蔵に残るもの・五
依の視界は真っ暗だった。天地がわからなくなるほどの目眩が、廃ビルで憑いた霊のときよりもっと強く、直接頭の中をかき混ぜられているような感覚。油断すれば、自分という輪郭すら溶けて消えてしまいそうになる。
突然に、視界が切り替わった。
そこは久松邸の中だ、と直感的に理解した。
さっき千早夜とのぞいた改装中の屋敷とは違う。磨き上げられた廊下が光を返し、飾り棚の調度品も、柱の艶も、どれもが今しがた手入れされたみたいに美しい。
依が見ている、と思うより先に、別の感情が流れ込んできた。
――改まって隆一郎さまの部屋に呼ばれるのは、まだ少しだけ緊張する。彼は濃い茶の着物に角帯を締めた姿で、文机の前に座っていた。
気配に気づいた隆一郎さまが振り向いて、思わず息を止めてしまうほどあたたかく笑った。
『こっちへおいで、フミ』
促されるまま近づくと、小さな箱を差し出される。
まさか、と思いながら受け取り、そっと蓋を開けた。中に収まっていたのは、べっ甲の櫛だった。黄みを帯びてなめらかに艶めくそれは、息を呑むほど美しかった。
こんな素敵なものを、私に?
驚いて顔を上げると、隆一郎さまは少しだけ気恥ずかしそうに目を伏せ、それから誇らしげに笑った。
『遅くなってごめん。ようやく胸を張って、お前に渡せるものができた。仕事もこれまで以上に頑張るから』
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあたたかなものが満ちていく。
こんな素敵な方の妻になれたことが、ただただ嬉しかった。あまりに甘やかで、このまま身を委ねてしまいたくなるほどの幸福感だった。
ああ、隆一郎さま――。
「依」
その声で、ぱちん、と映像が切れて、暗闇に引き戻される。意識を向ける方向がわからない中、千早夜の声だけが依を現実につなぎ止めた。
「返事をして」
そうだ。これは私じゃない。私は今、千早夜さんと一緒に、あの蔵にいる。依はその声に向かって、鉛のように重くなった口を開いた。
「……千早夜、さん……聞こえ、ます」
遠くで、千早夜が安堵の息を漏らす気配がする。
「その霊は強い。感情を寄せすぎないで」
わかっています、と返そうとする。しかし返事をする前に、また別の記憶が押し寄せてくる。
――このごろ、家の中がひどく静かだ。
磨き上げられていた廊下はどこか冷え冷えとして、飾り棚に並んでいた調度品も、いつの間にか数を減らしている。広すぎる屋敷の中を、隙間風みたいな静けさが吹き抜けていた。
冷えた蔵の空気が、すっと肌を撫でる。棚に収まっていた収蔵品も、前より明らかに少ない。
隣に立つ隆一郎さまを、不安になって見上げる。以前のような覇気はない。それでも隆一郎さまは、私を安心させるように優しく手を握り、蔵の奥にある大きな漆塗りの箱を指さして言う。
『心配するな、フミ。我が家にはあれがある』
『……私が嫁いできたときに、持たせてくださった長持ですね』
『ああ。あの中には今、先祖代々の家宝を隠してある。……万が一、私がどうにかなっても、あれさえあればお前を路頭に迷わせることはない』
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
あれが、今の我が家を支える最後の希望なのだ。たとえこれからどれほど苦しくなっても、私は隆一郎さまを信じよう。
何があっても、あの箱だけは守り抜こう。
『私が……私が守らなければならないのです……』
誰にも渡さない。
あの箱は、私たちの未来そのものなのだから。
『なのに、どうして……!』
映像が途切れた。真っ暗な視界の中で、依は息を継ごうとするが、それより早く、悲しみと怒りが一気に噴き上がってくる。これが自分のものなのか、フミという人のものなのかわからない。
感情を寄せすぎないで。千早夜に言われたばかりなのに、止め方がわからなかった。
再び映像が見えてくる。
――夜の蔵は、昼とは違う冷たさに沈んでいた。
『どけ! これを出さなければならないんだ!』
血相を変えた隆一郎さまが、あの箱を開けようとしている。
『なりません! どうして隠れて持ち出すようなことをするのですか!? あれは二人で……』
『お前にはわからない事情がある!』
約束を破って、家宝を持ち出そうとしている。
どうして。なぜ。ひどい。そんな言葉ばかりが、頭の中をぐるぐると駆け回る。
私は必死に隆一郎さまへすがりついた。
『考え直してください……!』
『離せ! お前のためなんだ!』
すがりついた腕を振りほどかれた勢いで、足がもつれ、身体が後ろへ傾ぐ。
一瞬、隆一郎さまの顔が驚きにこわばった。
背中から床に叩きつけられる衝撃。頭の奥がびり、としびれて、視界がぐらりと揺れる。
裏切られた。優しかったはずのあの人に。
映像はぷつりと切れた。
それまで激しく流れ込んでいた感情が嘘みたいに遠のき、暗闇だけが不気味なほど静まり返る。
けれど、今の記憶は、紛れもなくフミが亡くなった瞬間なのではないか。
突き飛ばされて、そのまま意識が途絶えた。つまり、フミさんはそこで。
「千早夜さん。この人は……フミさんは、家宝を持ち出そうとした旦那さんに突き飛ばされて……そこで亡くなったように見えます」
不思議と、言葉はすんなり出た。
さっきまで鉛みたいに重かった口が、今はやけに軽い。
「その霊が、突き飛ばされて死んだ……?」
「はい。でもきっと、旦那さんも傾いた家を立て直そうと必死だっただけで、悪い人ではないと思います。だから、それをフミさんに――」
「待って、今見たものだけで決めつけないで」
「え?」
「九条さんの話では……同じ日に、夫婦二人が亡くなってる。依の見た通りなら、旦那さんのほうはどうなったの」
依は言葉に詰まった。
たしかに、今見た記憶には、隆一郎がどうなったのかまでは映っていなかった。
「事実としてわかっているのは、同じ日に二人が亡くなったこと。……二人のあいだで何があったかまでは、まだわからない」
「でも、それじゃあ、どういう」
依が戸惑っていると、千早夜は冷静に言う。
「……高瀬さんに憑いていたものは、この蔵の霊が生んだものだよ。そのくらい強い未練に縛られているなら、依が見たものが全部とは限らない。いちばん感情の強い場面だけが先に見えていても、おかしくない」
突き飛ばされたフミの痛みも、裏切られたと思った絶望も、本物だったはずだ。けれど、それだけが真実のすべてではないかもしれない。
そう思った瞬間、暗闇の中に誰かの気配がした。振り返ると、少し離れたところに女性が立っている。
灰みを帯びた薄藤の着物に、落ち着いた茶の帯を締めた、二十代前半ほどの女性。黒く長い髪は背に届くほどで、うつむいた顔から、いく筋かがこぼれ落ちている。
もしかして。
『フミさん……?』




