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廃ビルの子ども・一

 依は千早夜のあとについて、代々木駅まで来ていた。

 駅の目の前にある、車の流れが絶えない大通りと、何本もの電車が行き交う線路に挟まれた区画の一番端が、依頼の場所だという。

 道路の向こうに、六階建ての雑居ビルがあった。壁面は長年の経過を思わせる煤けたセピア色が侵食していて、ところどころ黒ずんでいる。一階から三階まで、テナントが入っていたであろうオレンジや白色の文字看板の名残があって、屋上の縁には、錆びた鉄柵が切れ切れに突き出している。

 その向こうでは、塔のような近代的な高層ビルが、夕暮れの赤みを帯び始めた藍色の空にライトアップされている。そのせいか、このビルだけが昭和のまま時を止めているように見えた。

 依が足を止めて見上げている間に、灰色のロングコートを着た千早夜は、すでにビルの前まで歩を進めていた。

 鍵を取り出して扉を開ける千早夜に、声をかける。

「……入っていいんですか?」

「前に、入ってもいいとは言われていてね。……実際に入るのは、僕も今日が初めてだけど。目的の場所は最上階」

 ギギギ、と鈍い音を立てて、古い金属扉が開く。中に入ると、そこから先は外の喧騒も電車の音も遠のいて、少し湿ったような、静かな空気が肌を撫でた。

 ひび割れた窓からは夕日の光がわずかに差し込み、室内に舞う埃をきらきらと浮かび上がらせている。

 一階は、バーだったのだろうか。剥がれた床材の下から灰色の下地がのぞく床には、毛足の長いマスタード色の一人掛けソファがいくつも無造作に転がり、どれも埃をかぶって白っぽくなっていて、背の低いテーブルや座面の破れたスツールは、フロアの隅へ押しやられるように一緒くたに積み上げられていた。その奥にはL字のカウンターがあり、さらに向こうには、割れたグラスや皿を残したままの食器棚が見えた。

 誰もいなくなってずいぶん経つはずなのに、ほんの少し前までそこに人の気配だけが残っていたようで、依はなぜだか胸の奥がしんとした。

「あの……ここは……」

 隣にいる千早夜に声をかけると、千早夜は既にカウンター奥の階段へ目を向けていた。

 彼は一度だけ依へ視線を返すと、歩き出しながら「こっち」と促す。依は遅れないようあとについて、階段を上がりながらもう一度尋ねた。

「ここは、どういうところだったんですか」

「見ての通り、解体を待つだけのビルだよ」

 依が少し黙ると、千早夜が肩越しに振り返る。

「何か気になる?」

「あ、いえ……なんでもないです」

 本当は、ここで働いていた人たちのことを聞こうとしたが、そんなことを今ここで千早夜に聞いても仕方がない気がして、飲み込んだ。

 階段を上りながら千早夜は続ける。

「ここで工事を始めようとすると、必ず事故が起こる。機材の故障は当たり前で、けが人も続いた。……誰もいないのに背中を押された、って言う人もいたみたい」

「そんな……。大丈夫だったんですか、その人たち」

「そこまでは詳しく聞いてないけど。これは霊の仕業だよ。外から見た限り、子どもの霊がいる」

「あの、私……なんの役に立つんでしょうか? お祓いの手伝いって言っても、霊だって見たことなくて……」

「霊が見えないのは問題じゃないよ。祓うのは僕がやるから。……足元、気をつけてね」

 千早夜が肩越しに、表面が大きく削れてモルタルがのぞいた踏み板を示す。

 気づけば、二階のフロアを通り過ぎていた。続く階段は少し暗く、踏むたびに黄緑色のくすんだ踏み板がぎしりと音を立てる。踊り場の壁には、剥がれかけたテナントのポスター跡が残っていて、塗装の薄れた金属の手すりも、掴むあたりだけは長く使われてきたぶん赤茶けている。

「……本来なら、僕一人で済む話なんだけどね」

 前を向きながら、千早夜は自嘲気味に言う。

「以前、ちょっとした事故に遭ってしまって。……それから、力の加減が利かなくなったんだ」

「力?」

「そう。祓う力を抑えられない。必要以上に強く出てしまうから、僕が近づいただけで霊が逃げる」

 三階にさしかかる。

「でも、君は違った。少し外を歩くだけで霊を引き寄せるのに、僕がそばにいても、霊が逃げなかった。……君がいれば、祓えるかもしれないと思ったんだ」

 千早夜が霊を祓ったと言ったときに、握手を求めてきたことを思い出す。手に触れた瞬間、静電気のような痛みとともに、身体の重さがふっと抜けた。あれが祓われたということなのだ。

「そ、それって……私が霊をおびき寄せるっていうことですか?」

「正確には、君が霊をその身に降ろすことになる。……接触さえできれば、霊は祓えるから」

 降ろす――霊を憑かせる、ということだろうか。

「私、そんなのやったことなくて……」

 四階まで来た。開いたフロアの奥には、事務机とキャスター付きの椅子が取り残されていて、傾いた夕日が、それらも、先を行く千早夜も、淡いオレンジ色に染めていた。

 その光の中で、千早夜が振り返る。

「イタコって、知ってる?」

「……知ってます。名前だけなら」

 青森では、有名な話ではある。

 千早夜は小さく頷き、階段を上がりながら言った。

「霊を呼んで、自分の身に降ろす人たちのこと。……その数珠、イタコが使う類のものに見えたんだ。君の体質も合わせると、たぶんその系統の家なんだろうと思った」

 階段を上がる足が止まった。

「まさか、私が……? その系統の家って、もしかして曾祖母もってことですか?」

「むしろ、その数珠を曾祖母さんからもらったなら、その可能性のほうが高いと思う」

 依は黙り込んだ。大学に入るまで、曾祖母とはずっと二人で暮らしていた。けれど、曾祖母がイタコのようなことをしているところを見た覚えはない。ただ、優しい人だった。何かあるたび依の手を取って、大丈夫だよと励ましてくれたことは、よく覚えている。

「でも、全然、そんなの……」

「自覚がなくても、おかしくはないと思うよ。君には霊が見えないし、誰かに教わっていなければ、そういうものだと気づかずにいることもある」

 曾祖母が亡くなる前のことが頭をよぎりかけたところで、千早夜が続けた。

「だから霊を降ろすっていうのも、君は意識しなくても霊を引き寄せる体質なんだから、できてもおかしくないと思う」

 千早夜はそう言うが、依が霊を引き寄せ、いったんその身に引き受け、そこへ千早夜が触れて祓う――頭では理解できても、これまで霊に憑かれていたことすら実感の薄い依にとって、あらためて「降ろして祓う」と聞かされると、胸の奥に冷たいものが落ちた。

「……大丈夫なんでしょうか」

 五階を過ぎたあたりで、千早夜が足を止めて向き直る。

 依を見つめてから、わずかに首を傾げた。

「……やめたい?」

「え?」

「怖いなら、やめようか」

 眉を下げながら問われ、依はとっさに首を振った。

「ち、違うんです。ちょっと不安になっただけで。霊って言われても、あまり想像ができなくて……何をされるのか、とか……」

「そうだよね、わからなくて当然だ」

 それからまた前を向き、階段を上りながら続ける。

「たいていの霊は、そこにいるだけだよ。未練とか、強い感情に引っ張られて動けなくなっているだけで、害をなさないものも多い。でも、感情が強くなればなるほど、そのぶん人への影響もはっきり出る」

 ごくり、と喉が鳴った。

「害って、どのくらい……?」

「霊によって違う。今回の霊は子どもだし、手に負えない類ではないと思う。けど、思いの強さは人生の長さと比例するわけじゃないから、油断はできない」

 千早夜は一拍置くと、ふっと淡く笑って言った。

「……稀に、災害みたいな害をもたらす霊もいる。神の祟り、なんて言われるようなものだね。そういうのは祓えない。……今の僕たちには関係のないことだけど」

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