失った力の行方・一
身体がひどく重い。
ひどい風邪をひいて、熱を出した翌日みたいに、手足にだるさが残っている。息苦しくて、喉まで乾いていた。
前にもこんなことがあった気がする。
小柄な和服姿に、きれいに結われた白い髪。目尻に刻まれた深い皺。依を見るときだけ、いつも少し困ったようにやわらぐ目。
曾祖母は、依にとって唯一の家族だった。
子どもの頃、依はよく熱を出して寝込んだ。そのたびに曾祖母はこうして枕元にいて、何度も手を握ってくれた。大丈夫だよ。すぐよくなるからね、と、同じ言葉を繰り返しながら。
けれどその日は、いつもと少し違っていた。
『依にこれを渡しておくよ』
温かい手が、依の左手首に何かを通す。
熱でぼんやりした頭では、それが何なのかよくわからなかった。ただ、肌に触れたものが、少しだけ冷たかったことだけは覚えている。
『もうすぐよくなるからね』
曾祖母の声が、少しずつ遠くなる。
握られた手の温もりだけを残して、視界が徐々に白んでいった。
「……ここ……」
薄く目を開けると、ぼやけていた視界が色づき、輪郭がはっきりとしていく。
見慣れた太い梁のある天井が見えて、ここが翠月館の、依の部屋だとわかった。
部屋に差し込む陽はすっかり高い。もう、お昼ごろだろうか。
「起きた?」
予想もしないタイミングで声がかかった。
声のほうへ顔を向けると、窓際の丸テーブルに千早夜が座っていた。読みかけの本を片手に、こちらを見ている。
「ち、ち、ちはや、さん!?」
出せる限りの声で言ったつもりだった。けれど実際には、声はかすれ、跳ね起きたつもりの身体も、たどたどしく上体を起こしただけだった。
「な、なんで……」
「倒れたからね」
千早夜は本を閉じながら答えた。
「あれから依、熱を出してたんだ。医者にも診てもらった。霊を降ろした影響だろうから、風邪ではないと思っていたけど……念のためにね」
「お医者さん……」
「九条さんの件は、もう話をつけてある。高瀬さんも落ち着いているから、今は何も気にしないで、休んでね」
そう言う千早夜の視線が、依からベッド脇へと流れる。
見れば、サイドテーブルに薬の袋と水差しが置かれている。銀色のトレイの上には、透明なカップに入った果物のゼリーまである。大ぶりな白桃の果肉が入った、見るからに良い店のものだった。
そこでふと気づく。汗で張り付いていたはずの服が、肌ざわりのよさそうな寝間着に変わっている。
依は思わず布団を引き上げた。
「あ、あの、着替え……」
「看護師にやってもらったよ。僕がやるわけない」
医者には、女性の看護師も同行してもらったらしい。
「……ありがとうございます」
おずおずと答えると、千早夜は立ち上がりかけて、途中で動きを止めた。
「熱、見てもいい?」
依がこくりと頷くと、千早夜はベッド脇まで来て、そっと依の手を取る。
「……下がったね」
「わ、私は、どのくらい寝てましたか」
「丸一日。……明け方までうなされていたけど、今は少し落ち着いたみたいだね」
「えっ……千早夜さん、お仕事は」
「全部、日を改めてもらったよ。急な事情だと伝えたら、わかってくれたから」
それを、千早夜はなんでもないことのように言った。
丸一日寝ていたことにも驚いたのに、明け方までうなされていたということは、そのあいだ千早夜はずっとそばにいてくれたのだろうか。
そう思った途端、申し訳なさと、どうしようもない嬉しさがこみ上げた。
「……ありがとうございます」
辛うじて言えたのはそれだけだった。
千早夜は頷いて、依の顔色を確かめるように見る。
「まだ寝てたほうがいいよ。無理に起きなくていい」
「い、いえ……大丈夫です。それより、フミさんは……ちゃんと還れたでしょうか」
そう言うと、千早夜はすぐには返事をせず、依を見返した。その表情にはわずかな翳りが見え、やがてベッドの端に浅く腰を下ろした。
「僕が祓ったよ。あのままだったら、依が危なかったから」
「……そう、ですか」
依は俯いた。両手で掴んだ布団に細い皺が寄る。
「ごめんなさい。私が、最後までちゃんとフミさんを受け止めきれなかったんですね。……千早夜さんの言うことを、もっと早く聞いておけば」
「あの霊は、最後に謝ってた」
依は顔を上げる。
「依がいたからだよ」
泣き崩れていたフミの姿と、最後にこぼれた謝罪の言葉が蘇る。フミの心は、穏やかではなかったかもしれない。それでも、最後に謝ることができたのなら、少しでも救いになっていたのだろうか。
「……それなら、あれは……夢じゃなかったんですね」
「うん」
依は無理に笑って、顔を上げようとした。
「じゃあ、次はもっと、ちゃんとできるように――」
「依」
遮る声は、静かだった。
それだけなのに、さきほどまでの穏やかな空気にぴりっとした緊張が走る。ゆっくりとこちらを向いた千早夜の顔からは、いつものやわらかさが消えていた。
「今までと同じやり方で、霊を降ろして祓うのは……やめよう」
「……え……?」
その言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。
「……どういう、ことですか?」
「依と一緒に霊を祓うのは、今まで通りには続けられないってこと」
理解が追いつかなかった。
続けられない。この仕事を、一緒にはできない。いろんな言葉で言い換えてみても、依がいちばん信じたくない意味に行き着く。
「……私が、フミさんの霊に呑まれちゃったからですか……?」
「違うよ。依は悪くない。ただ僕が、あんなふうに危ない目に遭わせたくないと思ったから」
「それは、私のせいで……。それに、千早夜さんだってそれは知ってて」
「……うん、知ってたつもりだった」
依は目を見開いた。
「依が危なくなる前に、僕が止められると思ってた。……でも違った」
「そんなこと――」
千早夜を見た途端、言いかけていた声が止まった。
意識が途切れる直前に見た、あの苦しそうな顔が、目の前にあった。
「このまま続けて、また今回みたいな霊がいたら、次は依を助けられるかわからない。それが嫌なんだ」
千早夜はそう言ってベッドの端から立ち上がると、窓際の丸テーブルへ向かい、読みかけの本のそばに置いてあった数珠を手に取った。
「ごめんね、返しそびれてた」
差し出された数珠を、依はすぐには受け取れなかった。
黒い石の連なりが、千早夜の手のひらの上にある。
受け取ってしまえば、もう今まで通りには続けられないのだと、自分まで認めてしまう気がした。
「私は、もう……千早夜さんの役には、立てないんですか」
「そんなことない。今までと同じやり方は続けられないけど……依が嫌じゃないなら、ここにいて」
千早夜は俯いたままの依の左手をそっと持ち上げると、優しい手つきで数珠を手首へ戻した。
「依に憑く霊は、僕がちゃんと祓うから。……依の生活は、できるだけ変えたくない」
千早夜は、安心させようとしてくれているのだと思う。けれど、その言葉も、依を大切に扱うような仕草も、胸の奥を鈍く締めつけた。
必要だと言われたとき、依はそれが体質のことだと思い込もうとした。
それなのに今は、その体質ごと危ないから切り離すと言う。
だったら、ここにいてほしいという言葉を、何として受け取ればいいのだろう。
「……それだと、私、ただ置いてもらっているだけになります」
「依」
千早夜が、やわらかな声で呼んだ。その声にすがってしまう前に、依は言葉を重ねる。
「そんなのは……嫌です。私は……お祓いの仕事ができないなら、ここには、いられません」
千早夜の顔をまともに見られない。涙がこみ上げてくるのを、布団を握りしめて堪える。
千早夜の返事はなかった。何かを言おうとして身じろぐ気配はあっても、言葉にはしない。
その沈黙が、かえって苦しかった。
うつむいた視界の端に、手首へ戻された数珠が見えた。
苦し紛れだったのかもしれない。自分でも考えがまとまるより先に、言葉が口をついて出ていた。
「私が、危なくなければ、続けられますか……?」




