翠月館での暮らし・九
依は答えられなかった。
膝の上で、指先を握り込む。
言わなくていい。
こんな話をしたら、困らせるだけだ。重いと思われるかもしれない。普通じゃないものを見る目を向けられるかもしれない。
黙ったままうつむいている依を、千早夜は急かさず、ただ隣にいた。
それだけのことなのに、聞いてくれるかもしれないという期待のほうが、勝ってしまった。
「……母です」
千早夜は驚いた顔をしなかった。ただ、依の言葉を受け止めるように、静かに頷いた。
「……どうして普通でいられないの、って」
その言葉を口にすると、奥に押し込めていた記憶が、嫌でも浮かび上がる。
「母は……普通じゃない私のことが耐えられなくて……いなくなった人でした……」
幼い頃から、依のまわりでは時々おかしなことが起きた。そばにいるだけで急に嫌がられたり、何でもないはずの物が壊れたり。今なら、それが霊のせいだったと思える。
しかし、子どもの依にわかったのは、ただ、自分の近くにいると何かがおかしくなるらしい、ということだけだった。
依は俯いたまま続けた。
「いちばん覚えているのは、母の顔で……最初は、いつも困った顔をしていた気がします。私が何かしでかすたびに、周りに頭を下げていたこともあって」
そこで一度、言葉が切れる。
「それが少しずつ、疲れたような顔に変わっていって。最後には……怯えるように、私を見るようになりました」
今ならわかる。
母もまた、どうしていいかわからなかったのだと。
子どもの依には何もわからなかった。
ただ、母に振り向いてほしかった。ちゃんと見てほしかった。そばにいたいと、そればかり願っていた気がする。
「あの言葉が、最後でした」
その一言を最後に、依の前から姿を消した。
「それ以来、周りの目が気になってしまって。どうしても……取り繕ってしまうんです。変に見えないように、普通に見えるように」
いつのまにか、境内に落ちる影が少し長くなっている。
「……すみません。こんな話」
千早夜はすぐには答えなかった。しばらくして、深く息を吸い込む。
「いいよ」
それだけ言って、千早夜は立ち上がった。
「買いたいもの、買えたよね」
そう言って差し出された手に、依は一瞬、目を留める。
見上げた千早夜は、まっすぐに依を見ていた。口元だけかすかに微笑んでいる。
「帰ろう、依」
依はつられるようにその手を取った。
千早夜はそのまま、依の歩幅に合わせて境内を歩き出す。
「……あの、手……お祓いは、もう終わったかと」
「また憑くかもしれないから」
千早夜は肩越しに言った。
「こっちのほうがいいよ」
繋がれた手の熱が胸にもじわりと広がっていく。
こんな話をしたあとでも、離さないのだ。
気まずい顔も、困った顔もしないで、当たり前みたいに隣にいる。
しばらく無言で歩いていたあと、ふいに千早夜が言った。
「……そんな依が、僕には必要だから」
依は足を止めそうになる。
けれど、繋がれた手はそのままで、千早夜は前を向いたままだった。
そんな依。
それは、今みたいに普通になれない自分のことだろうか。
それとも、霊を引き寄せてしまう、この厄介な体質のことだろうか。
もし必要とされているのが自分自身ではなく、この体質のほうだったら――そう思った途端、さっきまで少しだけ浮きかけていた気持ちが、静かに沈んでいった。
「……はい」
返せたのは、それだけだった。
翠月館に戻ってすぐ、依は「手伝おうか?」という千早夜の申し出を丁重に、しかし断固として断り、逃げるようにキッチンに籠もった。
千早夜と一緒に並んで料理などしたら、動揺しすぎて何をしでかすかわからない。
ボウルの中のひき肉をこねながら、依は深く息を吐いた。
先ほどまで繋がれていた右手の感触が、まだ残っている気がして落ち着かない。
『そんな依が、僕には必要』
ふいに、千早夜の声が蘇る。頬に熱がかっと集まるのに、次の瞬間にはひやりと現実が差し込む。
――必要なのは、私じゃなくて、この体質のほう。
何度もそう言い聞かせていると、コンロのほうから、じゅっと嫌な音がした。
「あっ」
小鍋が危うく吹きこぼれかけている。依は慌てて火を止めた。
「……あ。……ああぁ……」
つまみを触ってから、今の今まで肉に触れていたことを思い出し、うなだれる。このまま千早夜の言葉に気を取られていたら、確実に失敗する。
「ち、ちゃんと作らないと……!」
頭をぶんぶんと振って気合を入れ直すと、再び料理へと向き合った。
それから二時間近くが経った頃。
翠月館のダイニングテーブルには、ほかほかの湯気を立てる料理が並べられていた。
メインは、肉屋で買った合いびき肉で作った和風おろしハンバーグ。
副菜には、八百屋で『今が旬!』という手書きの札に惹かれて買ったほうれん草と柚子のお浸し、それにごぼうと人参を使ったきんぴら。お椀には、ほうれん草と豆腐の味噌汁。
曾祖母との暮らしで料理には慣れていたが、今日は少しだけ張り切って、副菜は料理アプリも参考にしたのだ。
エプロンを外した依は、向かいの席に座る千早夜の様子を、落ち着かない気持ちで窺っていた。
味見の段階では問題なかったはずだが、やはり緊張する。
「その……お口に合うか、わからないんですけど」
自信なさげに言うと、食卓を見ていた千早夜がゆっくりと顔を上げた。
「すごい。どれも全部、本当に美味しそう」
その目が、湯気の向こうでやわらかく細められる。
素直な声でそう言われて、依はようやく胸をなで下ろした。
「よかったです。冷めないうちに……」
「うん」
二人は自然と姿勢を正し、食卓を前に手を合わせた。
「「いただきます」」
千早夜が箸を伸ばし、大根おろしの乗ったハンバーグを一口食べる。その端正な顔が、美味しい驚きにふわりとほどけたのを見て、依もまた、温かいご飯を口へと運んだ。
美味しい、と素直に思った。
やがて食事がひと段落し、二人で手を合わせる。
「「ごちそうさまでした」」
依が皿を重ねようと手を伸ばしかけたところで、千早夜がふと口を開いた。
「依。……ひとつ、話しておきたいことがあるんだ」
声の調子が少しだけ変わって、依は顔を上げる。
「祓いの仕事が入ったんだ」
依は一瞬、言葉の意味を呑み込み損ねて、それからすぐに頷いた。
そうだ。最初から、自分はその仕事を手伝うためにここにいる。ついさっきまで、二人で買い物をして、こうして食卓を囲んでいたせいで忘れかけていた。
「本当は、食事のあとすぐに話すことでもないと思ったんだけど。依に手伝ってもらうことになるから、先に言っておくね」
「……私、いつでも……大丈夫です。大学も、休みですし」
千早夜は頷きかけて、そこでふと依の左手首へ視線を落とした。
「その数珠は僕が言うまで絶対に外さないでね」
「は、はい……でも、外したこと、ないですけど……」
「うん。どうしても確認しておきたくて。それは依が思ってるより、ずっと大事なものだよ」
依は思わず左手につけている数珠に触れた。
「そんなに、ですか」
「それがあると、僕も少し安心できるから」
ちくりと小さい針が胸を刺す。安心できるのは、自分のことを心配してくれているからなのか。それとも、この体質を抱えた自分を守るためなのか。そんなふうに考えてしまう自分が、少し嫌だ。
「……わかりました」
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!




