翠月館での暮らし・四
翌日から、依はさっそく千早夜の仕事を手伝い始めていた。
翠月館の相談は、一件ごとの時間が長い。十分や二十分で帰るような相談者はおらず、一時間、二時間と腰を据えて話し込んでいく。多い日でも三人ほどだが、それだけで一日はあっという間に埋まってしまう。
最初のうち、依が玄関で出迎えると、相談者はみな一瞬だけ目を留めた。誰だろう、という顔をするのだ。しかし依が「ご予約の方ですね。こちらへどうぞ」と声をかけると、相手はすぐに表情を整えて、素直にコートを預けてきた。
「新しい方が入られたんですね」
そんなふうに言われたことも、一度や二度ではない。
訪れる相談者は、仕立てのいいコートや控えめな装飾品を身につけた人ばかりだった。肩書きを聞かなくても、それなりの立場にいる人なのだとわかるような、独特の落ち着きがある。
依の役目は、玄関で相談者を迎え、コートを預かって応接室へ通し、使い終わった食器を片づけることだった。応接室の扉の向こうは千早夜の領分で、依は勝手に入らない。呼ばれたら行き、そうでなければ待つ。相談が終わると例外なく、依には気が遠くなるような金額が、ごく当たり前に支払われていった。
直接相談に関われることは少ないが、裏方として任されることは少なくなかった。予約の受け付けや調整も、そのひとつだ。
ある日、使い終わった食器を片づけてダイニングに戻ると、テーブルの上のスマホが震えていた。千早夜から預かった仕事用のスマホだ。依は小さく息を吸って気持ちを切り替え、通話ボタンを押す。
「はい、翠月館です。ご要件をお伺いします」
『朝倉様の付きの佐伯と申します。二月九日の十四時から、先生にご相談のお時間をいただきたいのですが、ご都合はいかがでしょうか』
依は閉じられた応接室の扉をちらと見てから、失礼のないよう言う。
「恐れ入ります。先生がいま応対中ですので、確認のうえ折り返してもよろしいでしょうか」
『ええ、お願いいたします』
通話を終えると、すぐそばに置いてあったメモ帳に名前と希望日時を書きつける。そうして相談が終わるのを待って、千早夜に確認を入れるのだ。
やがて相談が終わり、次の相談者のためにキッチンでコーヒーを淹れ直す千早夜の背中に向かって、メモを読み上げる。
「二月九日の十四時に、朝倉様付きの佐伯さんからご予約の連絡があったんですけど……」
「大丈夫」
千早夜は、考えるそぶりもなく即答した。顧客のこともこの先の予約も、すべて頭に入っているらしい。その迷いのなさに、依は毎度のことながら小さく驚かされつつ、すぐに折り返しの電話をかけた。
それを終えると、今度はルーズリーフを取り出して、さっきの走り書きのメモを見ながら整理し直す。相談者の名前、日時、連絡してきた人の名前。実際に相談者が来たあとは、服装や話し方の印象まで、自分なりに書き添えていく。そうでもしないと、依の頭の中では名前も顔もすぐに結びつかなくなってしまうのだ。
「いいね、それ。すごく分かりやすい」
そんな相談者ごとの記録と予約の一覧が、一週間ぶんほど溜まったころだった。
その日の最後の相談が終わったあと、ダイニングで相談者ごとの記録と予約の一覧を整理していた依は、ふいに背後からかけられた声に顔を上げた。
「えっ、そうですか」
「うん。こうして整理してあると、僕も確認しやすい」
思いがけず褒められて、依は目を丸くした。思わず口元がほころびそうになるのを、なんとかこらえる。
「じゃ、じゃあ……これ、もっとちゃんと見やすくまとめ直したほうがいいですか」
そう尋ねると、千早夜は頷いた。
「お願いしてもいい?」
その一言で、我慢したはずの口元はあっさりゆるんだ。
以来、依は千早夜が用意してくれた革張りの手帳に、相談者名簿として改めて整理していくことになった。深い焦げ茶の革表紙は手にしっとりとなじみ、クリーム色の紙の上を、漆黒の万年筆のペン先がするすると滑っていく。実用品なのにどこか品があって、おそらく依の想像もつかないほど高価な品に違いなかったが、そこはあえて聞かず、礼だけ丁寧に言った。
その日の最後の相談が終わり、ひと通りの片づけを済ませてダイニングへ戻ると、千早夜がテーブルで手帳をぱらぱらとめくっていた。
向かいの席には、湯気の立つカップがひとつ置かれている。
依に気づいた千早夜は、カップに目をやりながら微笑んだ。
「コーヒー淹れたよ。今日も手伝ってくれたから」
「あ……ありがとうございます」
促されるまま椅子に座ると、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
こうしてコーヒーを淹れてもらうのは、もう初めてではなかった。相談者が帰ったあとや、少し手が空いたとき、千早夜はなにかと依の分も用意してくれる。
こういう気遣いが、千早夜には本当に自然にできるらしい。仕事の中で身についたものなのか、元からそういう人なのか。少なくとも、今の一杯は自分のために用意してくれたものだった。
千早夜は手帳をめくる手を止め、顔を上げた。
「少し書き足してもいい?」
依が頷くと、千早夜はその日の予約と相談者の名前が書かれたページの余白に、万年筆をさらさらと走らせていく。細く整った字が静かに増えていくのを、依は思わず見つめた。
何を書いているのかまではよくわからないが、おそらく、さっきの相談者についての覚え書きなのだろう。内容よりも、こうして使ってもらえていることのほうが依には嬉しかった。
と同時に、ふと疑問が湧いて、依は口を開く。
「……あの、手書きでまとめちゃってますけど、本当はパソコンとかにしたほうが、あとから見返しやすいですか……?」
千早夜は書き終えると、万年筆のキャップを閉めながら顔を上げた。
「このままでいいよ。相談に来る人は、自分のことをあまり知られたくない人ばかりだからね。こっちのほうが安心だと思う」
訪れる相談者は、身なりからしてきちんとした人ばかりだ。どんな相談をしているのか、依は扉の向こうまでは知らない。けれど、こうして人目につかない場所へひっそり訪れてくる時点で、便利さよりも、手元にだけ残るような安心のほうが大事な人たちなのだろうということは、なんとなくわかった。




