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翠月館での暮らし・五

 今日は、予約が一件も入っていない日だった。

 そういう日、千早夜はふらりとどこかへ出かけてしまう。今日も例外ではなく、玄関ホールでコートを羽織りながら、

「今日は仕事がないから、依も好きにしてていいよ」

 と言った。

「はい。……夜ご飯、どうしましょうか」

「うん……そのときまでには帰ってくるつもり」

 そう言って、千早夜はやわらかく笑い、コートの襟を直して出ていく。

 初めて一緒に夕飯を食べた日から、夜は二人で食卓を囲むのが、いつの間にか習慣になっていた。

 朝や昼は、依が自分のぶんだけを簡単に作ることが多い。千早夜は相変わらず食事の時間がまちまちで、仕事や外出で姿を見ないこともある。

 それでも、依が「食べますか」と聞けば、彼はたいてい「うん」と頷いて、きちんと席についた。

 千早夜が出かけた後、一人残った翠月館は妙に広く感じる。

 春休みに入ってから、友人に誘われれば出かけることもあった。けれど今日は、それもない。大学の課題が山ほどあるわけでもなく、簡単な昼食を済ませた頃には、依はすっかり手持ち無沙汰になっていた。

 片づけを終えたあとも、依はダイニングの椅子に座ったまま、窓の外を眺めていた。隣家の庭先にある木が、小さな黄色い花をつけている。名前はわからない。けれど、冬の澄んだ空気の中で、その花だけがやわらかく陽を受けている。

 ――気分転換に、散歩がてら足りないものを買い足してこようか。

 仕事を手伝うようになってから、千早夜はきちんと報酬も渡してくれている。まだ遠慮は残るが、必要なものはそこから出すと決めていた。

 そう思って立ち上がりかけたとき、テーブルの上の仕事用のスマホが震えた。

 こういう日でも、予約の連絡は入る。依は小さく息を吸って気持ちを切り替え、そばに置いてあった手帳とメモを目の前に準備して通話ボタンを押した。

「はい、翠月館でございます」

 電話口から聞こえてきたのは、落ち着いた男性の声だった。

『私、三嶋と申します。有馬様のご相談のお時間をいただきたいのですが』

「承ります。ご希望のお日にちはございますか」

『急で恐縮ですが、明日の十五時頃はいかがでしょうか』

 依はそう言われて、すぐに手元のメモに書き取る。書いてから、ふと違和感を覚えた。依は手帳を引き寄せ、ぱらりと一枚めくる。

 そして、すぐに見つけた。

 三嶋様よりご予約、有馬様。

 日付は三日前。希望時間は違うが、同じ人だ。つい三日前に相談に来たばかり。指定された時間は空いているものの、予約を受けるかどうかは千早夜に確認してから決めることになっている。

「……恐れ入ります。先生がただいま外出中でして、確認のうえ折り返してもよろしいでしょうか」

『お願いいたします』

 通話を終えても、依はしばらくメモを見つめていた。この仕事を手伝い始めて二週間ほどしか経っていないが、ここまで間を置かずに再び予約を入れてきた相談者は初めてだった。

 気にはなる。けれど、依だけで決めることではない。

 手帳に印をつけてから、予定通り近くまで買い物に出た。歩いているあいだも、有馬の名前が何度か頭をよぎる。そのせいか、気づけば買うつもりのなかったものまでカゴに入れていた。

 

 千早夜が戻ってきたのは、窓の外がすっかり暗くなり、ダイニングの明かりがガラスに映るころだった。

「ただいま」

「あ……おかえりなさい」

 依が出迎えると、千早夜はちょうどコートを脱いでいるところだった。玄関脇のコンソールテーブルには、濃紺の風呂敷包みが置かれている。

「今日、予約のお電話がありました」

「うん」

 千早夜が気軽に相槌を打つ。

「明日、なんですけど。十五時で、有馬様です」

「断って」

「えっ」

 一瞬、聞き間違えたのかと思ったが、千早夜は平然と続ける。

「三日前にも相談に来た人だよね」

「はい、そうです」

「うん、じゃあ、今回はお断りして」

 やはり即答だった。

「わ、わかりました」

 その日のうちに折り返し、依は言われた通り、明日の予約は受けられないと伝えた。


 翌日の夕方。

 午前と午後に一件ずつ入っていた相談も、最後の一件がそろそろ終わる頃合いだった。キッチンの冷蔵庫の前で夕飯の献立を考えていた依は、玄関のノッカーがけたたましく打ち鳴らされて顔を上げた。

 これからの予約は、入っていないはずだ。

 依は玄関ホールへ向かい、扉を細く開けた。立っていた人を見て、思わず目を見開く。

 艶やかな毛皮のコートに身を包んだ、二十代後半の女性だった。上品に巻かれた髪に、深い赤の口紅。手袋をはめた指先まで隙なく揃っていて、そこに立っているだけで玄関先の空気が少し硬くなる。

 三日前に来られた、有馬様だ。コートを預かった一瞬だけだったが、見覚えがある。

 そのときは、もっと若々しく見えた気がする。けれど今は、目元に薄く隈があり、瞳にも翳りが差していて、きれいに整えた身なりだけが少し浮いて見えた。

 彼女は依を上から下へと値踏みするように見て、あからさまに顔をしかめた。

「……弓月先生に。すぐに通してちょうだい」

「っ……申し訳ありません。いま、先生が応対中でして……少しお待ちいただけますか」

「応対中? こちらも相談に来ているのよ。時間がないの」

 当然のように言われて、依は一瞬、返す言葉を失った。その隙を逃さず、有馬はさらに言葉を重ねる。

「時間外相応の料金をお支払いするつもりで来ています。前の方を切り上げていただけません?」

「……相談を途中で区切ることは――」

「はぁ?」

 声が一段上がった。

「あなた、判断できるお立場かしら?」

「……お静かにお願いします。相談中の方がいますので――」

 そう言っているあいだに、有馬は当然のように玄関ホールへ足を踏み入れようとした。依は反射で一歩前に出る。道を塞ぐような形になってしまって、自分でもわかるほど手が震えていた。

「ちょっと、なんなの。どいて」

「待ってください……あ、あの、こういうのはどうですか。お飲み物をお出しします、それで、このホールで少し待っていただいて……」

「いいからどいて」

 有馬の力がさらに強く、扉が大きく開いた。押し入るように玄関ホールへ踏み込んだ有馬は、そのまま応接室のほうへ向かおうとする。

 依は慌てて追いすがった。

 どうしよう。どうしたら。

 そのとき、応接室の扉がカチャリと静かに開いた。

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