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蔵に残るもの・七

 蔵の中には、傾きかけた日のうっすらとしたオレンジ色の光が、明かり取りの窓から差し込んでいた。

 その中で、依はただ立ち尽くしていた。

 千早夜の手を振り払った直後から両手は力なく下がり、目を閉じた顔からは、表情らしいものが抜け落ちていた。

「……依?」

 反応はない。

 千早夜は眉を寄せ、確かめるようにもう一度名前を呼んだ。

「依」

「ここカラ、出て、いけ……!」

 低くうなるような声と同時に、依の目が開いた。千早夜を見るその目は黒く、光を失っている。

 千早夜の表情が、痛みを堪えるように歪む。目を伏せ、数珠を握る手に力がこもった。

「……ごめん」

 少しの沈黙のあと、上げた顔に迷いはなかった。

 千早夜はフミへ近づく。

「依を返せ」

 冷たい声に気圧されたように、フミが後ずさる。依の身体を翻し、逃げようとしたその二の腕を、千早夜が躊躇なく掴んだ。

「あ、ああぁ……!」

 悲鳴を上げて、フミが激しく身をよじる。

「依」

 千早夜が呼ぶ。その声だけが、場違いなくらい静かで優しかった。

「ヤメろ……!」

 しかし口から漏れるのは、フミの声だった。憎々しげに千早夜を睨みつけ暴れる。

「さワるな、サわるなァ!」

 叫びと同時に、空いている手が喉元へ伸びた。指先が依の喉にかかりかけたその瞬間、千早夜は息を呑み、つかんでいた腕を強く引き寄せる。

 依の身体が大きく揺れ、千早夜のほうへ引き戻されると、間髪を入れず、千早夜は喉元へ伸びていた手首をつかみ上げた。

 両腕を封じられた依の身体が、千早夜の目の前で止まった。

 触れそうなほど近い距離で、フミがなおも睨み上げてくる。

「依を傷つけるな」

 千早夜の低い声が落ちる。

 その言葉に抗うみたいに、フミはなおも身をよじろうとするが、その力は、さっきまでよりわずかに鈍っている。

「戻ってきて」

 今度は、はっきりと依へ向けて呼ぶ声だった。

 

 ――遠くで、誰かが呼んでいる。

「依」

 もう一度、その声がする。

 暗がりの向こうから、まっすぐ届いてくる。

 沈みかけていたものが、その声に引き上げられるように、少しずつ浮かび上がる。

 さきほどまで胸の奥を支配していた憎しみと拒絶は、もう遠い。吹けば散ってしまいそうなほど弱々しく霞んでいる。

 残っているのは、息が詰まるほどの悲しみと苦しさ、それから、どうしようもない後悔だった。

『いや……いや、だ……』

 うずくまったフミが、かすれた声で泣いている。

 もう怒りだけでは支えきれないのだ。手紙も、最期も、何が起きたのかも、きっともうフミはわかってしまっている。

 それでも、それをそのまま受け入れるには重すぎる。すぐに飲み込めるはずがない。

『フミさん』

 依が呼ぶと、フミがびくりと顔を上げた。

『……つらい、ですよね』

 フミの顔が歪む。

『……だって、私は……』

 依はゆっくりと言った。

『私だって、あの手紙を見たら、すぐに受け入れられるかどうかわからないです。フミさんは、もっとずっと苦しかったと思います』

 その言葉に、フミの目から大粒の涙がこぼれた。

『うう……ああぁ……』

 依は嗚咽を漏らすフミの隣にしゃがみ込み、そっと肩を抱いた。

 かけられる言葉は多くない。

 けれど、それでも、フミの中にはまだ、このまま消えてしまえない想いが残っている。

『フミさんは……とても素敵な人だと、思います』

 うつむいたままのフミに、依は語りかける。

『隆一郎さんから櫛をもらったとき、嬉しかったですよね。あんなふうに喜べたのは、それまでずっと、隆一郎さんを想って支えてきたからだと思うんです』

 依は小さく息を吸った。

『その想いが通じなかったように見えたから、あんなに苦しかったんですよね。……それだけ、隆一郎さんのことを大事に思っていたから』

 フミの肩が、かすかに震える。

『あの手紙には……隆一郎さんが最後までフミさんを心配していたことが、ちゃんと残っていました』

 胸の奥に残る気配を確かめるように、依は言葉を続けた。

『……フミさん、まだ言えていないことが、あるんじゃないですか』

 フミの嗚咽が途切れ、こわばっていた肩から力が抜ける。

 押し込めていた後悔が、ようやく表に出ようとしていた。

 あの蔵で見た穏やかな記憶の欠片を思い出す。櫛を渡されたときの、あたたかな眼差し。自分を想ってくれていたと知ったときの、どうしようもないほどの愛しさ。

 フミは震える手を、もう届かないあの人の頬に触れるように伸ばした。

 ああ、隆一郎さま……

 その想いが、そのまま声になった。

「ごめんなさい」

 蔵の中で、依の口から確かにその言葉がこぼれていた。その一言を最後に、依の中からフミの気配が消えた。

 すぐ目の前で千早夜が目を見開き、くずおれそうになる依を抱き止めた。

「依。……依……!」

 ほとんど身体の感覚がなく、力も入らない。

 けれど、抱き止められていることと、すぐ目の前にある千早夜の苦しそうな顔だけは、はっきりわかった。

 戻ってこられたのだと、遅れて理解する。同時に、安堵と、フミを穏やかに還せなかったやるせなさが胸の奥でないまぜになる。

 それでも今は、ただ、ひとつ。千早夜にこんな顔をさせてしまったことがつらくて、依はどうにか唇を動かした。

「私、だいじょうぶ、です……」

 そう言い終えるより早く、依の意識はふっと途切れた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

とくに派手な回でなくとも、楽しんでいただければ幸いです。

それでは、次回もどうぞよろしくお願いします!

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