翠月館での暮らし・三
「千早夜さん……できました」
ダイニングから応接室を覗き込み、依は声をかけた。
あれから一時間ほど、依はキッチンにこもって料理を作っていた。そのあいだ千早夜は、応接室で本を読みながら待っていてくれたらしい。
応接室の隣にあるダイニングには、大きめの窓とガラス戸の食器棚があり、一人で食事をするには少し広い。けれど今日は、艶のある四人掛けのテーブルに二人分のランチョンマットが敷かれ、できたての料理を盛った皿が向かい合わせに並んでいた。
メニューは、豚こまと玉ねぎの生姜焼きに、豆腐とねぎで作った味噌汁、それから炊きたてのご飯だった。
食材を少し多めに買ってあった、なんて言ったものの、あれはほとんど勢いで出た言い訳だった。実際には、一人で食べるつもりで買っておいた食材で二人分を作っただけだ。
ちゃんと作ったつもりではある。それでも、あんなふうに誘ったわりには、あまりにも普通の夕飯だった。
「……本当に、作ってくれたんだ」
ダイニングに入るなり、千早夜は湯気の立つ食卓を珍しそうに見つめていた。
しかし次の瞬間には、いつものようにやわらかく整った笑みを浮かべる。
「美味しそうだね。……ありがとう、いただくね」
そう言って、千早夜は依の向かいの席へ腰を下ろそうとする。
「お願いです。そんなに構えなくて大丈夫ですから」
「構える?」
「今は、さっきの人のときみたいに、ちゃんと合わせようとしなくても大丈夫なんです。ただ、一緒に食べてくれたら、それで、いいので」
千早夜の笑顔が、かすかに崩れた。
さっきの人、という言葉で思い至ったのか、眉を下げながら聞く。
「……嫌だった?」
「嫌、というか……ちゃんとしてもらうより、私は……そのほうが嬉しいんです」
「……そう、なんだ」
千早夜は、どんな顔をすればいいのか決めきれないように見えた。
けれど、少し間を置いてから、小さく頷く。
「……わかった」
依は息を吐いてから、目の前の食事に手を合わせる。
「いただきます」
依が小さく言うと、千早夜も少し遅れて「いただきます」と言って、静かに箸を取った。
生姜焼きを口に運ぶ。ちゃんと、美味しくできた。お味噌汁も、失敗はしていない。
依はそっと向かいを窺う。
千早夜の食べ方は驚くほど綺麗だった。味噌汁の椀を口元へ運ぶ、その何気ない仕草ひとつとっても、伏せられた目も、きちんと箸を持つ手も妙に絵になる。けれど表情は静かなままで、味がどうなのかまでは読み取れない。
「あの、お口に合いますか」
千早夜が顔を上げて微笑む。
「……うん。美味しいよ」
それ以上、千早夜はなにも言わなかった。
ちゃんと合わせてくれなくていいと言ったのを、千早夜は守ってくれているらしい。おそらくあの女性相手であれば、もっと褒めたり、相手に合わせた言葉を返している気がした。それをせずに、ただ一言、完璧な笑顔ではなく、探るような笑顔で返したのが、千早夜の本心なのかもしれなかった。
「……いきなり誘って、すみませんでした」
「謝ることないよ。……ただ、少し意外だった」
「意外、ですか」
「依が、僕を誘うとは思ってなかったから。……一人で食べるのが、嫌だった?」
誰でもよかったわけではない。ほかでもない、千早夜と一緒に食べたかったのだ。けれど、それを素直に口にする勇気はなくて、依は少しだけ視線を逸らした。代わりに、自分でも説明しやすいところから、言葉を探す。
「……大学に入るまでは、曾祖母と二人で暮らしてたんです。料理とか掃除とか、当番みたいに分けながら。贅沢は全然できなかったんですけど、その……毎日、必ず一緒に食卓を囲んでたんです。今日あったこととか、近所の噂話とか、ほんのささいなことまで、なんでも話してました」
曾祖母と向かい合って座った、食卓のことが脳裏に浮かぶ。湯気の立つおかずと、炊きたてのご飯。何を話したのかも思い出せないような、ありふれた食事の時間。
「どうでもいいことばっかりだったんですけど……でも、ああいう時間が、私は好きだったんだと思います」
依はそこで顔を上げた。
「だから、千早夜さんとも食べられたら、いいかなと思って。千早夜さんは、そういう時間、なかったんですか。誰かと一緒に食事をして、いろいろ話したりとか」
千早夜は一度、料理に視線を落とした。
「……そういうのは、ここ十年くらいなかったと思う」
「……え」
「ずっと仕事ばかりしてきて、誰かと時間を合わせて食事するって、してこなかったから」
十年。さっきの女性客が口にしていた年齢が本当なら、ずいぶん小さい頃からということになる。
「そのお仕事って、お祓いの仕事ですか」
「うん。……だから、何でもないことを話しながら食べるのって、どうしたらいいのかあまりわからなくて」
依は思わず千早夜を見た。
あれほど隙なく相談者と話していた人が、普通の食卓では、何を言えばいいのかわからないという。
「うまく話す必要なんてないです。思ったことを、思ったぶんだけで」
そう言ってみても、千早夜はまだぴんと来ていないようだった。
「たとえば、私だったら……今日は期末試験の最終日だったんです。試験は大変でしたけど、何も起きずに最後まで受けられたので、ほっとしました」
「それは」
と、千早夜はそこで一度、口元に手を当てて言葉を止めた。
何か気の利いたことを言おうとして、それを思い直したみたいだった。
「……よかったね」
代わりに出た少しぎこちないその返しに、依の顔がほころぶ。
「そういうのだけでも、私は嬉しいです。千早夜さんは、今日はどんな一日でしたか。たとえば、今日の占いで、どういう人が来られたとか」
「今日は……二件あったよ。さっきの、息子さんの縁談と……失せ物探し」
千早夜は窺うように顔を上げる。
「こういうので、いいの?」
「……はい。ぜんぜん、ぜんぜんいいです! それで、その、無くし物は見つかったんですか?」
もっと拒まれると思っていたのに、千早夜はあっさりと話してくれた。
依が思わず身を乗り出すと、千早夜は苦笑した。
「そこまでは聞かないよ。……正確には、確かめない。『ここにあるかも』って場所を示すところまでで、それから先どうするのかは、その人次第だから」
他人の人生に深入りしすぎない、彼なりの誠実な線引きとして依には映った。淡白に見えて、決して突き放しているわけではない。
それは、今の食卓でも同じなのかもしれなかった。線を引かれているように見えても、千早夜はこうして、依の言葉にひとつずつ応えようとしてくれている。
「……千早夜さんらしい気がします」
そう口にしたとき、自分でも無意識に目を細めて笑っていた。
それを見て、千早夜はわずかに目を丸くしたあと、ふっと口元をゆるめる。唇の端がほどけるような、いつもの整った笑みとは違う、温かな笑みだった。
「……依は、こういう話をしていると、そんなふうに笑うんだね。ここに来てから、初めて見た」
「……え。私、そんなに暗い顔してましたか」
「暗いっていうより……不安そうだったかな」
千早夜は一度だけ窓の外へ視線を流してから、呟くように言った。
「でも、依がこういう時間を大事にしたい気持ちは、なんとなくわかる」
そのまま、ゆっくりと依へ視線を戻す。
「……何を話せばいいのかはまだあまりわからないけど……また明日も、できる?」
千早夜の言うそれが料理のことだと気づいて、胸が大きく跳ねる。
けれど同時に、自分の都合のいい思い違いではないかと不安にもなって、依はおそるおそる聞き返した。
「……また……また明日も、夜ご飯、食べてくれるんですか」
「依がいいなら」
依はぱっと表情を明るくした。
「も、もちろんです! 作ります!」
千早夜も、つられるように小さく笑った。
この温かい空気に背中を押されるように、依はずっと考えていたことを口にする。
「あの、実は、明日から大学が春休みに入るんです」
「うん」
「しばらく授業がないので……もし、邪魔じゃなかったら、お仕事、手伝わせてもらえませんか。もちろん、お茶を出したり、片づけたり……っ、買い出しもできますし。コーヒーはまだ淹れられないんですけど、覚えますから!」
「いいよ。確かに相談者は多くなってきて、助かるから」
――助かる。
その一言が、胸の奥でずっと冷たく沈んでいたものを一瞬で溶かした。
依は思わず笑ってしまった。嬉しいのに、どこか泣きそうで、きっと今の自分はひどく変な顔をしている。
「……ありがとうございます」




