霊の言葉を預かる力・三
いつも見ていた優しい手を前にして、依は立ち尽くしていた。
あれほど、普通になりたいと願って、疎ましく思っていた。
曾祖母を死なせてしまう原因にもなったこの力。
悩むことなんてないはずなのに、依は曾祖母の手を取ることができなかった。
『どうしたんだい』
曾祖母を見る。語りかけるその顔は、迫るでもなく、説教でもなく、ただ我が子を気にかけるように穏やかだった。
『……私……』
曾祖母が、依を気にかけて言ってくれているのがわかるから、その言葉を無碍にしたくないのに、手を取れない自分がつらい。
気づけば涙が溢れ、視界が滲んでいる。
ぽろぽろと、あとからあとから止まらない。
『力を手放したくない理由があるのかい』
曾祖母がそう尋ねる声に、少し遅れるようにして、別の声が届いた。
「……依」
千早夜の声だ。すぐ近くで囁かれたみたいに聞こえる。
「依、大丈夫? ……何があったの」
そこで初めて、自分が本当に泣いているのだと気づいた。
依は息を整えようとして、うまくいかないまま口を開く。
「……千早夜さんの言っていた魂写しを、曾祖母ちゃんも知っていました」
上ずりながら、どうにか言葉を繋ぐ。
「でも、霊媒の力をうまく扱えるようにする方法じゃ、なかったんです」
喉が詰まりそうになる。
それでも、ここで言わなければいけない。依は息を継いだ。
「霊媒の力を、私からなくす方法でした。……曾祖母ちゃんが、私の力を引き取って、一緒に持っていってくれるって」
千早夜の息を呑む気配がした。
それきり、返事がない。
短い沈黙だったはずなのに、妙に長く感じられた。
何かを言おうとして、けれど言えずにいるような気配だけが伝わってくる。千早夜もまた、今聞いたことをどう受け止めればいいのか、迷っているのかもしれない。
やがて、言葉を探すように深く息を吐く気配がした。
次に聞こえた声は、依を落ち着かせるように、ひどく優しかった。
「それなら、依はもう今みたいな目に遭わなくて済むよ。霊を引き寄せることも、……痛い思いをすることもなくなる。依の望んでいたものなんだから……」
言いかけて、千早夜は長く沈黙する。
「依、……違う、僕は……そういうことを言いたいんじゃない」
途切れた声のあとに、浅く息を吐く。
「依のためを思うなら、受けたほうがいいって、わかってる」
また少し、間が空く。
苦しそうな沈黙だった。
「でも……言えない。言いたくない。……僕には、依のぜんぶが必要だから」
依の視線の先で、曾祖母が微笑んだ。
『あれが、理由なんだね』
依はゆっくりと、しかし確実に頷いた。大粒の涙が流れて、落ちていった。
『……ごめん、曾祖母ちゃん、ごめんなさい……』
涙がとまらない依の背を、曾祖母がゆっくりとさすってくれる。
その温かさに甘えてしまえば、このまま何も言えなくなってしまいそうだった。
――長らく会えていない人にまた会えたなら、自分の言葉で話せることを、しっかり話したほうがいい。
初めて会ったとき、千早夜に言われた言葉が蘇る。
最後に決めるのは、自分だ。
依は涙を拭って、曾祖母を見る。
『私、この力が嫌だった。東京に来てから変なことばかり起きるようになって、普通じゃない自分になるのが怖かった。少し前の私だったらきっと、曾祖母ちゃんの手を取ってた』
それでも、と思う。
この力があったから、千早夜さんに会えた。
普通じゃない自分でも、誰かの力になれるのなら。
『そんな私を必要としてくれてる人がいるの。……私は、このままでいたい』
曾祖母は目を細め、皺の刻まれた顔をほころばせた。
『わかったよ。でもね、依。魂写しは、あとから頼めるものじゃないんだよ』
『……どうして?』
『魂写しは本来、強い霊に深く憑かれたイタコを助けるためのものだよ。私みたいに、もう還る者だからこそできるやり方なんだ』
還る。未練を終えて、この世から離れていくことを、千早夜はそう呼んでいた。
それはつまり、曾祖母とは――
『もう、会えなくなるってこと?』
『私にはもう、未練はないからね。大事な子が、自分の道を決めようとしているんだ。決して楽な道ではないだろうが、今の依ならきっと大丈夫だよ』
依の背中を、曾祖母が励ますようにぽんぽんと叩いた。
『……ひとつだけ、覚えておいで。霊を降ろすときの話さ』
その顔が、真剣なものに変わった。
『お前の母もそうだったけれど、来るものをそのまま受け止めすぎると、自分のほうが霊に呑まれてしまう。力が強いぶん、霊の影響を受けやすいんだ』
『……だから、あんなに』
それは、これまで依が霊媒をするたびに味わってきた感覚だった。霊の記憶や感情が流れ込んで、いつの間にか、自分のことのように思ってしまう。
『霊媒は、霊の言葉を預かる力。そこまで抱え込まなくていい。自分の名を、心の中でしっかり言いなさい。私は鳴海依。ここから先は、私ではない。そうやって、自分と霊のあいだに境を作るんだよ』
『境なんて……できるの?』
『すぐには無理だ。でも、知っているのと知らないのとでは違うだろう。少しずつ慣れていきなさい』
まっすぐ見つめる曾祖母に、依は小さく頷く。それを見届けると、曾祖母の真剣だった表情から力が抜けて、にっこりと笑顔が浮かんだ。
『……さて、送ってもらえるかい』
その一言で依は唇を引き結ぶ。
泣きそうになるのをこらえながら、そっと目を閉じた。
「千早夜さん」
「……何?」
すぐ近くで返事がした。細く、かすかに震えた声だった。
「私、このままでいいです」
短い沈黙が落ちる。
「……うん」
千早夜は深く、噛みしめるように言った。
「依が、そう決めたなら」
「曾祖母ちゃんを、送らせてあげたいんです」
依は手を差し出した。
ほどなくして、千早夜の手が重なる。そっと握られたその手を、依もまた握り返した。
温かな光の中、曾祖母が依を胸元へ引き寄せる。
『会えて嬉しかったよ、依。元気でね。大好きだよ』
その一言で、こらえようとした涙がまた視界を滲ませた。
『私も、大好き。大好きだよ、曾祖母ちゃん……大好き……』
気づけば何度もそう繰り返しながら、依は子どものように曾祖母の胸に顔を埋める。
曾祖母は何も言わず、ただ優しく依の頭を撫でてくれる。そのぬくもりごと、やわらかな光が曾祖母のまわりを包みはじめた。
ありがとう、曾祖母ちゃん。きっとこれからも、私は大丈夫。
その光は静かに曾祖母の輪郭をほどいていき、徐々に暗くなっていった。
やがて、現実の音が少しずつ戻ってくる。ホールクロックの秒針の音。ガスストーブのかすかな燃焼音。
ゆっくりと目を開けると、伏せていた視界の先に、依の手をつないだままの千早夜の手があった。
「依」
千早夜の声に、依は顔を上げた。目の前の千早夜は、まだ息を詰めたような顔をしていた。依が戻ってきたことを確かめるように、依を見つめている。
依は微笑んだ。
「千早夜さん。私……これからも、そばにいたいです」
一瞬、千早夜の表情が固まって、目を見開いた。
次の瞬間、堪えきれなくなったように依を抱き寄せる。
「依……!」
抱きしめる腕はわずかに震えていた。壊れものを扱うみたいに優しいのに、確かめるようにしっかりと依を包み込んでいる。
「うん……ここにいて。ずっと」
思わずこぼれたような、安堵の声。
依もその声に応えるように、千早夜の背中へそっと腕を回した。




