廃ビルの子ども・三
「……美紀ちゃんという、女の子が、かくれんぼをして……それで……わたしを見つけてって……」
千早夜はすぐには反応しなかった。むしろ、咎めるような声で言った。
「それ以上、踏み込んだらだめだよ」
「……え」
「今の鳴海さんは、ただ憑かれているだけじゃない。霊の記憶まで拾ってる。……たぶん、霊の未練が強くて同調してるんだと思う。触れたときに痛かったのもそのせいだ」
依が言い返そうとするより先に、千早夜は続けた。
「でもその霊はもう死んでいる。……祓うしかないんだよ。そのまま同調していたら、たぶん君は憑り殺される」
そう言って、千早夜がもう一度こちらへ手を伸ばしてくる気配がした。
「待ってください。この子は、ただ見つけてほしいだけです」
自分でも驚くほど、声がはっきり出ていた。
「霊は、未練があるって言いましたよね。それなら、この子の望みを叶えてあげれば、きっと。この子、ずっと言ってるんです。わたしを見つけてって……」
千早夜が、短く息を吐いた。
「今、鳴海さんが見ている記憶は、辛いものなのかもしれない。でも、その霊の死因は転落死。当時、小さいけど新聞にも載ったと聞いているよ。……それなら、身体だって供養されているはずだよね」
言い聞かせるような、静かな声だった。
「見つけるものは、もうないよ」
千早夜の言葉に、反論できなかった。
「だから、終わらせよう。君に痛い思いをさせるのは本意じゃない。……でも、憑り殺されるよりはましだから」
確かに、理屈としてはそうだ。この子は、自分自身を見つけてもらいたいわけじゃないのか。それとも、死んだことに気づかず、まだ隠れているつもりなのか。依にはわからないことだ。
けれど、胸の奥に張り付いた『見つけて』という声だけは、どうしても消えなかった。
ただ泣きわめいているだけじゃない。何かを探して、必死に助けを求めている。そんな切実さが、痛いほど伝わってくる。
もし本当に探しているものがあるのなら、それを聞けるのは今だけかもしれない。ここで祓ってしまえば、この子の願いが何だったのか、もう確かめようがなくなる。
それに――今この声を聞いているのは、自分だけなのだ。
「……美紀ちゃんと、話をしてみます」
「話す? 霊と?」
「はい。見つけてほしいものが美紀ちゃんの体じゃないなら……それが何なのか、直接聞いてみます」
依は目を閉じたまま、心の奥に向かって問いかけた。
――何を、見つけてほしいの?
言葉にするのは怖かった。答えが返ってくることも、返ってこないことも。ただ、祈るように、『美紀ちゃん』と何度も心のなかで呼びかけた。
すると次第に、どこからかすすり泣くような声が聞こえてくる。依は暗闇の中、声のする方へ波長を合わせるように、そっと意識を寄せていった。
徐々に淡い光の粒が浮かび上がり、焦点が合っていくように、暗闇の中にひとりの女の子の姿が現れた。
白いチェックのワンピース。美紀ちゃんだ。俯いて、肩を小さく震わせている。
依が近づこうとする気配に気づくと、美紀は怯えたように身をすくませた。
『……だれ?』
『大丈夫。怖くないよ』
依は美紀の目線に合わせるようにしゃがむ。
『どうして、泣いているの?』
『……しちゃった……。お、し……落としちゃっ、たの』
美紀はしゃくりあげながら、たどたどしく答える。
『うさぎ、の』
そう美紀が付け加えるのを聞いて、依は気づく。美紀が抱きしめていたはずのぬいぐるみが、なくなっている。
『本当だ。困ったね、どこ行っちゃったんだろう。……覚えてる?』
急かすことなく、言葉を待つような依の声に、美紀はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
『かくれんぼしてたの……』
同時に、美紀の記憶が依の脳裏にも鮮やかに蘇った。
屋上に出て、給水タンクの裏へ隠れたあと、息を潜めているうちに眠くなってしまったのだ。目が覚めたときには、もう日は落ち、あたりは真っ暗になっていた。
母はいない。誰かが来る気配もない。迎えにはこないのだとわかった瞬間、淋しさと、嘘をつかれた痛みで胸がいっぱいになる。
そんな美紀の目に、ふとビルの下から漏れてくる光が映った。誘われるように、屋上の縁へ近づいていく。そこは子どもの背丈でも簡単に乗り越えられてしまうくらいの、大人の腰ほどしかない低いコンクリートの壁だった。
ビルの上からのぞいた街は、赤や緑の灯がきらめき、流れる車のヘッドライトが川みたいに続いていた。駅のほうからは、ガタンゴトンという音とともに、明るい窓を連ねた電車が滑り込んでくる。
『きれい……』
美紀は、腕の中のうさぎにもその景色を見せてあげようと、縁の細いコンクリートの上へ座らせた。しかし手を離した瞬間、ぬいぐるみはくたりと倒れ込むようにバランスを崩してしまった。
あ、と思ったときには、もう遅かった。
うさぎは、そのまま壁の向こうへ落ちていった。
美紀は壁から身を乗り出してのぞき込んだが、暗闇の中では、いくら目を凝らしても何も見えなかった。
『お母さんが、はじめて買ってくれたの……なくしたら、怒られちゃう……っ』
美紀は壁をよじ登った。
下を見ようとしたときに、足が滑った気がして――
そこで、美紀の記憶は途切れた。
『うわあぁぁぁん……っ!』
美紀が堰を切ったように大声で泣きだした。
『ずっと探してるのに……どこにもないの……っ! それなのに、知らない人たちがドスンドスンってきて、ここを壊そうとするの! やだ、やめて……っ。わたしのうさぎ見つけるまで、誰も、なにもしないでぇ……っ!』
依は胸が締めつけられる思いだった。
ずっと、たったひとりで。見つけられないぬいぐるみを探して、この暗い屋上をさまよい続けていたのだ。
美紀の言う「知らない人たち」とは、おそらくこのビルに入ってきた解体作業員たちのことだろう。美紀には、自分の居場所を壊そうとする怖い大人たちにしか見えなかったのだ。
依は美紀の両肩に手をのせた。
『大丈夫……見つけるから。少しだけ、待ってて』
依は、泣きながら見上げる小さな瞳をまっすぐ見返して、うなずいた。
「……屋上の縁の、下……」
依がぽつりと呟いた瞬間、すぐそばの空気がわずかに動いた。千早夜が、息を呑むように身じろぐ気配がする。
「この子が探しているうさぎのぬいぐるみ……縁の向こうへ落としてしまったんです。見つけてあげなくちゃ」
「待って」
千早夜の声が、即座に重なる。深く、息を吐くのが聞こえる。
「その状態で歩いたら危ないよ。……僕が行くから」




