰めていた。
私の本質は、脈打つ心臓や流れる血を持たぬ、圧倒的で聖なる理の旋律が齎すエネルギーの奔流そのものだ。
かつて不完全な物質の体を引きずり、この地上を歩んでいた時期があった。土の汚れに顔をしかめ、血を流し、痛みという原始的な感覚に縛られていた、酷く矮小な時代。
魂は次元の階梯を昇り詰め『座天使』へと至った。
いまや私の実体は、高密度の霊的エネルギーの渦に過ぎない。この地上に顕現するために、私は仮初めの形を纏っている。天上の工房で鍛え上げられた、意志を持たない黄金の全身鎧。それが現在の私の『輪郭』であった。
その黄金の背からは、私自身の本質であるエネルギーが、四つの巨大な翼となって噴出している。物質界の法則を無視して展開されるその光の翼は、人間どもの脆弱な網膜では到底直視できるものではない。直視すれば、彼らの眼球はたちまち焼き切れ、脳は溶岩の如く沸騰するだろう。
私は両脇に、同様に純粋な光の奔流から成る黄色く輝く長大な槍と、大剣を携えていた。
武器というよりも、裁きを下すための概念の結晶だ。
「スロニエルグラフィエル様……! おお、偉大なるスロニエルグラフィエル様……!」
天上から次元の膜を突き破り、私が降り立ったのは、私を祀るために人間どもが建造した巨大な大聖堂の前の広場だった。
聖堂を中心としたこの街は、泥濘のような「呪い」によって急速に汚染されつつあった。瘴気は建物の石組みを腐らせ、空を淀ませ、街全体を死の領域へと引き摺り込もうとしている。
私の降臨と同時に、周囲の空間は圧倒的な白い光の海へと変貌した。夜の闇も、街を覆い尽くそうとしていた禍々しい瘴気も、私の翼が放つ暴力的とも言える純白の輝きによって強引に塗り潰され、浄化という名の消滅を強いられている。
絶望に咽び泣きながら私の降臨を懇願する聖職者たちの祈りが、細い糸のように立ち上ってきていた。
平伏し、私の名を口にしているのは、この地の信仰を束ねる聖女ルキアと、彼女を護衛する聖騎士クラウディウスをはじめとする武装した者たちだった。
彼らの祈りの声が天に届き、私が降臨の願いを聞き入れたと、彼らは本気で思い込んでいるのだろう。
滑稽なことだ。
私がここへ赴いたのは、彼らの悲鳴じみた懇願が耳障りだったからではない。ただ、私に帰属する領域――すなわちこの大聖堂に、許しがたき『汚染』が生じているのを感知し、自らの意志でそれを排除しに来たに過ぎない。祈りなど、風が枯れ葉を揺らす音となんら変わりはなかった。
天の頂から真っ直ぐに降下し、聖堂の前の広場へと降り立った私は、無機質な黄金の面貌を静かに巡らせた。
「おお……奇跡だ……主の御使いが、我らを見捨てず降り立たれた……!」
「伏せろ! 御顔を直視するな! 目を焼かれるぞ!」
光の海と化した広場の中で、クラウディウスが部下の騎士たちに怒鳴り、自らも額を石畳に擦り付けるようにして激しく平伏している。聖女ルキアは涙と泥に塗れた顔を伏せながら、狂乱したように祈りの言葉を紡ぎ続けていた。
「スロニエルグラフィエル様……! 至高なる座天使様! どうか、どうかこの呪われゆく街をお救いください!」
ルキアの悲痛な叫びが響く。彼女の豪奢な法衣は泥と血に汚れ、その顔は恐怖に歪んでいた。騎士もまた、主君への絶対の忠誠を示すように、武器を地に置き、震える声で讃美の言葉を口にしている。
街は呪いに飲み込まれつつあった。
広場の外縁からは、どす黒いヘドロのような泥濘が這い寄り、建物や路地を侵食し続けている。呪いに触れた市民たちが、生きたまま石のようになり、あるいは溶け崩れて異形の肉塊へと成り果てていく光景が広がっていた。
彼らは私に救いを求めている。この絶望的な状況を打破し、街を、人々を救済してほしいと。
虫が足元で鳴いている。その程度でしかない。
四百年前の私であれば、あるいは彼らに手を差し伸べたかもしれない。だが、個々の人間の生と死は、大河の一滴ほどの意味も持たなかった。ただ世界の循環の中で生まれては消えゆく、極めて短命な塵の輝きに過ぎないのだ。
私は眼前にそびえる大聖堂へと黄金の面頬を向けた。
大聖堂の荘厳な意匠は見る影もなく、巨大な青銅の扉は紫黒色の脈打つ呪いの肉腫によって完全に塞がれていた。そこから漏れ出す腐臭と魔力は、尋常な悪魔のそれではない。
私はゆっくりと、歩を進めた。
黄金の具足が石畳を踏み砕く。私の一歩ごとに、翼から放たれる白い光が波紋のように広がり、周囲の呪いを音を立てて蒸発させていく。
「お待ちください、スロニエルグラフィエル様! 聖堂の中はすでに……!」
呪いで塞がれた扉の前に立つ。
巨大な樫の木の扉は、呪いの塊によって完全に封鎖されていた。まるで巨大な醜悪な肉腫が扉にへばりついているかのような惨状である。
私は腕を上げることも、武器を振るうこともしなかった。ただ、私の内なるエネルギーを僅かに指向させる。
強固な呪いの肉腫もろとも、青銅の扉が内側へ向けて紙屑のように吹き飛んだ。粉砕された扉の破片が聖堂内に散弾のように降り注ぐ。
私は躊躇うことなく、開いた暗黒誘う入り口へと足を踏み入れた。
「ス、スロニエルグラフィエル様! 我々も!」
私が無言で前進を続けるのを見て、聖女ルキアと聖騎士たちが慌てた様子で立ち上がり、私の背後から恐る恐るついてきた。私の翼が放つ光の領域内にいれば、呪いに侵されることはない。彼らはそれに気づき、藁にもすがる思いで光の尾を追ってきたのだ。
聖堂の内部は、凄惨を極めていた。
色鮮やかだったステンドグラスは砕け散り、神聖な祈りの場は、地獄の窯の底のような様相を呈していた。長椅子はひしゃげ、祭壇は冒涜的な血と汚物で穢されている。
ここに逃げ込んでいた信徒たちの姿。彼らは呪いによって完全に固まっていた。ある者は祈りの姿勢のまま灰色の石膏像のように変じ、ある者は内側から何かが破裂したようなおぞましい姿勢で硬直している。恐怖に顔を歪めたまま時間が停止した彼らの姿は、この空間を支配する呪いの凶悪さを如実に物語っていた。
私は聖堂の最奥、祭壇の裏側に潜む『歪み』を捉えていた。
その時だった。
背後で、不可視の刃が空気を切り裂く、鋭い音が聖堂内に響き渡った。
「ガ、アァッ……!?」
短い絶叫。
確認するまでもなかった。私の背後、つまり私が切り開いた光の道を歩いていた聖騎士の一人、ヴァレリウスの首が、刃によって唐突に刎ね飛ばされたのだ。
血柱が天井に向けて噴き上がる。重い甲冑に包まれた首なしの死体が、膝から崩れ落ちて床を血の海に変えた。
「ヴァ、ヴァレリウス!? なんだ、何が起きた!!」
「敵襲! 見えないぞ、円陣防御!」
クラウディウスが剣を抜き放ち、捉えきれていない敵に向かって絶叫する。
だが、奴の攻撃は終わっていなかった。
空気を切り裂く微かな風切り音。
クラウディウスの隣にいた別の騎士の胴体が、見えない巨大な獣の爪で薙ぎ払われたかのように、真二つに両断された。内臓が床に飛散し、生々しい死臭が空間に充満する。




