蔵に残るもの・六
女性は何も答えなかった。
ただ、その姿がふっと揺らいだかと思うと、また記憶が流れ込んでくる。
――床に打ちつけられた痛みで、意識が戻る。
薄暗い蔵の中、目の前には、あの長持に手をかけている隆一郎さまの背中があった。
『……っ』
隆一郎さまが、約束を破って家宝を持ち出そうとしている。
私を捨てて、この家を見捨てて。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れるみたいに痛んだ。悲しいのに、次の瞬間には、その痛みごと熱に変わっていく。喉の奥まで焼けつくようで、息がうまく吸えない。
行かせない。絶対に、行かせるものか。
手近にあった青銅の花瓶をつかむ。売りに出されるのを待っていた、高価な品だったのだろう。よろめきながら立ち上がり、両手で持ち上げると――そのまま、無防備なあの人の後頭部へ振り下ろした。
鈍い音が響く。
隆一郎さまの身体はぐらりと傾いで、長持に手をつこうとしたまま、その前へ崩れ落ちた。
呆然と、その背を見下ろす。浅く息をしながら近づこうとして、今度は私の足がもつれた。膝から崩れ、床に手をつくと、ぱた、ぱた、と血が落ちてきた。なにが起きたのかわからないまま頭へ手をやると、震える手のひらに、べっとりと血がついていた。
これは、私の、血? いつの間に?
突き飛ばされたときだ。こんなに血が出ているなんて。
視線の先では、隆一郎さまがさっきのまま、ぴくりとも動かない。
嘘だ。
こんなはずではなかった。
『あ……あぁあ……』
私は、死ぬのだろうか。
この人も、もう起きないのだろうか。
いやだ。
幸せになるはずだったのに。
なぜ、私にこんなことをさせたのですか。
胸の奥で、ぐしゃぐしゃになったものの行き着く先は、もうそれしかなかった。
にくい。
にくい。
私をここまで追い詰めた、あの男が。
「そん、な……」
依の胸が裂かれるように痛んだ。櫛を受け取ったときの、あの甘い幸福がまだ残っている。それなのにフミは、隆一郎を手にかけ、憎しみを抱いたまま倒れていった。
「フミ、さんが……隆一郎さんを……殺して、しまったようです……」
「……うん」
「それで……今でも……憎い……あの男が……」
自分の口からこぼれた声に、依は息を呑んだ。説明していたはずなのに、いつの間にかフミの感情がそのまま喉を通っていた。
「っ……」
「依」
千早夜の声音が変わった。
「これ以上、その霊を降ろしているのは危ない。今、祓ったほうがいい」
「でも」
「言うこと聞いて。約束してくれたよね。……このままだと、依が呑まれる」
その声は強くはないのに、迷いがなかった。
「……わかり、ました」
どうにかしたい気持ちはある。
けれど、自分の口からフミの憎しみがこぼれたことで、依は思い知らされていた。
自分はもう、思っていた以上に深くフミに引き込まれている。
ここで千早夜の判断に逆らいたくはなかった。
「……ごめんね」
苦しげにそう言って、千早夜の手が依に触れる。
祓おうとする力が流れ込んだ途端、内側で何かが激しく暴れた。フミの絶望と憎しみが、傷に触れられた獣のように、依の身体の奥で暴れ狂う。
焼けるような激痛に息が詰まり、膝が折れそうになる。
やめろ、やめろ、やめろ!
必死に抑え込もうとしたが、フミの抵抗する力が想像以上に強い。
それでも、このまま耐えきれば祓える――
「……っ」
そう思ったのに、依は千早夜の手を弾いていた。
自分で振り払うつもりなどなかった。フミの拒絶に引きずられるように、手だけが勝手に動いていた。
「依――」
呼ぶ声が遠のく。
そのまま、フミの記憶が濁流みたいに流れ込んでくる。
――感覚がない。
手も足も、自分のものなのにうまく動かせない。息をしているのかどうかさえ曖昧なまま、ただ薄暗い蔵の中だけが、ひどく鮮明に見えていた。
隆一郎さまが突っ伏している長持の蓋が、わずかに開いている。
血に濡れた手を床につき、私は這うようにして近づいた。頭の傷から落ちた血が、ぽた、ぽた、と板の間を汚していく。震える指で、ずれた蓋をさらに押し開けた。
中に入っていたのは、きらびやかな家宝などではなかった。
紙、紙、紙――。
乱雑に束ねられた証文や帳面が、箱の中いっぱいに詰め込まれている。すべて見覚えのないものばかりだ。けれど、どれも金の出入りや借り入れの記録であることくらいは、私にもわかった。
借金。
我が家を支えているはずの箱の中身が、それだった。
『……な、に……』
喉の奥から漏れた声は、かすれていた。
そのとき、帳面の束のあいだから一通の手紙が滑り落ちた。封には、見慣れた実家の名がある。震える手でそれを拾い上げ、どうにか文字を追う。
そこに書かれていたのは、謝罪だった。
商いは立ち行かず、家はもう保たないこと。
フミには最後まで本当のことを言えなかったこと。
優しい子だから、すべてを打ち明ければ、きっと私と苦労を共にしようとしてしまうこと。
だから、あえて家宝を持って逃げる不実な男と思わせ、愛想を尽かさせて、実家へ帰したかったこと。
――どうか、娘を頼みます。
最後の一文だけが、血に染まった指先の中で、異様なほどはっきり見えた。
あの人は、私を捨てようとしたのではなかった?
あの人は、最後まで私を生かそうとしていた?
『……うそ……』
手紙を持つ手が、かたかたと震える。視界の端で、隆一郎さまは動かない。二度と振り向かない。二度と、あの優しい声で私を呼ばない。
『……いや……』
違う。違う。そんなはずがない。
こんな手紙、見ていない。読んでいない。何も知らない。
急に、血に濡れた指先から身体の奥まで、ひどい寒さが襲ってきた。
身体から力が抜ける。
そのまま、私は隆一郎さまの前に倒れ伏した。手足はもう、ぴくりとも動かない。滲んだ視界が、どんどん暗くなっていく。目の前に倒れたままの隆一郎さまの背中だけが、遠ざかっていった。
依は暗い場所にいた。
床も壁も見えない。ただ境目のない暗がりだけが広がっていて、その中に、フミの姿だけがぼんやりと浮かんでいる。
『フミさん……』
『違う、違う、違う……!』
依が近づこうとすると、フミは激しく頭を振って後ずさる。
信じたくないのだ。隆一郎が最後にしようとしたことを受け入れてしまえば、自分が何をしたのかまで認めなければならなくなるから。
『フミさん、落ち着いて聞いてください。隆一郎さんは、あなたを捨てようとしたんじゃない。あなたを助けようと――』
『うるさい、うるさい!』
頭をかきむしりながら、フミは壊れたように首を振る。うわ言をなんども繰り返し、否定し、依の言葉をすべてかき消すようになりふり構わず取り乱す。
『フミさん……』
依がかける言葉を見つけられずにいると、今度はぴたり、とフミの動きが止まった。
『……フミ、さん?』
ゆっくりと顔を上げたフミが、依を睨みつけた。
『ワタシはぁ! 悪く、なイ……!』
絶叫と共に、フミが依につかみかかった。
『!』
依の意識は、深いところへ引きずり落とされた。




