失った力の行方・二
「……え?」
依はゆっくりと顔を上げる。今の自分は、不安でいっぱいで、きっとまともな顔をしていない。それでも、取り繕う余裕なんてなかった。
「……私のこと、イタコの血筋だって言っていましたよね」
千早夜は意味を測りかねたような表情で依を見た。
「曾祖母ちゃんが本当にイタコだったなら、きっと……霊を降ろしても大丈夫な方法が、あるんじゃないですか」
千早夜がかすかに目を見開いた。しかしすぐに眉を寄せ、言い聞かせるように言う。
「……依が霊を降ろすことには変わりないよ。危ないのは、変わらない」
「でも……方法があるなら、今よりは安全にできるかもしれません」
千早夜はすぐには否定しなかった。
少しでも、考えてくれている。そう思えただけで、依はようやく息を継げた。
「お願いします。調べるだけでも、だめですか」
身を乗り出して言うと、千早夜は眉を下げ、かすかに口元をゆるめる。
「……依、普通になりたいんじゃなかったの?」
言われて、はっとする。
たしかに、そうだ。自分が霊媒体質なのだと知ったときも、もう普通にはなれないのかもしれないと思った。それなのに、うまく扱えるようになりたいなんて、少し前の自分なら考えもしなかった。
「普通には、なりたいです。……でも、それとこれとは、別というか……」
千早夜は観念したように、小さく息を吐いた。
「それじゃあ、調べてみようか」
「あ、あの、勢いで言っちゃいましたけど、どうやって……」
「僕の力が制御できなくなってから、いろいろ調べて集めた本が書庫にあるんだ。その中に、霊を降ろすことについて書かれたものもあったと思う」
二階の奥に、まだ入ったことのない部屋があることは知っていた。けれど、その手前には千早夜の私室があって、そこが書庫だとは思っていなかった。
そういえば千早夜は、予約のない日や夜の空いた時間に、よく本を読んでいた。今だって、依が目を覚ましたとき、読みかけの本を手にしていた。
「方法が見つかるかもしれない。……ただし、調べるだけだよ。すぐ試すわけじゃない」
念を押すような言い方だったが、それだけでも依には十分だった。
「もちろんです! だから、その……お祓いのお仕事の話は、保留でお願いします」
「……うん」
千早夜は穏やかに目を細めた。少しだけ、肩の力が抜けたように見える。
「依の体調が戻ってからにしよう。……なにか食べたいものある?」
「た、食べたいもの……まさか千早夜さん、作るんですか?」
「デリバリーにする。僕、料理できないし、今ここで挑戦したものを依に食べさせるわけにもいかないから」
◇
数日後の午前、ようやく身体のだるさが抜けたころ。
依は千早夜とともに、二階のいちばん奥にある書庫の前に立っていた。
千早夜が扉を開けると、そこには本棚と本で満たされた部屋があった。
広い部屋ではない。しかし、中央には本棚が四台、背中合わせで据えられ、左右の壁にも棚が並んでいる。それでも収まりきらなかったらしい本が、床のあちこちに積まれていて、本の密度に圧倒される。
そのほとんどが、今ではもう普通には手に入らなさそうなものばかりだ。函入りの本から、背表紙に『民俗学――について』のように辛うじて読める古い本、文字が掠れて、表題すら見当もつかない和綴じのものも混ざっている。
部屋の奥、やや高い位置に設けられた丸窓には、蔦に縁取られた三日月のステンドグラスがはめ込まれていた。その下には書斎机が置かれている。
ここで千早夜が本を読んでいたのだろうか。
「素敵ですね」
「集中はできるよ。一人になりたいときとか、考え事したいときとかね」
そう言って、千早夜は本棚へ手を伸ばす。
「きれいに整理してるわけじゃないから、少し手間取るかもしれないけど」
背表紙を順に見ながら、迷いなく何冊か抜き出していく。この部屋の本の位置はだいたい頭に入っているらしい。
「私は、何を見ればいいですか」
「こっちお願いしてもいい? 調べ終わったら教えて」
「わかりました」
千早夜が抜き出した本のうち、半分ほどを受け取った依は、そのまま床に積まれた本の隙間に腰を下ろそうとした。
「依、座るならこっち」
顔を上げると、千早夜が書斎机の椅子を引いている。
あまりにも当然みたいな口調で言われてしまって、依は「ありがとうございます」と小さく答え、その椅子に座った。
千早夜は頷くと、書斎机の端に軽く腰を預けるようにして、自分の本を開いた。
見上げた横顔は、すでに真剣なものに変わっていた。依も意気込んで本を開いてみたものの、ほどなく頭を抱えることになる。
内容以前に、文章が難しい。ちゃんと日本語で書かれていて、読めないわけではない。けれど、今の本みたいにするすると頭に入ってくる文章ではなく、一行読んでは戻るのを繰り返す。ざっと中身を確かめるだけでも想像以上に時間がかかった。
ちらと千早夜のほうを見ると、彼は依の本よりさらに難しそうな、文字がのたくったような和綴じ本を開いていた。わざわざ読みやすいものを選んで渡してくれたのだろう。それなのに、これくらいで音を上げるわけにはいかない。依は気を取り直して、もう一度本に目を落とした。
読んでは戻り、わからない言葉に引っかかり、また同じ行を追う。そんなことを繰り返しているうちに、まぶたが重くなってきた。
どのくらい時間が経ったのだろう。空腹まで覚え始めている。もう昼を過ぎているのかもしれない。
読んでいるのか、ただ文字を目でなぞっているだけなのかも怪しくなってきたとき、ふと、開いているページの端に小さく文字が書き込まれているのに気づいた。
『効果は一時的』
最初は、古い本だからこういう書き込みはあるものだろうと思っていたが、ページをめくるたびに似たような文字が目に入る。
『再現性なし』『前資料と同じ』『治癒例なし』
細く整っていて、癖が強いわけでもないのに、なぜかすぐそれとわかる、静かな字。
この文字には、見覚えがある。依は息を止めた。
占いの仕事のとき、千早夜が手帳に書きつけている字と同じだった。
依は別の本を開いた。そちらにもある。さらにもう一冊開く。やはり、ある。ページの隅、余白、見出しの脇。読み込んだ跡のように、同じ字があちこちに残っていた。
「……」
言葉が出なかった。
ここにある本は、ただ集められているわけではない。明確な目的をもって集められ、開かれ、読み込まれた痕跡が、こうして残されている。
二年前、力を制御できなくなって、京都を出たと千早夜は言っていた。
そのあと、東京に来てからの時間を、今も隣で本に向かっているこの人は、何に使っていたのだろう。




