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翠月館での暮らし・八

 外へ出ると、神楽坂の路地には午後の明るさが残っていた。

 ここ数日の陽気のせいか、日差しだけはもう春のようだった。それでも、石畳を抜ける風には、まだ二月の冷たさが残っている。

 依はコートの襟元をそっと抑えながら、隣を歩く千早夜を盗み見た。

 灰色のロングコートを着こなした横顔は、相変わらず整っている。こうして昼間の街に並んで歩いていると、ますます現実味がない。その顔が唐突にこちらを向いた。

「まずは何を買うの?」

「え、えっと……お肉と、野菜を……あっ、あと、ハンバーグだけだと少し寂しいので、付け合わせの小鉢ができたらいいなと思ってるんですけど……まだ、考えてる途中で」

「そう。それなら、こっちかな」

 細い路地を抜け、二人は表通りへ出た。

 昼のピークを過ぎた神楽坂通りは、まばらに行き交う人々でほどよく賑わっている。千早夜はそのまま坂を上り、途中でまた脇の小路へ入っていく。

 一歩入るだけで、さっきまでの賑わいが少し遠のいた。

 最初に占いの館を探して入り込んだときには、ただ心細かった細い道も、千早夜の隣を歩いている今日は、不思議とそう感じなかった。

 連れて行かれたのは、町家を改装したような小さな肉屋だった。

 軒下のガラスケースには、照明を受けてつややかに輝く肉がきれいに並べられている。

「いらっしゃい」

 割烹着を着た小柄な年配の女性が、奥からきびきびと出てくる。

「何にしましょう」

 依はガラスケースを見ながら、必要な量を考えた。

「二人分なんですけど、合いびき肉、お願いできますか」

「合いびきね。今日は脂の具合、ちょうどいいわよ」

 女性は手際よく肉を量り、白い紙に包んで差し出した。

 依が受け取ろうとするより先に、千早夜が自然な動作で手を伸ばす。

「ありがとうございます」

 店の女性にそう言って包みを受け取り、会計までそのまま済ませてしまう。

 あまりに淀みない流れで、依は財布を出すタイミングを完全に逃した。

 店を出てから、依は隣を見上げる。

「あの、ありがとうございます。……私が出すつもりだったんですけど」

「うん。でも、僕も食べるから。次は野菜だね」

 そう言って、千早夜はまた迷いなく別の道へ曲がった。

 表通りの賑わいが少しずつ戻ってくる中、二人の靴音が小さく並んで続いていく。

「神楽坂、詳しいんですね」

「そんなことないよ。東京に来て、まだ二年だから」

「二年前……」

 依はその言葉を繰り返した。思っていたより、ずっと最近だ。

「千早夜さん、東京に来る前は、どこにいたんですか」

 尋ねると、千早夜が前を向いたまま答えた。

「……京都」

 

 次に連れて行かれたのは、表通りに面した大きな八百屋だった。

 八百屋といっても、依の思い描いていた昔ながらの店とは少し違う。ガラス張りの明るい店内には木箱の平台が並び、色とりどりの野菜が美しく見えるように並べられている。壁際には米袋や、いくつもの種類の調味料が並んだ棚もあって、どこか小さな市場のようだった。

「わ……すごい」

 依は思わずかがみ込み、平台に並んだ野菜を覗き込んだ。値札の横には手書きの札も添えられていて、『今朝入荷!』『甘みが強い!』などと威勢のいい文字が並んでいる。それが、なんだか楽しい。

 依は付け合わせにできそうなものを考えながら、千早夜の持つカゴへ材料を入れていった。

 ――けれど、周りの視線が痛い。

 千早夜のように浮き世離れした整った青年が、こういう店にいるのは、どうしても目を引くらしい。神楽坂の通りを歩いていたときもぽつぽつと感じていた視線が、店内では距離が近いぶん、よりはっきりとわかる。客が一瞬、千早夜を目で追い、そのあと、確かめるように依のほうへ視線を移すのも。

 不釣り合いに見られていないか。変に見られていないか。

 ――私は普通でいられているのか。

「依?」

「えっ」

 顔を上げると、会計の順番が来ていた。依は慌てて前を向く。支払いは結局、また千早夜があっさり済ませてしまった。

 店を出ると、外の空気は店内より少しだけ冷たかった。千早夜が野菜の入った袋を持ち直し、二人は並んで帰り道を歩き出す。

「ハンバーグ以外は、何を作るの?」

 歩きながら千早夜が聞いた。

「ほうれん草があったので、お浸しにします。お味噌汁にも入れようかなって」

「うん」

「あと、大根を見てたら、おろしハンバーグがいいかなって思って、買っちゃいました」

「本当にごちそうだね」

 二人でふっと笑い合う。それだけの会話なのに、不思議と気持ちがやわらぐ。

 買った食材を持って、夕飯のことを話しながら、帰路につく。

 少し前まで、次はどんな不幸が起きるのかとびくびくしていたのが嘘みたいだった。今は目の前の夕飯のことだけを考えていられる。この時間が、もう少し続けばいいのに。

「……さっきの店で、少し黙ってたね。なにか気になることあった?」

 ふいに千早夜が言った。

「え、あ……たいしたことじゃ、ないんですけど……私、千早夜さんと並んで、変じゃなかったですか」

「変?」

「その……お店の中で、見られていたので。千早夜さんは目立つから、私が隣にいると、なんだか……」

 不釣り合いじゃないですか、とまでは聞けなかった。その言葉だけは、口にした途端に本当になってしまいそうだった。

 その思いに引きずられるように、依の歩みが少しだけ遅くなる。

「依が隣にいて、困ることはないよ」

 気づけば、千早夜が数歩先を歩いていた。

「僕は――」

 千早夜が続けようとしたそのとき、依の身体に、ふっと重いものが乗ったような感覚が走った。

 振り返った千早夜の表情が、かすかに険しくなった。

「……依」

「は、はい?」

「ちょっと、こっち」

 人の流れを避けるように道の端へ寄せられる。どうしたのかと見上げるより先に、千早夜が手を差し出した。

「手、貸して」

「え、あの」

「霊が憑いたから」

 その言葉でようやく千早夜の意図に気付いた。

 手に触れた瞬間、指先からぴりっと鋭い痛みが走る。

「いっ……!」

 針を刺されたときのような、細くて鋭い痛みに思わず肩が跳ねた。

「痛かった? ……ごめん」

「い、いえ……もう平気です」

 千早夜は依の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「少し休もうか」

 そう言って、千早夜は近くの寺へ依を連れていった。朱塗りの門をくぐると、さっきまで近かった通りのざわめきが遠のく。

 境内の脇にあった低い腰掛けへ依を座らせると、千早夜はその前に立ち、もう一度顔色を確かめるように覗き込んだ。

「大丈夫?」

「……はい。ありがとうございます」

 毎日手を取って霊を祓ってもらっているおかげで、どこか安心しきっていたところがあった。けれど、たった今の痛みで思い知らされる。

 落ち着いているように見えても、この体質そのものが無くなったわけではない。

「……私、やっぱり……普通じゃないんですね」

 千早夜は何も言わなかった。

 参道を行く人々の声が、境内を静かに流れていく。

 千早夜はそれを聞き送るようにしてから、依の隣に腰を下ろした。低い腰掛けが、かすかに軋む。

「依」

 依の意識を向かせるように、一言、優しく呼ばれた。

「依は、最初に会った時から言っていたね。普通になりたいって」

「……はい」

「誰かに、そう言われたことがあるの?」

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