霊の言葉を預かる力・一
口寄せとは、イタコが自身の肉体を依り代として霊を降ろし、その言葉を現世に伝える儀式である。
千早夜が見つけた本には、そのために必要なことがいくつか書かれていた。
故人にゆかりのある品を用意すること。呼びかける相手をはっきりと定めること。そして何より、相手の霊がその呼びかけに応じるだけの縁や未練を残していること。
霊が対話を拒んだり、口寄せを行う者に対して強い警戒心を持っていると、成立しない。イタコの口寄せは、霊と心を通わせる力が結果に大きく関わってくる。
書庫の書斎机に広げた本を、依は身を乗り出すようにして見つめていた。すぐ隣から、千早夜ものぞき込んでいる。
「今まで僕たちがやっていたのは、目の前にいる霊を依が受ける形だったよね。口寄せは逆で、依のほうから霊を呼ぶ」
自分から霊を呼び、迎え入れる。それも、特定の誰かを呼び寄せるというのは、たしかにこれまでとは違うものだ。
「口寄せのほかに、別の術についても少しだけ触れてあるんだよね」
そう言って、千早夜がページを指先でなぞり、ある一点で止めた。
「魂写し(たまうつし)、って読むみたいだけど……こっちは記述が曖昧で、詳しいことはよくわからない。ただ、依の霊媒の体質をうまく扱う方法があるとしたら、これなのかも」
依はその文字を追いながら、息を詰めた。
「……曾祖母ちゃんは、私の呼びかけに応えてくれるでしょうか」
千早夜を見上げて、言う。
「今までだって、何度も曾祖母ちゃんのことを思い出してきました。会いたいと思ったことだってあります。でも……そんなこと、一度もなかったから」
少しずつ声が小さくなっていく依を見て、千早夜はやわらかく微笑んだ。
「今のこの世界で、依以上に曾祖母さんを口寄せできる人はいないと思うよ」
依は曾祖母と血が繋がっていて、長く一緒に暮らしてきた。そのうえ、形見の数珠もあり、最後に残された「帰ったら話そう」という言葉まであった。
「今まで何もなかったのは……その数珠じゃないかな」
そう言って千早夜は依の左手に目を落とした。
「曾祖母さんが亡くなってから、ずっとつけていたんだよね。いくら依が曾祖母さんに会いたいと思っていても、その数珠が曾祖母さんの霊からも依を守ってしまっていたんだと思う」
「それじゃあ……口寄せは、できないんですか?」
千早夜は首を振る。
「数珠を外していれば成功すると思う。曾祖母さんのほうにも、応じる理由があるから」
しかしそこで、「ただ」と目を伏せる。
「口寄せできたとしても……依の知っている通りの曾祖母さんとは限らない。亡くなる直前まで霊を抱えていたなら、その影響を受けたままかもしれないから」
依を見つめる瞳がわずかに揺らぐ。
「依を傷つけようとするかもしれない」
千早夜のその言葉から、依を心配する気持ちが痛いほど伝わってくる。それでも、危ないからとやめてしまえば、結局、千早夜に守られるだけの自分になってしまう。
これまで依はその体質を厄介なものとして持て余し、できるだけ目立たないように、不幸が起きないようにと、そればかり考えてきた。
けれど、もうそれだけではいられない。
怖くても、普通ではない自分から、もう目を逸らしたくなかった。霊を降ろしても倒れずにすむ方法があるのなら、それを知りたい。
本気で向き合いたいと思ったのは、きっと今が初めてだった。
「……大丈夫です」
依は深く息を吸ってから、言った。
「口寄せ、やってみます」
場所は翠月館の応接室だった。
いつも千早夜が相談者を迎え入れ、占いをしている部屋だ。窓からは昼下がりのやわらかな陽が差し込み、部屋の中を淡く照らしている。これから霊を呼ぼうとしているのに、不釣り合いなくらい穏やかな午後だった。
ただ、今日はいつものように、センターテーブルを挟んで向かい合う形ではなかった。
壁際にあった猫脚の肘掛け椅子が、窓辺へ移されている。艶のある木枠に、深い緑のベルベットが映える。普段、相談者が座るソファとは違うその椅子に、依は深く腰を下ろした。
千早夜がその正面で片膝をついた。
いつもは見上げている整った顔が、今は少し下から依を不安げに見つめている。
「……口寄せも、霊を降ろすことに変わりはない。危ないと思ったら止めるよ。相手が依の曾祖母さんでも」
「……はい。お願いします」
依が頷くと、千早夜は立ち上がり、一歩だけ後ろへ下がった。
依は左手から数珠を外し、両手で包むようにして膝の上に置くと、少し先に立つ千早夜を見ながら深く息を整えた。
そして、そっと瞼を閉じる。
視界が暗くなると、部屋の音がひとつずつ浮かび上がってくる。ホールクロックの秒針の音。ガスストーブのかすかな燃焼音。そして、自分の心臓の鼓動だけが、どんどん近づいてくる。
――曾祖母ちゃん。
胸の奥で、願うように呼びかけた。
帰ったら話そう。そう言っていた、あの日の言葉を、今度こそ受け取りたい。
――会いたい。
その瞬間、足の裏の感覚がすっと抜けた。床が遠のく。身体の輪郭が、煙みたいに溶けていく。
音も、視界も、感覚もなく、ただ漠然とした意識の欠片だけが、あちこちに漂っていた。曾祖母に会いたいと、探すように強く念じたとき、どこかから働くかすかな引力に吸い寄せられるように、ばらばらだった欠片がゆっくりと集まって、自分を取り戻していく。
そうして目の前にひらけたのは、懐かしい景色だった。
二人で近所の商店へ、夕飯の買い物に出かけたこと。学校の帰り道、迎えに来てくれた曾祖母と雪の残る道を手をつないで歩いたこと。青森の古い家で、朝の食卓を挟み、今日の予定を話しながら一緒にご飯を食べたこと。
そのひとつひとつを、依はちゃんと覚えている。曾祖母とのあたたかい思い出が、淡い光の中を次々に流れていく。
依はそのひとつへ手を伸ばす。しかし指先が光に触れた途端、淡く流れていた記憶はさっと色を失って、景色ごと停止した。それは音もなくひび割れ、黒ずんだ欠片になって崩れ落ちていく。
気づけば依は、襖の閉まった部屋の前に立っていた。にび色の板張りの廊下は、先へ行くほど暗く、奥が黒く沈んで見えない。雨戸が閉めきられ、家の中は灰色に静まり返っている。それでも、見覚えのある場所だった。
依はもう一度、目の前の襖を見る。私はいま、曾祖母ちゃんの部屋の前にいる。ここは、曾祖母と暮らしていた家だ。
曾祖母ちゃんが、いる?
依は引手に手をかけ、そっと襖を開けた。
部屋の奥では、古びた仏壇の前に、小柄な老婆が背中を丸めて正座していた。ひとつにまとめられた白髪と、見慣れたはずの後ろ姿が、ひどく暗く見える。
『曾祖母ちゃん……?』
『どこに、行っていたんだい?』
近づこうと部屋に足を踏み入れたとき、曾祖母は振り向かないまま言った。
『え……?』
『私を置いて、どこに出かけていたんだろうね、この子は』
聞き慣れた懐かしいはずの曾祖母の声が、冷たく聞こえた。
置いて、と言われて、すぐに受験のときを思い出した。やはり、曾祖母は自分を恨んでいるのだろうか。
『……曾祖母ちゃん、置いて、って……受験の時の……こと?』
曾祖母は答えない。
『曾祖母ちゃん……曾祖母ちゃんはやっぱり、あのとき……』
『そうだよ』
曾祖母の声が、感情もなく落ちた。
『お前が、置いていったからだ』




