翠月館での暮らし・六
「――では、続きはまた来月に」
千早夜だった。今しがたまで相談を受けていたスリーピースを着た初老の男性とともに、ゆったりと姿を現す。応接室の前で立ちすくむ依と有馬を一瞥し、千早夜は一瞬だけ目を細めた。しかし足は止めず、男性を玄関の扉の前まで伴った。
「足元にお気をつけて」
「ああ、いつもありがとう、先生」
そのまま完璧な笑顔で扉を開け、相談者を送り出す。カチャリと扉が閉まった瞬間、凍りついていた空気が動き出した。
「……先生、さっそく見てくださる?」
その声に、千早夜はようやく有馬へ視線を向けた。表情は変わらない。やわらかく、整った笑みのままだ。
「本日はご予約をお受けしていないはずですが」
「ええ、でも。どうしても気になることがあって、早めに解決しておきたいの」
「そうですか。……でも、今日は見ませんよ」
有馬が言葉を失い、依も思わず目を見開く。
「短いあいだに何度いらしても、申し上げることは変わりませんから」
「……は?」
「占いは、未来を断定するものではありません。判断の材料を増やすためのものです。今の有馬さんは、答えが欲しいだけになっています。……安心のために占いを使い始めると、すぐ依存になります。一度よく考えてみてください。答えを出すのは僕ではなく、あなたですよ」
言葉を失った有馬に、「それに」千早夜は言葉をつなぐ。
「これは僕個人の気持ちでもあるんです。こういう形が続くと、ほかの相談者も安心して来られません。……今日はお引き取りください」
その一言で、有馬の顔がかっと赤くなった。
怒鳴るわけでもないのに、かえってその声の低さが冷たく響く。
「……随分ね」
有馬の視線が、すっと依へ向く。
「私、そこの子が違うことを言っていたから勘違いしたの。待てば見てもらえるみたいな顔をして言うものだから」
「え……。ち、違います……私は、ただ……」
「では最初から、誤解のないように応対していただきたいものね。……こちらだって、好きでこんなふうに来たわけではないのよ」
刺すような言い方だった。けれど、その声の端には、怒りだけではない切迫が滲んでいた。
依はそこで初めて気づく。きっとこの人は、不安でたまらないのだ。だから、どうしても今すぐ見てもらいたくて、ここまで来たのだ。
「……不安になる気持ちは、わかります」
思わず、そう口にしていた。
「私も……どうしようもないと思って、何かにすがりたくなることが、あります」
千早夜が夕飯の席で言っていたことを思い出す。最後にどうするかを決めるのは、その人自身なのだと。
「でも……たぶん、今すぐ答えをもらっても、また不安になるだけだから。だから先生は、少し落ち着いて考えてほしいって……そう言いたいんだと思います」
有馬は弾かれたように千早夜を見た。千早夜はやわらかく笑って言う。
「ええ。今日ではないというだけです。落ち着かれてから、改めていらしてください」
有馬は次に依を見た。その目には、さっきよりほんの少しだけ迷いが混じっている。
逡巡の間のあと、やがてぷいと顔を背け、そのまま玄関の扉を開けた。
「……気が向いたら、また予約するわ」
捨て台詞みたいにそれだけ言って、館を後にする。静けさが戻ると依はやっと深く息を吐いた。心臓が痛いくらい速い。
「もう来ないって、言われると思ってた」
千早夜の声に顔を上げる。
「ああいうふうに断って、あんなふうに帰っていく人、いなかったから」
依は思わず瞬きをした。考えてみれば、千早夜の応対はいつも穏やかで、つい何もかも委ねたくなるような空気がある。けれど線を引くときは、驚くほどきっぱりしている。たしかに、あのまま有馬を帰せば、本当にそこで終わっていたのかもしれない。
「依」
呼ばれて顔を向けると、千早夜が少しだけ腰を折り、覗き込むようにしてこちらを見ていた。
その口元が、ふっと緩む。
「すごいね」
それだけ言うと、何事もなかったように応接室のほうへ歩き出した。
依は呆然と立ち尽くしていた。今の言葉を頭に染み込ませるように、何度も繰り返す。
すごいね。
たったそれだけの言葉なのに、返事もできないくらい嬉しかった。
その場から動けずにいると、応接室の手前で千早夜が思い出したように振り返る。
「そうだ。さっきの方からいただいたお菓子があるんだけど、食べる?」
「……えっ……い、いいんですか?」
「もちろん」
千早夜は頷くと、「じゃあコーヒー淹れるね」とごく当たり前のように言って、応接室ではなくキッチンのほうへ向かった。
依は慌ててそのあとを追う。
「そんな、コーヒーまで……!」
「いらない?」
「い、いえ! すごく美味しくて、好きです、けど……! あっ、じゃあ、お皿くらいは出して……」
「いいよ、座ってて」
慌てる依をよそに、手慣れた様子でコーヒーを淹れ始める。
結局、依は言われた通りダイニングテーブルの椅子に腰を下ろし、待つことになった。
やがてテーブルの上に置かれたのは、芳醇な香りを立てるコーヒーと、小皿にのせられた深い緑色の抹茶のテリーヌだった。
フォークを入れて一口食べると、濃厚な甘さとほろ苦さが口の中でゆっくり溶けて、抹茶の香りが広がった。続けてコーヒーを口に含むと、強そうだと思っていた苦みが、抹茶の甘さをすっと引き締めて、後味をきれいにしていく。
思わず「ん〜……」と声が漏れた。
「美味しそうでよかった」
向かいの席で、千早夜がカップを片手に微笑む。
「美味しいです。テリーヌもですけど、コーヒーがすごく……」
言いかけて、依はカップの中へ目を落とした。
香りも、苦みも、お菓子と合わせたときの後味まで、ちょうどいい。こんなふうに淹れられるようになるには、きっと何度も手を動かしてきたはずだ。
「……千早夜さんって、コーヒーが好きなんですか?」
「そうでもないよ」
「え、でも……こんなに美味しく淹れられるのに……」
千早夜はそれに「ああ」とだけ頷いてから言った。
「占いを始めたとき、言われたんだよね。コーヒーくらい出してほしいって」
「相談者の要望で……。最初から今みたいだったわけじゃないんですね」
「うん。東京に来てしばらくは、ただ相談に乗るくらいだったんだけど。一年くらい前から、ちゃんとお金ももらうようになったからね」
東京に来てしばらく。以前からずっと東京にいたわけではないらしい。
「それからお菓子も一緒に出すようになって、それがずっと続いてる。温かいものがあると、少し話しやすくなるみたいだから」
「……はい。このコーヒー、本当に美味しいです。……私もこんなふうに淹れられたらいいのに」
「コーヒーくらい、依も覚えたら淹れられるよ」
そう言って、千早夜は口元へ運びかけたカップをふと止めた。
「依、前に『コーヒーの淹れ方を覚えたい』って言ってたよね」
顔を上げた千早夜の瞳に、かすかに光が入った。
口元がわずかに上がる。いつもの整えられた笑みとは違う、ほんの少しあどけない顔だった。
「今からなら、夕飯の準備の前にできると思うけど……やってみる?」
「……は……、はいっ!」
初めて見る千早夜の表情に虚を突かれたのもあってか、気づけば依はそう返事をしていた。




