廃ビルの子ども・四
千早夜の気配が依から離れ、それきり何も聞こえなくなった。どれくらい時間が経ったのかはわからない。
美紀の泣き声だけが胸の奥に残っていて、依は目を閉じたまま、じっと待つことしかできない。
やがて、千早夜が戻ってくる気配とともに、すぐそばで声がした。
「これだよね」
依は目を閉じたまま、こくりと頷く。
目を瞑っていても、なぜかそれがぬいぐるみだとわかった。差し出されたそれに指先が触れた瞬間、古びた布の感触が、ふかふかとしたぬいぐるみのものに変わった気がした。
『見つかったよ、美紀ちゃん』
『わあ……お姉ちゃん、すごい』
依の手の中にあったぬいぐるみは、美紀の腕に渡った途端、記憶の中の姿を取り戻した。耳のところが少しだけくたびれた、ピンクのうさぎのぬいぐるみだった。
美紀はそれを胸にぎゅっと抱きしめると、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。くるくると回って、無邪気にはしゃぐ喜びが、依にも伝わってくる。
『……よかったね』
しかし美紀は、ひとしきり喜んだあと、思い出したように『お母さん……』とあたりを見回した。そこに依しかいないとわかると、不安げな表情で聞いてくる。
『お母さんは?』
『お母さん……お母さんは……たぶん、美紀ちゃんのお家にいるんじゃないかな』
美紀はぬいぐるみに顔を埋め、黙り込んだかと思うと、ゆっくりと顔を上げて聞く。
『おうち、帰りたい。……お姉ちゃん、帰り道しってる?』
帰りたい。
本当に家に帰りたいという意味なのか。でも、それだけとも少し違う気がした。
「この子が……おうちに帰りたいと、言っています」
「……帰りたい、か」
その声には、わずかに戸惑いが混じっていた。
「霊は、未練があるからその場に留まる。……だから、そう言うということは、その未練がなくなったんだ。もうここに留まり続ける理由がないなら、それは……霊が還るってことだよ」
還る――未練を終えて、この世から離れていくことを、千早夜はそう呼ぶのだろう。
「私は、この子を還す方法がわかりません」
依は右手を差し出した。先ほどは痛みでとても触れられなかったが、今ならきっと。
「……お願いします」
空気が、わずかに張り詰める。千早夜のためらう気配がした。そして、おそるおそる依の手に重ねるように触れる。
そこから、温かいものが流れ込んできた。さきほどまでの痛みが嘘のように、やわらかな光が胸の奥へ満ちていく。強張って冷たくなっていたものがひとつずつほどけて、春の日だまりみたいにあたたかい。
美紀ちゃんの身体が、さらさらと光の粒になって溶け、自分の中から離れていくのがわかった。美紀ちゃんはもう泣いてはいなかった。うさぎのぬいぐるみを胸に抱いたまま、やっと迎えが来た子どものように、ほっとした顔で笑う。
よかった。見つかってよかった。この子はもう、このビルの屋上でひとりぼっちのまま泣かなくていいのだ。
依は、消えていく美紀ちゃんの姿を笑顔で見送った。
『……ばいばい、美紀ちゃん』
『ありがとう』
小さな声が、頭の中に響いた。
その一言で、夢のような感覚がぷつんと途切れ、依の目が開く。途端に身体がずしりと重くなって、膝から力が抜けた。
「あっ」
支えきれず崩れ落ちる依を、千早夜が正面から抱きとめた。
「……よかった。戻ってこれたね」
耳元で千早夜の声がする。遠くでは電車と車の音、そして街のざわめきが戻ってきていて、依は我に返った。いつの間にかとっぷりと日が暮れ、六階の室内は街灯の明かりがぼんやりと入り込んでいるだけで、ほぼ真っ暗だ。
「……でも、ああいうのは困るよ」
苦笑まじりの声が、もう一度耳をかすめる。
「す、す、すみません……! あ、あの、た、立てます、立てます!」
慌てて離れようとして、ふらついた足が床に散らばっていた床材かなにかに引っかかって、尻餅をついた。
「あうっ!」
「大丈夫? 暗いし、気をつけてね」
ビルを出ると、冬の夜風が頬を撫でた。
駅へ向かって流れていく人影、絶えず行き交う車のライト。ついさっきまでの出来事など最初からなかったように、ただ目の前に街の夜が広がっている。
「大丈夫?」
ぼんやりしていた依を気にしたのか、千早夜が顔をのぞき込んだ。
「ちょっと、疲れただけで……大丈夫です」
依はそう言って、なんとか笑ってみせる。
風邪を引いたときみたいなだるさは残っていたが、歩けないほどではない。
「……ぬいぐるみは、ビルの中に置いてきたんだね」
言われて初めて、依は自分の手元を見下ろした。
さっきまで確かに抱えていたはずなのに、そこにあるのは、少し泥で汚れた自分の手だけだった。
「……美紀ちゃんに、ちゃんと返せたので」
依はその手を、そっと握り込んだ。
最後、美紀はぬいぐるみを抱えていた。一緒に持っていけたのなら、よかったのかもしれない。
「そういえば、ぬいぐるみは……どこにあったんですか?」
依が顔を上げて聞くと、千早夜は「ああ」と小さく頷いた。
「ビルの壁沿いにある配管の隙間に引っかかってたよ」
「配管の隙間……」
「簡単に手の届く場所じゃなかったから、子どもが見つけられなくても無理はないと思う」
千早夜は特に苦労した様子もなくそう言うが、依はふと、コートの袖口に目が留まる。ぬいぐるみを取るときにでもついたものだろうか。うっすら黒い擦れ跡がついている。
「……ありがとうございます。手の届きにくいところまで、探してくれたんですね」
「大したことしてないよ」
千早夜は微笑むと、行き交う人の流れに目をやった。
車のライトが流れるなか、少し伏せた横顔から何を考えているのかは読み取れない。
やがて白い息をひとつ吐いて、依のほうへ顔を向けた。
「霊を引き寄せるだけじゃなくて、ああして話を聞いて、未練を終わらせることができる人を……僕は初めて見た」
千早夜の黒に近い茶色の瞳が、まっすぐに依を見ていた。
それまでどこかやわらかかった雰囲気が少しだけ変わって、その目には静かな力があった。
そんなふうに言われたことなどなかった依は、思わず肩をすくめる。
「そ、そんな……私は、ただ……」
「さっき、部屋を貸すのは一泊だけって話だったけど……しばらく居る気はない?」
「しばらく……?」
顔を上げると、千早夜は少しだけ首をかしげて微笑んでいた。
「そう。君がいれば僕は祓いの仕事ができる」
かすかに眉を下げたまま、それでも目は逸らさずに続ける。
「今日みたいに痛い思いをさせることがあるなら、簡単に頼んでいい話ではないと思っているけど……それでも、いてくれると助かるから」
「助かる……」
たしかに痛みはあった。しかしそれは一瞬のことで、最後には美紀を還すことができた。あの子の言葉を聞けたことまで含めると、ただ辛かっただけのこととはどうしても思えない。
それに――。
千早夜の言葉に、ここにいてもいいのだと許されたような気がして、胸の奥が明るくなる。そう思ってしまう自分に、依は小さく戸惑った。
同情だけで差し伸べられた手ではないということはわかる。しかし同時に、こんな都合のいい話があるのだろうか、という理性も働く。
「……確かに私は、すごく助かるんです。当てがなかったから……でも、その家賃とかは……」
「いらないよ」
千早夜はあっさりと言い切った。
「部屋も食事も、生活に必要なものはぜんぶ用意する。祓いの仕事を手伝ってくれた分のお金も、ちゃんと払う」
言い方は穏やかなのに、迷いはない。
依にとってはもったいなさすぎるほどの条件だったが、今の依には、この手を離してほかへ行けるほどの余裕もなかった。
「……わかりました、よろしくお願いします、弓月さん」
そう言うと、千早夜は口元をほころばせた。
「千早夜でいいよ」
「あ、それなら……私のことも、依でお願いします。置いてもらう身で、さん付けされるのは、その……気が引けますから」
「わかった」
「あ、あと……大学の講義は休めないので、仕事はなるべくそれ以外の日でお願いしたいです」
そこまで言ってから、はっとした。
こんな立場で、条件みたいなことを言っていいのだろうか。
「あ、いえ、今のは、その……」
千早夜は、息を漏らすように笑った。
「そんなに構えなくていいよ。祓いの依頼は、そうそう毎日来るものじゃないし、しばらく休んでたから、今は占いの相談のほうが多いくらい。だから仕事が来るまでは、依の好きにしていいよ」
依は小さく「はい」と頷いた。
その声は夜風に紛れてしまいそうなほど小さかった。千早夜は気づいた様子もなく駅のほうへ歩き出し、依もそのあとを追った。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!




