霊の言葉を預かる力・二
依は息を呑んだ。ゆっくりと振り向いた曾祖母の顔が、どろりとした黒い泥に覆われている。
『私は、お前のせいで死んだんだよ』
思わず後ずさるが、すぐに背中が襖にぶつかった。開けて入ったはずの襖が、いつの間にか閉ざされている。慌てて引手に指をかけ、力をこめても、びくともしなかった。
依はもう一度曾祖母を見た。黒い顔が依を向いている。
『お前が、普通の子でいてくれたなら』
『っ……』
途端に、依を責める声が、頭の中に響いた。
『お前のせいで私は死んだ』
『お前が置いていったから』
両手で耳を塞ぎ、目を閉じても、声はまったく途切れない。重なって、膨れ上がって頭の内側を埋め尽くしていく。
『ちが……っ』
否定しようとした言葉は途中で潰れた。
『お前のせいだ』
『お前が置いていったからだ』
依はその場にしゃがみ込んだ。
胸の奥に押し込めていたものが、無理やり引きずり出されていく。ずっと言葉にしないでいた不安が、声の形を取って、何度も依を責め立てる。
やめたい。逃げたい。違うと叫びたい。
それなのに、意識がそこから離れてくれない。
「……ごめ……」
その言葉がこぼれそうになったときだった。
「依」
静かな声が聞こえた。千早夜の声だ。
「それに返事をしないで」
依を責めていた声が霞むほど、不思議なくらいはっきりと、その声だけが届いた。
「依」
もう一度、名前を呼ばれる。
「僕は、依が今、何を見てるのかはわからない。でも、依は苦しそうにしてる」
そんなに苦しそうに見えているのだろうか。
そう思った途端、目の前の曾祖母の姿が、また少し歪んだ。
お前のせいだ。
お前が置いていったからだ。
消えかけていたはずの声が、もう一度、依を責め立てる。
頭の内側に貼りつくように、何度も、何度も。
曾祖母ちゃんが言っていることは、間違っていないのではないか。
だって本当に、あの日、自分が倒れなければ。霊を引き寄せたりしなければ。曾祖母は、今でも生きていたかもしれない。
「曾祖母ちゃんは……私のせいで」
「依、聞いて」
千早夜の声が強くなる。
「僕は、依が話してくれた曾祖母さんしか知らない」
今度は、すぐ近くで聞こえた。
「帰ってきた依を、いつも迎えてくれた人だったんだよね。心配してくれて、本を読んでくれて……依は、そういう人だったって話してた。……そんな曾祖母さんが、依をそんな顔にさせるの?」
その言葉が、暗闇の奥に沈みかけていた記憶を揺らした。
依の知っている曾祖母は、冷たく責め立てる人ではない。
熱を出したときには、つきっきりで看病してくれた。学校から帰れば、おかえりと迎えてくれた。わがままを言っても、困ったように笑いながら、最後には叶えてくれた。
依が傷つけば自分のことみたいに悲しんで、依が笑えば、それだけで嬉しそうに笑ってくれる人だった。
曾祖母ちゃんは、こんなふうに言わない。
「……違います」
声は震えていた。しかし確かに、自分の意思で出した声だった。
「……うん」
目の前の曾祖母を見据える。
それだけで責め立てる声は、さっきまでのような切実さを失って、ただ耳障りなだけのものへと変わっていく。
自分を責めていたのは、曾祖母ではない。別のなにかが、曾祖母の姿を借りて揺さぶっていただけだ。
「千早夜さん。曾祖母ちゃんじゃないものがいます。……祓って、もらえますか」
一拍置いて、千早夜の声が返る。
「痛むよ」
「大丈夫です。……お願いします」
千早夜が息を吸う気配がして、依の手にそっと触れた。
そこから、鋭い熱が走る。
「っ……!」
身体の内側を、強い光が無理やり通り抜けていくみたいな痛みだった。触れたところから熱が広がって、黒いものを焼き剥がしていく。痛い。けれど、それ以上に、ここで手を離したらだめだと思った。
依は、重ねられた手に力をこめた。
『曾祖母ちゃんを……返して……!』
その言葉とほとんど同時に、胸の奥に絡みついていたものが、ばり、と音を立てて剥がれ落ちる。
視界が白く弾け、依は荒い息のまま、ゆっくりと顔を上げた。
目の前にいたのは、白髪をきれいに結い、目尻に深い皺を刻んだ、小柄な老婆。
『……曾祖母ちゃん』
何度も夢に見た、何度も会いたいと願った、そのままの姿で、曾祖母がそこに立っている。ゆっくりと目を細めた曾祖母の、皺の刻まれた顔がほころぶ。いつも依を迎えてくれるときの笑みだ。
『久しぶり、依。元気にやれているかい?』
その声だけで、涙が出そうになる。
『元気、元気だよ……会いたかった』
『それはよかった。依には、たいへんなものを残していってしまったから、心配だったんだ』
曾祖母は目を伏せ、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
『依の力のこと、言ってやれなくてすまなかったね。依が大学に入る前に、ちゃんと話しておこうと思っていたんだけど……あの日は、曾祖母ちゃんも手一杯だった』
それを聞いて、依は俯く。
『やっぱり、私のせいで、曾祖母ちゃんが……』
『依、それは違うね』
曾祖母は、叱るように依の言葉を遮った。
『依を守りたかっただけだよ。そうすると決めたのは、私。依が自分を責めるのは、お門違いってものさ。……ただ、あの日の霊は、ちと強すぎた。それだけのことだよ』
依を見つめる曾祖母の目元に、深い皺が寄る。
『でも、こうして会えた。依が呼んでくれたからね』
曾祖母が、昔と同じようにゆっくりと両手を広げた。
依はたまらず、その胸に飛び込む。
抱きしめ返してくれた曾祖母の身体は、記憶の中よりもずっと小さかった。背中はひどく華奢で、それでも、ぽんぽんと背を叩いてくれる手のひらからは、確かにあの陽だまりのような温もりが伝わってくる。
『……曾祖母ちゃんが言っていた、話したいことって、私の体質のことだったんだね』
『ああ。依が知らないまま苦しむことだけが、どうしても気がかりだった』
『曾祖母ちゃん。霊を降ろしても、倒れない方法ってないのかな。私、霊を降ろすと、どうしても苦しくなって、自分じゃなくなるみたいで……。曾祖母ちゃんみたいに、やり方さえわかれば、私でも……』
見上げる依の頭を、曾祖母は愛おしそうに撫でた。
しかし、ゆっくりと首を横に振る。
『今すぐ思い通りに扱えるものではないね。それに、厄介な体質というより、霊の言葉を預かる力だ』
『……そ……っか』
覚悟していたはずなのに、声が小さくなった。
『依は、代々のイタコの家系の中でも、霊媒の力が特に強いんだよ。本来、霊というものは、イタコが念じて初めて応じるものなんだ。けれど依は、そんなことも構わず霊を呼び寄せてしまう。そんな子は、私も見たことがなかった。……お前の母も、力は強いほうだったけれどね』
依は腕の中から顔を上げた。
『お母さんも、イタコだったの? ……でも、お母さんは、普通の人じゃ……』
『イタコとして生きたわけではないよ。ただ、そういう血を引いていた。だからあの子もまた、この力を誰より恐れていた子でもあった』
曾祖母の顔に懐かしさはなかった。悔いとも、諦めともつかないものを、長い時間をかけて受け入れてきたような顔だった。
『だから、魂写しをしたんだ』
たまうつし。千早夜が口寄せ前に言っていたイタコの術だ。
『それって……私でも、霊をうまく受けられるようになる方法じゃないの?』
曾祖母は首を振る。
『力を扱うためのものじゃない。……霊媒の力を、別の者が引き取るためのものだよ』
『引き、とる……?』
おうむ返しに問う依に、曾祖母が言う。
『霊媒に根づいた力を、別の者へ移して、そのまま持っていく。お前の母のときは、私の娘――依から見れば祖母だね。その人が、あの子の力を引き取った』
『え――』
曾祖母の声は穏やかだったが、依はその言葉の重さに息を止めた。
『だから、あの子は霊に振り回されずに生きていけたんだよ』
祖母の話を、依はほとんど知らない。
依が生まれるより早くに亡くなったとだけ、聞いたことがあった。
『けれど依が生まれて……霊媒の力を持って生まれた依を見て、あの子は恐ろしくなってしまった。本当に、申し訳ないことをした』
『そう、だったんだ……』
『あの子は依を傷つけたんだ。したことをよかったなんて言わないさ。だがね、霊に怯えていた頃のあの子を、私は知っている。魂写しをした後のあの子の笑顔は本物だった。あの子には、魂写しが必要だったんだよ』
怯えたように自分を見ていた母の目。
――なんで普通になれないの。
そう言い残して去っていった、あの人の顔。
母もまた、この力に苦しめられ、逃げた人だったのか。
『依は霊媒の力が強い。数珠があっても、きっと防ぎ切れはしないだろう。もし今、あの子と同じように、この力のことで悩んでいるなら』
曾祖母が、手を差し出す。
『私がなんとかしてあげられる。魂写しをすれば、依はもう、霊を引き寄せなくなる』




