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翠月館での暮らし・七

 窓の外が藍色に沈み始めたキッチンに、深く香ばしいコーヒーの香りが広がっていた。

 カウンターの上には、銀色のケトルとガラスのドリッパーが並んでいる。

「円を描くように……そう、お湯は細くね」

 隣に立った千早夜が、依の手元を見ながら静かに言う。

 声が思ったより近くて、依は一瞬だけ指先に力を入れた。ドリッパーを使ってコーヒーを淹れるのは初めてで、難しい動作ではないはずなのに、妙に緊張する。

 ぽたぽたと落ちる雫がやがて細い流れになり、サーバーの底に黒い液体が溜まっていく。

「簡単だったでしょ?」

 抽出したコーヒーを、サーバーごと軽く回しながら千早夜が言った。

「はい。千早夜さんが、わかりやすく教えてくれたので」

 依がそう答えると、千早夜は小さく笑って、できたてのコーヒーを二つのカップに注いだ。

 そのうち一つを手に取り、口をつけた。

「うん。ちゃんと淹れられてる」

「ほ、本当ですか?」

 依も自分のカップに口をつける。さっき千早夜が淹れてくれたものと同じ豆のはずなのに、少しだけ違う気がする。けれど、湯気と一緒に立ちのぼる香りはちゃんと深くて、思わず頬がゆるんだ。

「……よかったです。でも千早夜さんは、相談者が来るたびに毎回こうして淹れてるんですよね。必要だって言われただけで、そこまで……」

 言いかけて、依はふと黙った。

 その言葉が、少しだけ自分にも返ってきた気がした。

 千早夜はカップの中へ視線を落とし、何でもないことみたいに言った。

「……必要なら覚えるのは、昔からそうだったから」

「昔から?」

「小さい頃から、家のことを手伝うのが当たり前で。その時に、どう振る舞えばいいのかとか、そういうのはずっと見てきたからね」

 カウンターの端に軽く腰を預けて話す千早夜は、特に懐かしむでも、苦々しく思っているでもなさそうだった。

 人に何かを差し出すことや、相手が困らないように振る舞うこと。丁寧に遇すること。

 そういうものが千早夜に当たり前のように身についているのは、きっと、必要なことだったからだ。

 誰かとなんでもない時間を過ごしたことがほとんどなくて、どう話せばいいのかわからなかったのは、たぶん、それが必要とされてこなかったから。

 最初は、隙がなくて、何もかも完璧に見えた。

 けれど今は、千早夜という人を、少しずつ知れている気がした。

 千早夜は、依の淹れたコーヒーをもう一口飲んでから、小さく頷いた。

「ごちそうさま」

「もっと練習します」

「無理はしなくていいよ」

 そう言って、千早夜は壁の時計へ目をやった。

「そろそろ、夕飯の準備を始めるころかな」

「あ、はい」

「今日は何にするの?」

「えっと……まだ、ちゃんと決めてなくて」

「そう。じゃあ、楽しみにしてる」

 何気ない一言だった。

 それでも、千早夜が夕飯を楽しみにしてくれているのだとわかって、依は思わず顔を伏せた。

「……はい。作ります」


 ◇


 依が翠月館で仕事を手伝うようになって、三週間ほどが経った。二月も、終わりに近づいている。

 その日の昼下がり。

 本日最後の相談者を見送り、使い終わった食器とコーヒー器具を片づけ終えた依は、ダイニングテーブルにノートパソコンを広げていた。すぐ横に置いたコーヒーからは、まだ薄く湯気が立っている。

 画面に表示された大学のポータルサイトを神妙な面持ちで見つめながら、かち、かちと操作を続ける。やがて、とあるページを開いた瞬間、思わず両手で小さく拳を握った。

「……やった……!」

 それと同時にダイニングに入ってきた千早夜が、依を見て足を止める。

「どうしたの?」

「大学の成績が出たんです!」

 依は勢いよく振り向いた。嬉しさで落ち着かなくなった手が、いつもの癖で動く。ほとんど反射みたいにキッチンへ向かうと、カウンターの上に置いてあったコーヒージャグを手に取り、千早夜の分をカップに注いだ。

 千早夜は依の向かいに腰を下ろし、差し出されたカップを受け取る。

「ありがとう」と小さく笑って、

「……そんなに喜んでるなら、よかったんだ?」

「はい……! 特待、維持できてました」

 依も席へ戻り、開いたままだったノートパソコンを脇へ寄せながら大きく頷く。

 春休み前は、不幸続きで試験もレポートもどうなることかと思っていた。もし成績を落としていたら、今後の生活にだって関わる。

 最初に千早夜が占いで言ってくれた通り、積み重ねてきたものは無駄にならなかったらしい。

 そう思えば思うほど、画面の評価を見るまでは気が休まらなかった。

「よかったね。頑張った分が返ってきたんだ」

「ありがとうございます。学費を一部免除してもらってるので、成績は落とせないんです」

 依はカップに目を落として、言葉を続ける。

「……でも、お金のこともあるんですけど……曾祖母が応援してくれた大学なので、ちゃんとやりきりたいんです」

 大学に通って、講義を受けて、課題を出す。

 そういう当たり前を続けることが、依にとっては、普通に近づくための道でもあった。

「依にその数珠を渡した人だね」

「はい。ちょうど私が大学受験の頃に亡くなって。九十歳近かったので、周りの人には仕方のないことだって言われたんですけど……それでも、入学できたって言えなかったのが心残りで……」

 言っている途中で、慌てて顔を上げる。

「い、いえ! なんだかしんみりしちゃってすみません!」

「そんなことないよ。曾祖母さんってどんな人だったの?」

「……優しい人でした。私が帰ってくると必ず抱きしめて、おかえりって言ってくれて。少しでも遅いと、すごく困った顔をする心配性でしたけど」

 依の記憶にある曾祖母は、いつも生活の中にいた。

 霊に憑かれているようなそぶりも、イタコのようなことをしているところも、見たことがない。

 それに、青森にいた頃の依は、時々体調を崩すことこそあったが、東京に来てからのように不幸が続くことはなかった。

 もし本当に曾祖母がイタコで、自分にもその血が流れているのだとしたら、あの頃はどうして平気だったのだろう。

「以前、千早夜さんは、曾祖母がイタコかもって言ってましたよね。それって、本当なんでしょうか」

「断定はできないよ。……ただ、依の体質とその数珠を見る限り、そういう血筋ではあると思ってる」

「血筋……」

 依は左手の数珠に触れる。

 血筋、と言われると、曾祖母だけではなく、どうしても別の人の顔まで浮かんでしまう。そうだ。あの人だって――。

「でも、母は……」

 そこまで言って、依は口をつぐんだ。

 代わりに、なるべく口元を持ち上げて、声を明るくする。

「なんでもありません。私にとっては、イタコかどうかより……曾祖母おばあちゃんは、家族でしたから」

 千早夜は、何かを聞き返すことはしなかった。ただ、穏やかに頷く。

「あ、それで……曾祖母ちゃんは、いいことがあると毎回必ずごちそうを作ってくれたんです」

「ごちそう?」

「はい。たとえば、私の成績がいいと褒めてくれて、その日はお祝いに好きなものを作ってくれて。私の場合は、ハンバーグだったんですけど……」

 言いながら、湯気の立つ白いご飯と、わらじ型に焼かれたハンバーグの匂いが蘇る。少し焦げた玉ねぎの甘い匂い。いつもより丁寧に盛りつけられた皿。

「せっかくだから、今日はそれを作ろうかなって思って」

 依は開いたままだったノートパソコンを閉じかけて、顔を上げる。

「あ、でも……千早夜さんは、食べたいものありますか?」

「僕が食べたいもの?」

「はい。千早夜さんの食べたいものも聞きたくて」

「……好きなものって、あんまり思い浮かばないんだよね」

「……ですよね」

 聞いておいてなんだが、そういう答えが返ってくる気はしていた。すると千早夜は、わずかに口元を緩めた。

「でも、今日は依の嬉しい日なんでしょ。それなら、依の好きなものがいい」

「そ、それって……ハンバーグ、ですか」

 思ってもみない言葉に、言葉が詰まる。

「……じゃ、じゃあ、材料、買ってきますね。……全然、ないので」

 依が立ち上がりかけたとき、千早夜もカップを置いた。

「そうなんだ。買いに行くなら、僕も行くよ」

「……え――え!」

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