エピローグ
◇
それからしばらくして、翠月館のノッカーが静かに鳴った。
依は玄関ホールへ向かい、息を深く吸ってから扉を開ける。
立っていたのは、三十代半ばほどの女性だった。仕立てのよいコートに、控えめな真珠の耳飾り。きちんと身なりを整えているのに、その顔には隠しきれない疲れがある。
女性は目を伏せ、眉を下げながら、ためらいがちに口を開く。
「……少し変わったご相談にも乗っていただけると伺って……。普通なら、信じてもらえないような話なのですが」
「変なことだなんて、思いませんよ」
以前の依なら、自分を隠すために、そんなふうには言えなかっただろう。
「不安になるお気持ち、よくわかります。……私も、そうでしたから」
その言葉に、女性ははっとしたように顔を上げた。張りつめていた表情が、かすかにやわらぐ。
コートを預かり、応接室へ案内する。ダイニングでは、淹れたばかりのコーヒーが静かに香りを立てていた。
依がトレイを持って応接室へ入ると、ちょうど女性が話し始めたところだった。
「最近、家の中でおかしなことばかり続いていて……誰もいないのに物音がしたり、急に寒くなったり。私だけなら気のせいかと思えたんですけど、娘まで怯えるようになってしまって」
占いを頼りに来る客もいれば、最初から祓いを求めて訪れる客もいる。
けれど実際には、この女性のように、自分に起きていることが何なのかもわからないまま、不安だけを抱えて扉を叩く人が少なくなかった。
「はい」
千早夜の落ち着いた声が応じる。
「今のところ、あなた自身に強い影響が出ているようには見えません。……でも、その場所に何かある可能性はあります。詳しくお話を聞かせてください」
女性は緊張したまま頷いた。
千早夜が静かに顔を上げる。その声音は穏やかなままだったが、以前よりも迷いがなかった。
「霊が関係していることもあります。その場合は祓うこともできますよ」
ほんの一拍置いて、千早夜は言った。
「僕たちは、祓いの仕事もしていますので」
依は、その言葉に小さく息をついた。
応接室の窓の向こうでは、温かな光が差し始めていた。少し前まで肌を刺していた風も、今はどこか丸くなっている。
春休みも、もうじき終わる。表通りのほうでは、そろそろ桜もほころび始めている頃だろう。
依は手帳を開き、少し先に座る千早夜を見る。
千早夜は相談者の話に耳を傾けていた。その横顔には、初めて会った日に見たような空虚さはもうない。
祓い屋としての彼がいて、その隣に、霊の言葉を預かる自分がいる。
このままの自分でいていい。
そう思える場所を、二人でちゃんと見つけたのだ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!




