神楽坂の占い館・二
通されたのは、先ほど隙間越しに覗いた部屋だった。暖炉の中では、ガスストーブの火が小さく揺れている。
「紹介が遅れました。僕は弓月千早夜です」
三人掛けの革張りのソファに依が通され、その向かいの一人掛けソファへ千早夜が腰を下ろす。重厚なセンターテーブルの上には、彼が当たり前のように出したコーヒーとお茶請けがある。金線の縁取りが美しい白磁のカップと、小ぶりながらも上品な最中がきれいに並んでいる。
「な、鳴海依です」
つられて背筋を伸ばし、依も名乗った。
脱いだコートの下は、白のカットソーに紺チェックのロングスカート。目立たず、どこへ行っても失礼にならない、依なりに無難さを選んだ格好だった。
「ご友人から聞いているかもしれませんが、改めて説明しますね。僕の占いは陰陽道をベースにしたオリジナルです。未来を断言するというより、今の状況と流れや時期から読んで、これからどう動くべきかを助言します」
改めて正面から向き合うと、その整った顔立ちがよくわかる。黒に近い茶色の瞳はやわらかいのに、そこに浮かぶ笑みも物腰も、まるで隙がない。
「料金についても……お聞きになっていますか? うちは時間制で、少し分かりにくいそうなので」
依はひとまずコーヒーに口をつけながら、思い出す。たしかインスタに書いてあった。十分二千円。払えなくはないが、依の懐事情としては長居はできない。一時間以内で、終わらせないと。
「はい、聞いてます、お願いします」
「では、始めますね」
千早夜は膝の上で軽く両手を組み、すっと姿勢を正した。それだけで、場の空気が少しだけ張り詰める。
「お名前は……先ほど伺いましたね。生年月日を教えてください」
「二〇〇五年十二月二十二日生まれ、です」
「ありがとうございます。うん……」
千早夜が依をじっと見つめる。
ただ目が合っているだけなのに緊張して、依は紛らわすように口を開いた。
「あの……それだけで、わかるんですか?」
すると千早夜は微笑んだ。
「全部ではないですけど」
そう前置きしてから、千早夜は「たとえば」と続けた。
「生まれは東京のようですが……四歳か、五歳くらいの時に北……青森へ移り住んで、今年から東京へ来られた」
依は目を見開いた。
「えっ、はい、そうです」
「東京へ来られる前に、ご家族……お母様ではなく。お祖母様か、もっと上の世代の方から、もらったものがあるはずです。今も持っていますよね」
これも当たっていた。
「はい……あの、これです。……曾祖母の形見なんです」
依は左手を浮かせて袖口を少し引き上げた。そこから覗くのは、黒くごつごつとした、不揃いな石で繋がれた不格好な数珠だ。
それを見た瞬間だけ、千早夜がわずかに目を細めた気がした。けれどすぐに、「そうですか」と優しい声で頷く。
「形見であればなおさら、大切にしたほうがいいですね。なるべく肌身離さずにいてください」
「わ、わかりました」
「それで、占いたいことはなんでしょう」
占いといえばタロットなどの道具を使うものだと思っていたが、千早夜はテーブルに何も出さないまま、すらすらと答えてみせた。
生年月日と名前だけで、ここまでわかるものなのだろうか。
よくある占いとはどこか違う気がしたが、今の依には、そのくらいのほうがむしろ頼もしかった。
「それが……ばかばかしいことかもしれないんですけど、最近、あまりにも運が悪くて」
「東京に来てからですよね。……徐々に、起きることが大きくなっていませんか?」
「そ、そうです! そうなんです!」
依は思わず身を乗り出す。
東京に来たばかりの頃は、シャーペンの芯がやたら折れるとか、何もない平坦な道で躓くとか、そのくらいの本当に小さなことだった。だから最初は、単についてないだけだと思っていた。
「でもだんだん……パソコンが落ちるとか、スマホの電源が切れるっていうのは当たり前になってきて。お財布も今年に入ってもう二回も落として……もともとお金はそんなに入ってないんですけど、バイトも、私がシフトに入る時だけレジが連続して故障するからって理由でクビになってしまったんです。それに、ここ最近では……」
言ってしまっていいのだろうか。考えすぎだと笑われたら――。
口をつぐんだ依のその先を、千早夜が引き取った。
「身の危険を感じるようなことが起きる?」
依は顔を上げた。しかしすぐに視線を落とし、小さく頷く。
「……階段ではよく足を踏み外すし、上の階から落ちてきた植木鉢が、肩先をかすめるみたいに落ちてきたことも。つい先日は、信号無視の車が目の前を横切って、あと少しで轢かれるところでした」
思い返せば、偶然では片づけにくいことが続いている。けれど、意識しすぎているだけかもしれない。たまたま、で済むことだって、まだあるはずだった。
「自分を不幸体質なんて呼びたくありません。でも、私が普通じゃないなら、それを直す方法を知りたいんです。だから……占いならわかるかなって」
「……気になりますよね。起きていることに説明がつかず、偶然なのか、何か原因があるのかもわからない。そういう状態が続くのは、かなり苦しいと思います」
「……はい」
千早夜は小さく頷き返し、少しだけ間を置いてから、穏やかな声で続けた。
「ただ、これは占いだけで解決できる話ではありません」
「……か、解決じゃなくてもいいんです。せめて、ちょっとでも普通になりたいので……占いでこう動くといいとか、自分で気をつけられることとか。これ以上、変に見えないための対策だけでも」
「ご自身の身の安全よりも、周囲から『普通』に見えることのほうが、今は気になっている……ということでしょうか」
「え。だって……それは……」
そう言い換えられて、依はすぐに返せなくなった。
そんなつもりで言ったわけではない。けれど、否定もしきれない。
「変、ですか……?」
千早夜はやわらかく微笑んだ。
「そんなことないですよ。人の悩みは、それぞれですから」
ただそう言われただけなのに、依は思わず胸をなで下ろしていた。
「でも、そうですね……対策が知りたいということでしたら……」
千早夜は逡巡するように目を落とした。
静まり返った応接室に、ホールクロックの針が時を刻む音が響いている。
やがて、千早夜は依の目を見て言った。
「さきほども言った通り、占いでは解決できません。でも、原因には心当たりがあります。……鳴海さんは、霊のようなものを信じますか? あるいは、見たことは?」
「れい……? お化けってことですか? 見たこと、ありません。……子どものころは、不思議なこともあったかもしれないですけど……。普通、いないですよね」
半ば自分に言い聞かせるように聞くと、千早夜はわずかに苦笑した。
「そう思いたい気持ちは、わかります」
「え……?」
「でも、います。鳴海さんに起きていることは、ただ運が悪いのではありません。鳴海さんに憑いた霊が引き起こしています。簡単に言えば、霊媒体質です。霊を引き寄せやすいんですよ」
息をつく間もなく告げられた、あまりにも現実離れした説明に、依は目を見開いた。
「霊媒……体質? そんな、そんなわけないじゃないですか。だって、こんなに運が悪くなったのは東京に来てからで……!」
首を振る。
いきなりそんなことを言われて、素直に認められるはずがない。認めてしまえば、お前は普通じゃないと言われたのと同じだった。
「ゆ、弓月さんは、どうしてそれがわかるんですか? わ、私が……霊媒、体質だって……」
「こういうことは、見ればだいたいわかるんです」
千早夜はまっすぐ依を見ていた。
笑みは残っていたが、その目は少しも冗談を言っていない。
「すぐには信じられないと思います。ですが、憑いている霊さえ取り除けば、不幸は起こらなくなりますよ」
「……お祓いに行け、ということでしょうか……」
手を握りしめ、絞り出すように聞く。
千早夜はすぐには答えず、言葉を選ぶようにわずかに目を伏せた。
「一般的には、そういうことになりますね」
依は顔を上げた。
一般的には。
それ以外にどういう方法があるのだろう。そう思う間もなく、千早夜は続ける。
「除霊は、早いほうがいいでしょう。今のうちならまだ手が打てますが、このまま放っておくと、いずれ危ういどころでは済まなくなります。本当に死ぬか、あるいは、すべてを失うようなことが起きても、おかしくない」
依は息を呑んだ。
そんなに危ないものなのか。お祓いとは、いくらくらいかかるものなのだろう。
不安ばかりが先に立ったまま、それでも依は小さく頷いた。
「……わかりました」
「他に、聞きたいことはありますか?」
穏やかな笑みを戻した千早夜にそう聞かれて、依は少し迷った。
不運の原因については、もう答えてもらった。けれど、せっかく占いに来たのだから、最後にひとつくらい、普通の占いらしいことを聞いてもいい気がした。
「えっと……私の勉強の、ことなんですけど。これから大学の期末試験もあるので、悪くないといいなって」
「それなら……試験は心配しなくていいですね。直前まで落ち着かないことはあっても、積み重ねてきたものが無駄になることはありません」
「本当ですか」
「はい。……ただ、気になるのはそのあとですね」
「そのあと……?」
「学業というより、人とのことです。もし今後、長らく会えていない人にまた会える機会があったら、そのときは、ご自身の言葉で話せることを、ちゃんと話しておいたほうがいいでしょう」
そこで一度、千早夜は言葉を切って、微笑む。
「でも、最後に決めるのは鳴海さんですよ」
怖い話ばかり聞かされたあとだからだろうか。最後に添えられたその言葉が、本気で依を案じてくれているように聞こえた。
「……ありがとうございます」
素直な言葉が、自然と口からこぼれた。
千早夜は部屋の隅のホールクロックへ目をやり、「三十四分ですね」と言った。
三十分ちょっと。十分二千円としても、六千円と少しだ。
「それでは……六万八千円です」
「……へ……?」
今、彼はなんと言ったのだろう。
反応の鈍い依に、千早夜は初めて、ほんのわずか怪訝な表情を見せながら繰り返す。
「一分二千円で、六万八千円になります」
「ろくま……え?」
一分。二千円。
頭の中で数字がまるで噛み合わない。詐欺、ぼったくり、という物騒な単語もよぎったが、おそらく違う。淹れたてのコーヒーも、お菓子も、先ほどの親身な助言の全部が、「正規料金ですけど」とでも言いたげだった。なにより、料金について尋ねられたときに、自分は詳しく聞かなかった。
とはいえ、金額が金額だ。最後の抵抗みたいに、依はか細い声でたずねる。
「あ、あの……十分二千円ってインスタに書いてませんでしたか……?」
「僕、そういうのはやっていないのですが……」
千早夜は言いかけて、思い当たったように目を細めた。
「そういえば、この近くにも占いの店があるって、お客さまが言っていましたね」
スマホが生きていれば確かめられたが、もはやそんな必要はない。完全に勘違いしていた。
「……お手持ち、足りませんでした?」
依の沈黙を察したのか、千早夜が窺うように言う。
冷や汗が一気に全身から吹き出す。どうしよう。一万円しかない。銀行口座にも、家賃の引き落としのあとだから、二万円あるかどうか。全然足りな――いや、待て。
依は、はっと顔を上げた。
「あっ……アパートに五百円玉貯金があります! それと、お金下ろしたら……た、足りると思います!」
千早夜は目を丸くした。
「……え?」
「ちょっと、取ってきます!」
「……今から?」
予想すらしていなかったのか、敬語も忘れた千早夜には目もくれず、依は慌ててコートを羽織った。
「鞄と財布を置いていくので、鍵とキャッシュカードだけ取らせてください。すぐに……ええと、十五時までには戻りますから!」
そう言って依は、ほとんど逃げるように館を飛び出した。




