神楽坂の占い館・三
依は必死に走った。
スマホの画面は真っ暗なままだが、改札は通れる。交通系ICの支払いだけは、電源が落ちてもしばらく使えるのだ。そんな目に何度も遭ってきた依は、それを身をもって知っていた。
電車に滑り込み、アパート最寄りの志茂駅へ引き返す。往復で一時間近くかかるが、今はそんなことを言っていられない。とにかく金をかき集めて、あの館へ戻らなければならない。
駅を出て、いつもの道を抜け、アパート前の角を曲がった、その瞬間だった。
「危ないから下がって!」
「近づかないで!」
警察官が腕を広げて進行を阻んだ。
その後ろの道には路面が見えないくらいの人だかりができていた。様子を窺うような人々の頭の隙間に、真っ赤な車――消防車が見えた。
「え?」
一台だけではない。何台もの車が列をなし、伸びたホースが放水のアーチを描いている。
視線を上げた先には、もうもうと立ちのぼる白い煙。依の住む木造アパートが、激しい炎に包まれていた。鼻を刺す焦げ臭い匂いが、遅れて喉の奥まで届く。
依の部屋がある一階部分は、すでに骨組みしか残っていなかった。
「うそ……」
ほとんど無意識に声が出た。人混みをかき分けて進もうとしたところを、警察官に腕を掴まれる。
「あの、わ、私、ここの……」
「住人の方ですね! 怪我はありませんか?」
「は、はい……あ、でも、お金が……」
「だめです、近づかないで! 貴重品は諦めてください!」
警察官に強く引き止められ、それ以上は、呆然と燃え上がるアパートを眺めることしかできなかった。
『死に直面するか、あるいはすべてを失うようなことが起こる』
ふと千早夜の言葉が浮かぶ。すごい、的中してる……などと、現実逃避みたいなことを考えてしまう。
警察官の話では、正式な確認は明日以降になるという。
では、今日はどこで寝ればいいのだろう。そこまで考えて、依ははっとした。財布も鞄も、全部、千早夜のところに置いてきたままだ。
依は引き返さざるを得なかった。
再び神楽坂の翠月館へ戻った頃には、十五時半を回っていた。
「……増えてる」
玄関ホールで、魂が抜けたようにうなだれる依を見て、千早夜はそう呟いた。
「ごめんなさい。……お金は、今はありません。でも、ちゃんとお支払いします。少しだけ待ってください」
悲痛な声で言う依に、千早夜は眉をひそめた。
「今は、そんなこと言ってる場合じゃないね」
「っ……本当に、今は、なくて……」
千早夜は首を振った。
「お金の話じゃないよ。鳴海さん、たった一時間くらいのあいだに、憑いている霊が増えてる」
依は顔を上げる。
「増えて……さっきも、それ」
「うん。……僕には霊が見えるから。それがさっきよりずっと多くなってる」
さっきまでなら、そんなことを言われても信じられなかったかもしれない。
けれど、アパートが燃えたあとでは、否定する気力すら残っていなかった。千早夜の声があまりにも落ち着いていたせいもある。
「ここまで早いとは思わなかった。……今すぐ祓ったほうがいい」
「い、今すぐなんて無理です。お金もないのに、お祓いになんて行けません……!」
「僕が祓う」
意図を捉えきれず、依は千早夜を見返した。
「……本当は、祓い屋だから」
「はらいや……? 占い師じゃなくてですか……?」
「占いもしてるけど、本業はそっち」
「じ、じゃあ、さっきはなんでお祓いに行けなんて……」
「休業みたいなものだったから。それに、鳴海さんに憑いていたのは、最初に見た限りでは弱い霊ばかりだった。普通なら、誰が祓っても間に合うものだったんだけど」
千早夜は小さく息を吸って言った。
「でも、もう僕が祓う。占いのぶんのお金も、今は考えなくていいよ」
「え……?」
「そのうえで、ひとつお願いがある」
助けると言われたばかりなのに、お願い、と続けられて、依はうまく反応できなかった。それを断れば、何か別の形で返さないといけないのだろうかと、そんな不安がよぎる。
「実は、祓いの仕事が入っていて。それを手伝ってほしいんだ」
「てつだうって……私がですか」
「鳴海さんの体質が必要になるかもしれない」
霊を祓う仕事。体質が必要になる。
どちらも、ついさっきまでの自分には縁のなかった言葉ばかりだ。
どう考えても普通ではないし、怪しくもある。
それでも、ここ最近の理不尽な出来事が多すぎたせいか、依はこんなときでも妙に冷静に考えている自分に気づいた。
今日泊まるところがない。明日には警察に行かなければならない。手元には一万円と、口座に少しあるだけで、その先の見通しはまるで立たなかった。
依は、あらためて千早夜を見た。
霊が見えるというのも、祓い屋だというのも、本当かどうか依にはわからない。自分に、人を見る目があるとも思えない。
ただ、嘘を言っているようには見えなかった。
大学の友人に事情を話せば、何日かは泊めてもらえるかもしれない。だがそうなれば、今までのことを根掘り葉掘り聞かれてしまうだろう。話せば、奇異の目で見られるのではないか。それが怖かった。
「私……アパート、燃えてしまいました。弓月さんの言った通りでした」
依の告白に、千早夜はわずかに目を見開いた。
「そう。……それなら、無理にとは――」
「だから、どこでもいいので、一泊だけ……お部屋を貸していただけませんか。そうしたら、お仕事も受けます」
依からの逆交渉に、千早夜は目を瞬く。
しかしすぐに依の言葉を受け止めるように、静かに目を細めた。
「……わかった。いいよ、それで」
「できれば、今日のうちがいいんです。明日にはまた、アパートのことで来てくださいって警察の人に言われていて……」
「僕はいいけど、鳴海さんは大丈夫?」
依は頷いた。
「……お願いします」
「じゃあ、よろしくね」
そう言いながら、千早夜が握手を求めるように右手を差し出す。
依がその手を握った瞬間、鋭い静電気のような痛みが走って、びくっと肩が震えた。
直後、少しだけ身体が軽くなったような感覚があった。周りまで明るくなったように思えた。
「今のは……?」
依がゆっくり顔を上げると、千早夜は手を離し、ふわりと笑った。
「君に憑いていた霊は祓ったよ」
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。




