翠月館での暮らし・二
火事のあとの手続きは、試験の合間にも何日か続いていた。その日も必要な用事を終えて翠月館へ戻ったころには、夕暮れもとうに過ぎていた。
玄関ホールに入ったところで、応接室からくぐもった話し声が聞こえてきた。
まだ占いの相談者がいるらしい。
その声が近づいてくる気配がして、依は慌てて左手にある階段を数段駆け上がった。二階まで上がりきってしまえばいいのに、足音を立てるのも気になって、折り返しの踊り場で足を止める。手すりの格子越しに玄関ホールの様子を窺うような格好になって、中途半端に隠れてしまう自分が恨めしい。
現れたのは、五十代半ばほどの女性だった。上質な羽織ものを重ねた和装姿で、歩くたびに裾が揺れる。華美ではないのに、手元の和装バッグひとつとっても、普段から良いものに囲まれている人なのだとわかる。
「本当に頼りになるわ、弓月先生。おかげで息子の縁談もまとまりそうで!」
弾んだ声とともに歩く女性のあとを、千早夜も続く。
依のいる階段の踊り場からだと、女性の姿は階段脇の腰壁に遮られて見えなくなってしまった。しかし千早夜は、応接室側に少し残る位置で立ち止まっていて、やわらかな笑みで応じているのが見える。
「それは何よりです」
「でも、まだ二十三だなんて、とても見えないわあ。うちの息子と比べたら大違い。先生のほうが、よっぽどしっかりしていらっしゃるんですもの!」
花が舞うように上機嫌だった声が、そこでわざとらしいほどしんみりした調子に変わる。
「あの子のことになると、どうしても心配しすぎてしまうの。こんな母親、鬱陶しいでしょう?」
その言葉に、千早夜は一瞬だけ間を置いた。
それから、依のいる位置からでもわかるくらい、やわらかく整った笑みを浮かべる。
「そこまで気にかけてもらえるのは、息子さんにとっても心強いことだと思いますよ」
「まあ! お上手なんだから」
女性はころころと上品に笑った。
千早夜はその笑い声を受けても表情を崩さず、静かに一礼する。身のこなしには無駄がなく、優雅で、場慣れした落ち着きがあった。
そのまま女性が翠月館を出ていくまで、千早夜は丁寧に応じつづけた。相談者を相手にする千早夜を見るのは初めてだったが、最初に会ったときと変わらず、やはり隙がなかった。
扉が閉じ、玄関ホールがしんと静まり返る。依が言葉を発するタイミングを見計らっていると、千早夜がこちらを見上げて微笑んだ。
「おかえり、依」
「……た、ただいま、です……」
「隠れなくてもいいのに」
「邪魔するのも、悪いので……。えっと……すごく信頼されてて、人気、なんですね」
「そうかな。最近は少し、忙しくなってきたけどね」
苦笑まじりの声は、嬉しさよりもどこか困ったようにも聞こえた。
千早夜はそこで、思い出したように依を見る。
「……依、今日もやっておかないと」
階段の下まで来た千早夜が、踊り場にいる依へ手を差し出す。
「手を、いいかな」
じっとその手を見つめたまま、依はすぐには動けなかった。
けれど、取らなければ困るのは自分のほうだ。依はゆっくり階段を下り、差し出された手にそっと触れた。
ぱりっと静電気が走るような感覚のあと、じんわりと温もりが広がって、身体がふっと軽くなる。
「……今日も憑いていたんですか?」
「今日も、っていうより、毎日憑いているんだよ。依には」
千早夜は、依の手首にある数珠へ視線を落としたまま続ける。
「その数珠は、廃ビルにいたような強い霊は通さないけど、弱い霊までは防ぎきれないみたいだからね。外に出れば少しずつついてくるし、放っておくと、前と同じようになる」
千早夜が顔を上げて微笑む。
「でも、もう不幸は起こらないよね」
「は、はい。まずスマホの電源が落ちなくなって……前みたいなことは、ぜんぜん……起きなくなりました」
「よかった」
そう呟く千早夜の声は、ひどく優しい。
身体は軽くなったはずなのに、胸の奥には、さっき感じた冷たさがまた広がっていく。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「……私、何もできてないのに、こんなふうに毎日いろいろしてもらって、その……迷惑じゃ、ないですか」
千早夜はわずかに目を瞬いた。
「迷惑? どうして?」
「だって、私……まだ何も返せてないし、ここにいるだけで、手ばかりかけてもらっていて……」
口にしてみると、それは思っていた以上に情けない言葉だった。
その言葉に、千早夜は一瞬だけ間を置いた。
それから、やわらかく整った笑みが、ゆっくりとそこに浮かぶ。
「そういうことなら気にしなくていいよ。何か不便なことがあれば、遠慮なく言って。依が困らないようにするから」
依は息を呑んだ。
――同じだ。
あの和装の女性に向けた笑顔と、寸分たがわない笑顔が目の前にある。
思い返せば、あのやわらかく整った笑みを、依はこれまでも何度か見ている。優しいのにどこか隙がなくて、自分の入る余地がない顔だった。
まだ数日だから、ぎこちないのは当たり前なのかもしれない。時間が経てば、そう思っていたけれど、たぶん違う。
私は、千早夜さんの中では、あの人と同じ。祓いの仕事を手伝う相手というより、気を配って、丁寧に遇しておく相手。
あの笑顔はきっと、千早夜さんの中で出来上がった、客人に向けるための顔なのだ。
「じゃあ、今日はこれで終わりだね」
千早夜が依の手を離し、そのまま応接室のほうへ歩いていく。
今すぐここを出ていけるわけではない。千早夜に祓ってもらわなければ、せっかく手に入れた普通の生活は、また簡単に崩れてしまう。
けれど、ただこのまま丁寧に扱われて、必要なときだけ手を取られるだけなのも、どうしようもなく苦しかった。ここに置いてもらっているのに、自分の居場所はどこにもない。
考えるより先に、依は千早夜を追っていた。
「あっ、あのっ……!」
離れかけていた足音が止まり、千早夜がこちらを振り向いた。自分の手が震えている。
「……どうしたの?」
「その……」
ほんの少しでいい。仕事がないのなら、せめてそれ以外のところで、もう少しこの家の中に居場所を作れないだろうか。そうしたら、ここにいる理由を、少しは自分でも信じられる気がした。
「……ご飯。……夜ご飯を……一緒に、食べませんか」
「……僕と?」
意図を測りかねるような間のあと、一言そう言われて、息が止まりそうになる。
どうにか頷いたものの、千早夜の返事はない。断り方を考えさせてしまったのかと思って、依は慌てて顔を上げ、言葉を継いだ。
「じっ、実は、食材を少し多めに、買ってあって。これから作るつもりで、あの、千早夜さんがまだご飯の前ならなんですけど、嫌じゃなければ……一緒に、どうかなって」
千早夜は依がそこまで早口でまくしたてると思っていなかったのか、目を丸くしていた。そして、言葉の意味を確かめるようにゆるく目を伏せ、顔を上げて微笑む。
「嫌じゃないよ。……うん。一緒に食べようか」




