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失った力の行方・四

 もくもくと読んでいると、穏やかな時間が流れ、ページをめくる音が静かに聞こえる。

 しかし依は、手元の本に行き詰まっていた。

 昼食を済ませてから、もう二時間ほど経っただろうか。気合を入れて読み直しても、難しい文章が急に頭に入るようになるわけではない。

 小さく息を吐いて視線を落とすと、椅子の足元に積まれた本の山の、いちばん上にあった一冊が目に留まる。

 それだけ、他の古い本たちとは雰囲気が違っていた。厚みのあるハードカバーで、表紙には金の英字で『FINE MINERAL』とある。下には、赤くごつごつとした石――宝石というより、まだ自然のままの鉱石、といったほうがしっくりくる写真が載っていた。

 気づけば依は、何気なくその本を手に取っていた。ぱらぱらとページをめくると、さまざまな種類の、まだ宝石になる前の、加工されていない状態の鉱物の写真で埋め尽くされている。形も色も少しずつ違っていて、見ていて飽きない。

「これ、綺麗ですね」

 口にした依を見た千早夜の表情が、「あっ」という、これまで聞いたこともないような間の抜けた声と共に崩れた。

「え? ……これが、何か。パワーストーンとか、占いの勉強の本ですか?」

 依が本と千早夜を見比べながら聞くと、千早夜はわずかに目を逸らした。

「……ただの息抜きのための本だから、関係ないよ」

 その声には、照れくささと、気まずさが混じっている。そんな千早夜を見るのは新鮮で、依は思わず笑みをこぼした。

「石、好きなんですね。これとか綺麗ですし……あっ」

 読んでいる途中で、本をするりと取り上げられてしまった。

「調べ終わってからね。……ごめんね」

 こういうことをする千早夜はますます珍しい。よほど恥ずかしいのだろうか。

「……依は」

 ほんの少しごまかすように咳払いをしてから、千早夜が口を開いた。

「ふだん、どういう本を読むの?」

「う、私は……」

 いきなり振られて、依は返事に詰まった。

 本を読まないわけではない。けれど、胸を張って「これが好きです」と言えるほど、たくさん読んできたわけでもない。

「実は……あまり本は読まないんです。印象に残っているのは、星の王子さまですけど」

「聞いたことはあるけど……どんな話?」

「えっと……自分の星に咲いた、たった一輪のバラを大事にしていた王子の話です」

 依は、曾祖母との記憶をひとつずつたどるように話し出した。

「小学一年生のころ、曾祖母ちゃんが買ってくれた本で……今でも印象に残ってるんです」

 友達が持っていた『シンデレラ』や『不思議の国のアリス』みたいな、海外の童話の本が綺麗で、ひどくかわいく見えたことがあった。

 それで依も、もっとかわいい本が読みたいと曾祖母にねだったのだ。

 今にして思えば、ずいぶん勝手なわがままだった気がする。

 それでも曾祖母は、そんな依を軽くたしなめただけで、次の日には、やわらかな色合いの表紙に小さな男の子が描かれた『星の王子さま』を買ってきてくれた。

「最初は曾祖母ちゃんに読み聞かせてもらっていました」

 子どもの頃の依は、その話の意味をちゃんとわかっていたわけではない。けれど、何度も読んでもらううちに、なぜだかずっと覚えている言葉があった。

「キツネが王子に教えるんです。自分で時間をかけて大切にしたものは、他の何より特別になるんだって」

 少し前まで、その意味をよく理解できていなかった。でも今なら、わかるような気がする。

「たぶん私は、本を読むことより、曾祖母ちゃんが読み聞かせしてくれる時間のほうが好きだったんです。気づけば毎回、決まって『星の王子さま』を読んでもらってました」

 千早夜は口を挟まず、ただ静かに依の話を聞いていた。穏やかな眼差しが向けられている。

「依が、曾祖母さんのことを大好きだったのがわかる」

 依は深く頷いた。

「……大好きでした」

 しかし、そう言うとどうしても、最後のことまで思い出してしまう。

「曾祖母ちゃんが亡くなったの、私の大学受験のころだったって話、前にしましたよね」

「うん」

「まわりには仕方ないことだって言われました。でも……その前に、ずっと私の看病をしてくれていたんです」

「看病?」

「はい。私が高い熱を出して、何日も寝込んで。そのあと、曾祖母ちゃんも体調を崩してしまって、そのまま……。だから、たぶん、私がうつしてしまったんだと思います。本当に、つきっきりで看病してくれていたから」

 千早夜からの返事はなかった。

 ページをめくる音も止んで、書庫に、時間が止まったような静けさが落ちる。暗い話をしてしまったからだろうか、そう思って、千早夜のほうを見上げた。

「依がかかった病気って、どんなの?」

 千早夜は、開いた本のページをじっと見つめながら、低く言った。

「え? ど、どんなって……」

「そのときの症状。覚えてる?」

「……高熱が出て、身体がすごくだるくて、毎日、うなされるくらいの……」

 言いながら、依には違和感があった。

 つい数日前にも、同じようなことがあって、千早夜が医者を呼んだのだ。

 あのときも、もちろん医者には診てもらった。しかし結果は。

「……病名は……わからないって……風邪薬も効かなくて……」

 身体が重く、熱い。呼吸が浅くなって、息苦しい。

 それはまるで、フミのような強い霊に憑かれたあとの症状と同じだった。

 千早夜は、あれを霊を降ろした影響だと言っていた。

 そこまで思い至った瞬間、どくり、と心臓が大きく跳ねた。

「……つきっきりで看病って、どういうことしてくれたの?」

 千早夜が、今度ははっきりと依のほうを見て言う。

 あのときのことは、忘れもしない。

「私の手を……ずっと握ってくれていました」

 枕元に座って、朝から晩まで。大丈夫だよ、依。すぐにきっとよくなるからね、と、何度も声をかけながら。

 依の中で、ひとつひとつの記憶が勝手につながり始めた。

 高瀬に触れたときのことだ。あれは一瞬だったが、数珠を付けていても、高瀬に憑いていたものは依に移った。

 霊でなくても、触れただけで移ることがある。

 そして曾祖母は、あのときずっと依の手を握っていた。

 熱に浮かされる依の手首に、あの数珠を通してくれたのも曾祖母だった。

「……依」

 千早夜が、慎重に声をかける。

「曾祖母さんは、普段からよく、依に触れていた?」

 その問いに、胸の奥がひやりとした。

 依が帰ると、曾祖母はいつも「おかえり」と言って抱きしめてくれた。

 少し遅くなっただけで心配して、手を握って、大丈夫だよと何度も言ってくれた。

 東京に来るまで、依のまわりで今のような不幸が続かなかったのは、もしかして。

 血の気がさっと引いていく。

 あの看病は、依を励ます以外に、別の意味があったのではないか。

 依は思わず、両手で顔を覆った。

「私が、曾祖母ちゃんに、霊を……うつしちゃったんですか……?」

 千早夜は答えなかった。ただ、苦しそうに視線を落とした。

 あのときのことが、嫌でも蘇る。

 看病してくれた翌日、曾祖母は急に体調を崩した。依は風邪をうつしてしまったと思って何度も曾祖母に謝ったが、気にしないで大学の受験にいきなさいと、むしろ依を急かしたのだ。

 その日が受験当日で、どうしても外すわけにはいかなかったから。

 青森にいた依は、受験のために一泊してから帰宅した。

 そのときにはもう、遅かった。

 俯く依に、千早夜は声をかける。

「本当のところはわからない。……けど、もしそうなら曾祖母さんがあえて依の霊を引き受けたんだ。依を守りたかったから」

 その声があまりにも優しくて、依の胸の奥から、後悔と、どうしようもない無力感がいっぺんにせり上がってきた。

「曾祖母ちゃん……最後に言ってたんです。私が帰ってきたら、話したいことがあるって。きっと、私の体質のことだったんです。曾祖母ちゃんがイタコだったことも……もしかしたら話す気で」

 知らなかった。

 何も知らないまま、自分は曾祖母に守られていたのか。

 伝えたかったことがあったのなら、曾祖母はどんな気持ちで自分を送り出したのだろう。

「それすら、聞けなかった……」

 ほとんど独り言みたいにこぼれた。依は顔を覆った手を下ろせなかった。

 あのとき、自分が何を引き寄せていたのか。曾祖母が何を引き受けてくれたのか。どうして、今まで気づけなかったのだろう。

 守ってくれていたのだと、千早夜は言ってくれた。けれど、その言葉を確かめる相手はもういない。

 謝ることさえ、できない。

 千早夜は俯く依にかける言葉がないまま、何かに気づいたように、開いていた本へ視線を落とした。

「……霊は……心残りが強ければ強いほどこの世に留まる」

 そう言ってから、千早夜は依の肩にそっと手を置いた。

「依、曾祖母さんに、話を聞けるかもしれない」

 一瞬、意味がわからなかった。

 依はゆっくりと顔を上げた。

「どういう、ことですか……?」

 千早夜は開いた本のページを依のほうへ向けて、言った。

「……口寄せ」

「口寄せ……?」

 内容は、イタコに関するものだ。依たちが最初に探していたものであり、ちょうどそこに、口寄せに関しての記述もある。その周辺には、古い術や禁忌に関する断片的な記述も見える。

「依の霊媒体質のことも、曾祖母さん本人に聞ければ……あるいは」

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。

それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!

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