翠月館での暮らし・一
午前六時。
依は翠月館二階の客間で目を覚ました。
ベッドから下りて厚手のカーテンを開けると、窓の外には家々の屋根と外壁が見え、そのあいだを細い路地が縫うように伸びている。道を白黒の猫が横切り、どこかで朝の仕込みが始まっているのか、家々の間から白い湯気が立っている。
神楽坂の朝は、静かだった。
「……まだ、へんな感じ」
小さく呟いて、部屋を見回す。
八畳ほどの客間には、アンティークベッドも、窓際の丸テーブルと椅子も、ベッド脇には小さなランプもある。どれも最初からここにあったものらしく、綺麗に整っていた。数日前まで木造アパートで暮らしていたはずなのに、いまこんな場所で朝を迎えていることが、まだ自分のことのように思えない。
とはいえ、そんなことを考えている暇はない。今日も大学がある。
依は部屋の隅にあるワードローブを開けた。
そこには、依のサイズに合わせた新品の衣服が、ビニールカバーを掛けられたままずらりと並んでいる。下段には靴や鞄の入った箱まで揃っていた。
それは初日のことだった。
アパートが全焼し、手荷物しか持っていない依が、身の回りのことをどうしたものかと途方に暮れていた時、千早夜は依が言い出すよりも先に、『生活に必要なものは手配したから、明日まで待ってね』とだけ告げた。
翌日、上品なスーツ姿の女性たちが館を訪れたかと思うと、依の身体に合わせながら、小一時間で服をはじめとした生活必需品を選び、そのまま一式を置いていった。
後になって胸元の社章を思い出し、依はようやく、彼女たちが百貨店の店員だったのだと気づいた。
ワードローブの外には、入り切らなかった箱がいくつも積まれている。
『好きに使って。足りないものがあれば言ってね』
足りないものなど、思いつかない。それに、これまでの大学生活で、いやその前の生活でも、ファストファッションの服を着回していた依にとって、見るからに高級品のそれらを好きに使えるわけがなかった。
依は並んだ服の中から、なるべくシンプルで普通に見えそうなものを選んだ。生成りのニットに、淡いブルーグレーのフレアスカート。姿見に映った自分は、見慣れないくらいきちんとして見えた。
一階へ降りて身なりを整えると、依はそのままキッチンへ向かった。
この館での暮らしの中で、いちばん衝撃的だったのは、食事まわりかもしれない。
「……あらためて見ると、すごいなあ、これ」
冷蔵庫の扉を開け、中を見ながら依は呟いた。
そこには、栄養ゼリーのパックが紙箱ごと二段、三段に積まれて押し込まれている。
ここへ来た初日のことだ。空腹もあって、依は千早夜に、いつも何を食べているのかと尋ねた。すると彼は、この冷蔵庫の中を見せながら、さらりと言ったのだ。
『食べたいものが特にないから、いつもこういうのなんだよね』
大学生活で切り詰めた暮らしには慣れていた依でも、こういう食事――というより、栄養補給の仕方は思いつきもしなかった。千早夜曰く、これで生活に必要な栄養は足りているらしい。
思わず絶句した依を見て、千早夜は少し考えるようにしてから言った。
『ちゃんとしたご飯、食べたいよね。それなら、シェフを呼んでもいいよ』
ちゃんとしたご飯が、どうしてシェフを呼ぶ話になるのか、依にはよくわからない。
ただ、自分の食生活はこれで済ませているくせに、依には別だと思っているらしい。その気遣いに、ただただいたたまれなくなる。
『……違うんです、そうじゃないんです。もう、なんていうか……泊めてもらうだけでも十分なのに、これ以上そんなに良くしてもらったら心臓がもちません。ご飯だけは私に……作らせてください』
『そう。わかった。依の好きにしていいよ』
たまらず願い出た依に対する千早夜の反応は、拍子抜けするほどあっさりしていた。お礼を言おうと口を開きかけたところで、千早夜は笑顔のまま続ける。
『僕のぶんは気にしなくていいからね。必要なお金は置いておくから、好きに使って』
『……えっ』
依としては、この館の食事を引き受けるつもりで言ったのだが、千早夜にはそうは伝わっていなかったらしい。
『依が大変でしょ』
その一言で、依が思い描いていた食卓に、やんわりと線を引かれた気がした。それすら依を気遣っての言葉なのだと思うと、『一緒に食べましょう』とはますます言えない。依は『わかりました』と返すことしかできなかった。
それが、数日経った今も続いていた。
応接室の隣にあるダイニングでひとり朝食を済ませ、鞄を持って玄関ホールへ向かう。扉に手をかけたところで、上から声が落ちてきた。
「おはよう。もう出る?」
振り返って見上げると、二階の手すり越しに、千早夜がこちらを見下ろしている。
千早夜は既に相談者を迎えられるくらいの身なりを整えていて、朝の気怠さなど微塵も感じさせないその完璧な姿は、浮世離れすらしていた。
「お、おはようございます。はい……今日は用事があるので、夕方遅くなるかもしれないです」
「そうなんだ。わかった」
千早夜は、依が出かけるときにはこうして必ず声をかけてくれる。困らないように、必要なものはいつも先に整えられていた。
「じゃ、じゃあ……いってきます」
千早夜は、やわらかく整った笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい」
依が誰かと暮らした記憶は、曾祖母とのものしかない。その頃の生活は決して贅沢ではなかったが、そのぶん距離が近くて、温かかった。同じ寒さの中で朝を迎え、同じ食卓を囲む。そういうことが、当たり前にあった。
ここでの生活は、何ひとつ不自由なく快適だ。けれど、千早夜の気遣いすら、依には迎え入れるものというより、もてなしてもらっているだけのようでどこか落ち着かなかった。
まだ転がり込んで数日だ。初対面同士でぎこちないのは当たり前なのかもしれない。もう少し時間が経てば、あの空気にも、そのうち慣れるのだろうか。
大学のある飯田橋までは、翠月館から歩いて三十分ほど。
今日は期末試験の最終日だった。
試験を終え、学生たちが次々と席を立っていく講義室の中で、依はひとり天井を振り仰ぎ、深く息を吐いた。
――ちゃんと最後まで受けられた。ただそれだけなのに、じんわりと胸にしみる。
「依ー。試験おつかれー」
声のするほうを見ると、女子学生が二人、こちらへ歩いてくる。
肩までの明るい髪をした美緒が、いつもの軽い調子で手を振っている。隣には、黒髪をハーフアップにした、落ち着いた感じの紗季だ。
「あ、おつかれ」
「どうだったー?」
美緒が聞く。
「うん。悪くなかったと思う」
「わー、さすが。私、ぜんぜんだったもん」
「美緒も少しは依みたいにちゃんとやったらいいんじゃない?」
「試験終わってそんなこと言う〜? いいもん。私、別に特待じゃないし」
美緒が頬を膨らませ、紗季が小さく溜息をつく。いつもの調子の言い合いに、依はあはは、と軽く笑った。
その流れのまま、紗季が気づいたように依の顔を見て、首をかしげる。
「あれ、そういえば依が普通に試験受けられるなんて、もしかして初めて?」
「え?」
どきり、と心臓が跳ねた。
「だって毎回、試験の日に限って体調崩したり、電車止まったり、何かしらあったじゃん」
美緒が依を覗き込むように見て、紗季も「たしかに」と小さく頷く。
「というか、試験以外でもいろいろあったよ。いつも大変そうって感じでさ。今回そういうの、全然なかったよね」
詳しい事情を知らない二人が見ても、はっきりわかるくらいには変化しているらしい。千早夜に霊を祓ってもらってから、依の不幸はきれいさっぱり消えていた。けれど、その理由を素直に話せるはずもない。
どう説明したものかと考えているうちに、二人の視線が自然と依に向いているのに気づいて、依はおずおずと口を開いた。
「実は……占いのお店に行ってきて」
二人はお互いを見合った後、「あー!」と指を差し合った。
「行ったんだー! やっぱ当たるでしょ、あそこ」
美緒が嬉々とした目をして言う。
「う、うん。もう、すごく……当たっちゃって。運が悪いのも、気にならなくなるくらい」
教えてもらった店と間違えて千早夜のところへ行ったとは、言えない。
「え、じゃあもしかして依の服、いつもと感じ違うのって占いのせい?」
紗季が依を観察するように眺め、つられて美緒も上から下へと視線が動く。
アパートが燃えて、服が全部灰になった、とも言えなかった。
「……そ。そうなんだよね。シンプルな服が良いよ、って言われて、さっそく試してるっていうか」
二人は一瞬ぽかんとした顔で依を見た。
「へー……。めちゃくちゃ信じてるじゃん」
「入れ込みすぎないでね。変なツボとか買わされたりさ」
「真面目な依に限ってそれはなくない? っていうか、普通そこまでならないって。ねえ?」
普通。
二人が何気なく口にしたその言葉に、依はますます本当のことを言い出せなくなって、ぎこちなく笑うことしかできなかった。
「そ、そうだよ、もちろん……」
何も起きない、平穏な日常。
ついこのあいだまで、あれほど欲しかったものを、依は今、たしかに手にしている。
何も起きないだけで充分なはずだったのに、いざそれが叶ってみると、胸の奥には安堵だけではないものが残る。千早夜の祓いによって成り立っている、借り物みたいな日常だからだろうか。
それならせめて、祓いの仕事はきちんとやるつもりでいた。そういう約束で、自分はあの館に置いてもらっているのに、千早夜の言っていた通り、あれから一件も依頼はない。
このまま何もできないままでいたら、自分はただ助けられているだけになる。
そう思うと、胸に残っていた何かが、じわじわと冷たくなって自分を埋め尽くしていくような気がした。
役に立てていない。このままでは、ここにいていい理由まで曖昧になってしまう。
今日で大学も終わりだ。明日から春休みに入れば、大学へ通う時間さえなくなる。あの館で過ごす時間が、今よりずっと長くなる。
そうなったとき、自分はどういう顔をして、あそこにいればいいのだろう。




