廃ビルの子ども・二
六階まで上がりきると、そこは住居スペースのようだった。低い棚や崩れた収納家具が残り、生活の痕跡がわずかに残る。夕日が低い位置にあるせいか、割れた窓から差し込む光は床まで届かず、足元は影に沈んで見えづらかった。
千早夜が天井を見上げて、目を細める。
「屋上にいる。……ここからなら、いけるかな」
依もつられて天井を見上げたが、黒い染みのようなものが見えるだけだった。
「始めるけど、いい?」
「は、はい。えっと……なにをしたら……?」
「僕の考え通りなら、ここにしばらく立っていてくれるだけでいいよ。僕は少し離れているから」
千早夜に促されるまま、依は部屋の中央に立った。
目を瞑ると心もとなくて、気づけば両手を胸元でぎゅっと握りしめている。
遠くから、街の喧騒がかすかに聞こえてくる。車の音。どこかで鳴るクラクション。ここがまだ代々木の街の中なのだと、忘れかけていた――
……が、何も起きない。
肌を刺すような寒気も、嫌な気配も感じなかった。気づかないうちにもう憑かれているのだろうか。そう思ってそっと薄目を開けると、千早夜は少し離れた場所に立ったまま、天井を見上げていた。
「……警戒されてる」
低くそう呟くと、千早夜は依のほうへ戻ってきた。
「やっぱり、その数珠だ」
「え?」
「その数珠が、守ってるんだと思う。弱い霊までは防ぎきれなくても、こういう強くはっきりしたものは、近づきにくいんだろうね」
千早夜はつかの間、逡巡するように目を伏せたあと、気遣うような声音で言った。
「肌身離さずにって言ったばかりだけど……今だけ、外してくれるかな」
「……あ。……わ、わかりました」
口ではそう答えながらも、左手から数珠を外すとき、たまらない心細さが押し寄せる。だがここまで来て「嫌だ」と拒否もしたくはない。
依から数珠を受け取ると、千早夜は再び数歩、距離を取った。
「これなら、きっと」
そう呟いて振り返った千早夜の姿を最後に――ふっと、視界のすべてが暗転した。
かすかに聞こえていた街の喧騒がぴたりと止み、自分が立っているのか座っているのか、それすらわからなくなる。
直後、冷たく重い石を背負わされたような感覚に襲われる。身動ぎすらできないほどの重圧で、目を開けようとしても、まぶたが張り付いたように動かなかった。
「……っ」
喉の奥から、声が漏れる。
「……さん? 鳴海、さん?」
闇の中で、千早夜の声だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
声だけではなく、すぐそばに千早夜がいる、という気配まで伝わってくる。
依は鉛みたいに重くなった唇を、どうにか動かした。
「私……霊に……?」
「……うん。君に霊が憑いた。……いま祓う」
そう言って、依の手に彼の指が触れる。
次の瞬間、触れたところから鋭い痛みが走った。身体の内側から引き裂かれるような痛み。鋭利で、攻撃的で、すべてを刈り取るような圧倒的な力が流れ込んでくる。
――痛い、痛い、痛い、痛い!
依は耐えきれず、咄嗟に千早夜の手を激しく振り払った。すぐそばで、千早夜の息を呑む気配がする。
同時に、鮮烈な映像がなだれ込んできた。
視界に広がったのは、見覚えのある薄暗がりの階段。
ふと視線を落とすと、自分の身体が、五、六歳くらいの子どものものになっていた。
白いチェックのワンピースを着て、小さな腕にうさぎのぬいぐるみを抱え込んでいる。手持ち無沙汰に少し黒ずんだうさぎの耳をねじっていた。
待っている。ずっと、誰かを待っている。そんな重たくて寂しい感情が、依の心に直接、べったりと張り付いてくる。
やがて『自分』は立ち上がり、とてとてと下の階へ降りて、重い扉を開けた。
そこは、依が最初に見た一階のバー――その、カウンターの内側だった。
自分の小さな足が、勝手にカウンターを抜けて店のフロアへと歩き出す。マスタード色のソファに座る客と、くゆる紫煙。その間を縫うように進んで、客へグラスを渡している背中を見つける。肩のあたりで黒髪を巻いた女性だ。
『お母さん、まだ?』
水玉模様の赤いブラウスを着た女性は、振り返ると困ったような顔をした。そして、そっと手を引いてカウンターの内側へ自分を連れ戻すと、『ごめんね。もう少しだから』と優しく頭を撫でてくれた。
「――鳴海さん」
強めに、名前を呼ばれた。映像が消えて暗闇が戻ってくる。
「……大丈夫? どうしたの」
今のは何だったのか、自分でもよくわからないまま、それでも順番に起きたことを答えようとする。
「弓月さんに触れたとき、痛みが、あって」
千早夜が言葉を失ったように黙った。
「でも、すぐに何か……見えたんです。……女の子が……」
「……見える?」
「あ、また……」
依の言葉を遮るように、再び映像が視界を塗り替えた。
『もう待てない! 早くして、お母さん!』
カウンター裏で、女性――この子の母親だ――が、駄々をこねる自分の小さな肩を押さえながら、必死になだめている。
――おい、なんでガキがここにいる。うるせえぞ!
フロアの奥から飛んできた客の怒声に、母の肩がビクッと跳ねる。
『美紀、いい子だから、言うことを聞いて。もう少しなの』
言い聞かせるような口調が、ただただ腹立たしかった。そう言って、母はいつも自分を待たせ続けて、気づけば朝になってしまうくせに。
『いや。いや! 前は絵本読んでくれるって言ったのにしてくれなかった! 前は遊んでくれるって言ったのにしてくれなかった!』
本当はそんなこと、どうでもよかった。ただ、どうしても自分を一番に優先してほしくて、困らせれば、自分だけを見てくれると思ったから言ってしまったのだ。
困り果てた母が、ついには折れて「わかったから、もう帰ろう」と言ってくれる。それを期待していたのに、母が放った言葉は、それとは違うものだった。
『……かくれんぼしよう。お母さんが鬼になるから、ちゃんと隠れて見つからないようにして。上手に隠れられたら、お母さんからご褒美あげる』
『……かくれんぼ?』
唐突に提案された遊び。それと、母からのご褒美という言葉が興味をそそられる。
『そう、遊んであげられなくてごめんね、でも、それなら今、かくれんぼして遊ぶから』
『……ほんと? ごほうびってなに?』
『ちゃんと隠れられたら教えてあげる。ほら、数を数えるから、隠れる準備しないとだよね?』
ひどく悲しげに笑ったように見えた母が、いきなり「いーち、にーい」と数を数え始めて、咄嗟に隠れなきゃ、と思った。
ドアから階段へ飛び出して、どこに隠れようかとあたりを見回す。すこしの焦りと、期待が入り混じった幼い気持ち。
めまぐるしく変化する感情の波の中で、依はこの子、美紀こそが、自身に憑いている霊だと確信した。
美紀の視界が、ビルの中をあちこちに移動する。簡単には見つかってはいけない。かといって、他の階は上がっても上がっても知らない大人たちがいた。次第に階は進み――とうとう、屋上へ出た。
夕闇に沈みかけた、まだ白さを残す真新しいコンクリートの床。風に煽られて、どこかで鉄柵が小さく鳴る。
美紀はぬいぐるみを抱えたまま、見上げるほど大きな給水タンクの裏へ回り込み、身をかがめて息を潜めた。
――わくわくする。早く見つけて。そんな純粋な期待が、じわりと胸に広がる。




