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神楽坂の占い館・一

 ――まじで運悪すぎじゃない? 普通、そんなことにならないよ。

 大学一年後期の期末レポート。提出直前に、パソコンのデータが跡形もなく吹き飛んだのは、今月に入ってもう三回目だ。

 それを学食で友人に話したとき、本気で心配しているような、半分引いているような顔でそう言われて、鳴海依なるみ よりはぎこちなく笑うことしかできなかった。

「あ、あはは……変、かな……?」


 ◇


「このへんのはずなんだけど……」

 依はスマホを見ながら、神楽坂の通りを歩いていた。

 昼を少し過ぎたばかりで、冬の陽はまだ高い。しかし縦長の行灯を三つあしらったようなおしゃれな街灯が並ぶ表通りには、刺すような冷たい空気が流れていた。

 黒い看板に金色の英字が光るイタリアンレストランや、日替わりメニューがチョークで書かれた小さな黒板を出すビストロ。すれ違う景色はどれも洗練され、行き交う人々の足取りもどこかゆったりとしている。

 そんな街の中で、ピンクベージュのコートに肩に届くくらいの黒髪、華奢な肩にキャンバストートを提げた依の姿は、どこにでもいるありふれた女子大生そのものだった。人目を引くほど整っているわけでも、派手なわけでもない。

 そのくらいであることに、依はどこかほっとしていたのに、この街では自分だけが場違いで、妙に浮いている気がした。

 ――占いとかしてみたら? 運良くなるかもよ。近くに有名な占いの館あるし。

 それは、友人たちが依のありえない不幸話を肴にして盛り上がっている最中の、何気ない一言だった。

 周りの空気に合わせて曖昧に笑いながらも、内心は針のむしろに座らされているような居心地の悪さがあった。本当は、藁にもすがる思いで詳しく聞きたかったけれど、必死になっていると思われるのも怖くて、依はあくまで参考程度という軽い調子を装ってしまう。

 今はまだ笑い話にしてくれている友人たちが、これ以上の“普通じゃない”不幸を目の当たりにしたとき、ある日突然、気味が悪いと白い目を向けてくるかもしれない。そう思うだけで、すっと血の気が引くのだ。

 ただの偶然であってほしい。普通から外れてしまうのは、絶対に嫌だった。

 けれど友人たちから聞けたのは、『神楽坂にある最近流行りの占いの館』という断片的な情報だけだった。依はそれらしい店のインスタを頼りにここまで来たものの、地図アプリが示す神楽坂の街は、メインストリートを一歩外れると、人気ひとけがほとんどなくなって迷路のように細い路地が入り組んでいた。

 石畳が乾いて光る、黒い塀に囲まれた裏路地。表通りの洒落た賑わいが嘘みたいに、そこだけは和の風情を色濃く残したまま、しんと静まり返っている。

「えっと、ここを右に曲がって……あっ」

 指先でなぞっていたスマホの画面が、前触れもなくプツンと切れた。

「もう、また……っ」

 ブラックアウトした画面に、眉尻をきゅっと下げた自分の顔が映り込む。焦りを含んだ黒目がちな瞳も、次の瞬間には諦めたように伏せられて、ため息だけが漏れた。

 これも今月で何回目だろう。スマホの電源が落ちるのは珍しくない。パソコンと同じで、何度修理に持ち込んでも異常はないと言われ、買い替えても効果がない。この不幸は地味に疲れる。

 依はスマホをバッグにしまい、目の前の路地へ入った。角をいくつか曲がり、脇へそれるようにさらに細い道へ進む。

 さっき見た地図の記憶を頼りに、似たような角を何度か曲がっているうちに、いつの間にか家々のあいだを縫うような小路へ入り込んでいた。

 その奥に、洋館はあった。

 豪邸と呼ぶほどではないが、一軒家としては十分に立派だ。緑青色の三角屋根に、二階には半月型の窓。白い壁にはこげ茶色の梁が幾何学的に走り、扉の脇には鈍く光る真鍮のプレートが掲げられている。そこには、流麗な文字で『翠月館』と刻まれていた。

「ここ、かな……?」

 洋館風の建物だということは、インスタで見た覚えがあった。しかしこれは風どころではなく、どう見ても本物の、立派な洋館だ。

 画面越しに見たときよりずっと重厚で、場違いな場所へ来てしまったような気がする。それでも、館の名はたしかこんな名前だったはずだ。間違ってはいないと自分に言い聞かせ、依はドアノブを回した。

 鍵はかかっていなかった。

「し、失礼します」

 扉の先は、十畳ほどの広さの玄関ホールだった。えんじ色のカーペットが敷かれ、飴色に艶めく床や柱に至るまで、空間全体が長い時間だけがつくる重厚さをまとっている。古い外観から想像していたより、ずっと綺麗だ。

 扉を閉めた途端、外界から切り離されたような静けさが広がり、かすかに、ホールクロックが時を刻む音だけが聞こえた。

 こぢんまりとしているのに窮屈さを感じないのは、そこが二階までの吹き抜けになっているからだろうか。見上げると、乳白色のガラスをはめ込んだ古風なシャンデリアが、柔らかな明かりを落としていた。

 左手には二階へ続く階段、正面には蔦の意匠が施された両開きの扉。その片方が、部屋の内側へ向かって少しだけ開いている。

 依は遠慮がちに近づいて、指先でそっと扉を押す。

「あの……」

 隙間から覗く室内は、昼の陽が差し込んで明るかった。ソファとテーブルが置かれた、応接室らしい部屋だ。その奥、暖炉の前に一人の青年が立っている。

 淡い灰色がかった髪が光を含み、ふわりと透けて見えた。深い藍色のタートルネックは光を吸い込み、その姿だけを静かに際立たせている。

 整った顔立ちだった。すっと通った鼻筋に、薄くかたちのいい唇。二十代前半くらいだろうか。大人びた表情の奥に、かすかなあどけなさが残っていて、思わず目を奪われるほど均整が取れている。

 しかし、依が目を奪われたのは、その美しさだけではなかった。

 その瞳は、遠くを見ているようで、何も見ていないみたいだった。まるで、そこだけ世界の色がすっぽり抜け落ちてしまったような――そんな、凪いだ瞳だった。

 気づけば、依は一歩踏み出していた。

 ぎぎ、と床板が鳴る。

 その音に反応して、青年がゆっくりとこちらへ焦点を合わせた。目が合う。

「わ、わわ、あ、あのその」

 慌てて扉を押し広げ、なんとか取り繕おうとする依を見て、彼が一瞬だけ瞬きをする。

 瞳の奥に沈んでいた暗い色が、嘘みたいに消え、代わりに、やわらかく整った笑みが浮かんだ。

「こんにちは」

 優しい声だった。落ち着いた低さで、するりと耳に届く。青年はゆっくりとこちらへ歩み寄り、わずかに首をかしげた。

「すみません、気づかなくて。……ご予約、されてましたっけ?」

「え、予約……? 予約は……して、ないです。ここが占いのお店だと聞いて、どうしても、すぐに占ってほしくて」

 青年は少し考えるような間を置いてから、不思議そうに尋ねた。

「どなたのご紹介でしょう?」

「検索で見つけて……あ、大学の友人がすごくいいと言っていたんです」

 そこまで言うと、青年は顎に手を添え、「友人……」と小さく呟いた。

「や、やっぱり……予約しないとだめですか?」

 黙り込んだその視線を真正面から受けて、依はひどく気まずかった。十秒にも、一分にも感じられる沈黙のあと、ふっとほどけるように、彼はやわらかな笑みで言った。

「いえ。今日はもう予約は入っていないので――見ますよ」

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