表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/31

蔵に残るもの・四

 遅い昼食を済ませたあと、二人がたどり着いたのは、文京区の高台にある静かな住宅街だった。

 三月に入ったばかりとはいえ、午後の空気にはまだ冬の名残があった。人通りは多くなく、塀の高い屋敷や、手入れの行き届いた庭木の気配が続く通りは、都内とは思えないほど落ち着いて見えた。

「九条さんには話を通してある。今は誰も現場に入っていないはずだから」

 隣を歩く千早夜は、いつものやわらかさが少しだけ薄れて、どこか張りつめているように見えた。

 九条の名を聞いて、依は昨日の応接室での会話を思い出す。

 京都のこと、そして修行という言葉。千早夜が東京に来る前、京都にいたことは聞いている。けれど、なぜ東京へ来たのかまでは、まだ知らなかった。

 言葉を探すように、依は隣の横顔を見上げる。

「……千早夜さん」

「うん?」

 すぐに声が返ってきた。

「前に、東京に来る前は京都にいたって言ってましたよね」

「うん」

「九条さんが言っていたことが気になってて。修行、って。あれ……本当なんですか」

 千早夜は苦笑した。

「そう見える? 僕が修行のために二年間も姿を消していたように」

「……いいえ。事故で祓う力を制御できなくなったって」

 それに対しても、千早夜は「うん、そう」と頷いた。

「……事故って、どんな事故だったんですか? 千早夜さんが、祓いの仕事ができなくなるような事故って」

 千早夜はしばらく黙ったまま歩いていた。靴音だけが、静かな通りに小さく響く。

 やがて、前を向いたまま口を開いた。

「……ただ、祓いに失敗しただけだよ」

「失敗?」

「前に、『災害』のような害をもたらす霊がいるという話をしたことがあると思うんだけど」

「はい。祓えないほどの強い霊で、神の祟りみたいな、そういう……。え、まさか……」

 千早夜は足を止めなかった。まだ少し冷たい風が頬を撫でた。

「……相手は、霊っていうより、神みたいなものかな……ただ在るだけでまわりを壊すたぐいの」

 依には、それがどんなものなのかうまく想像できなかった。

 ただ、そんなものを相手にしてもなお、千早夜がそれを「失敗」と呼んだことに、言葉を失った。

「もともと、手を出しちゃいけないってことはわかってたんだけどね」

 千早夜は歩きながら、目を伏せた。風に揺れた髪が、横顔にかかる。

「あのときの僕は少なくとも、鎮めるところまではできると思ってた。ずっと、そうやってきたからね。実際、完全に無駄だったわけじゃないよ。二、三百年は静かになるようにはできたから」

 ずっとそうやってきたと当たり前に言う千早夜に、特別な感情は見えない。

 危ないとわかっていても、求められるならやる。それが当たり前の場所にいた人なのだ。

「……それで、京都を出たんですか」

 千早夜は、口元だけをきれいに形作るようにして笑った。

「僕の家、実力主義なところがあるから。祓えない僕を、わざわざ置いておく意味はないんだよ」

 必要なら覚える。必要なら差し出す。

 そういう人なのだと、依は少しずつ知ってきてはいたが、その当たり前は、きっと最初から優しさだけでできていたわけではないのだろう。

「でも完全に縁を切ると、それはそれで外聞が悪いから、修行中なんてことにしてるんだと思う」

 まるで他人事みたいな言い方だった。他人事であるはずがないのに、それを淡々と話せてしまうことのほうが、依には痛かった。


 九条が言っていた物件は、久松邸と呼ばれていた。

 二階建ての大きな日本家屋で、敷地もそれなりに広い。門をくぐると、正面に母屋の玄関があり、その右手には、通りに面して格子戸を並べた見世みせのような一角が続いていた。

 母屋の玄関は大きく開け放たれていて、中の様子が外からでも見える。廊下にはブルーシートが敷かれ、壁際には資材や工具が無造作に置かれていた。改装の途中なのはひと目でわかるのに、人の気配だけがすっぽり抜け落ちていて、ついさっきまで誰かが作業していた場所を、そのまま置き去りにしたような印象があった。

 その一方で、隣の見世はすでに改装がほとんど終わっているらしい。古い柱や梁を生かした内装の中に、木の椅子や机が整えて並べられていて、今にも古民家風のカフェとして営業を始められそうに見える。

 依と千早夜のほかに、人の気配はどこにもなかった。

 作業の途中で不自然に放り出されたような静けさが、この場にいるだけで胸の奥をざわつかせる。霊の見えない依ですら、ここが普通ではないのだとわかった。

 ゆっくり屋敷全体を見回していた千早夜は、見世とは反対側、母屋の奥まったほうを見た途端に目を細めた。

「あっちだね。九条さんの言っていた通り、蔵に霊がいる。……女性の霊だけみたいだけど」

 千早夜は屋敷の外を回り込むように蔵のほうへ歩き出した。

 依も隣を歩きながら、声をかける。

「千早夜さんは、どのくらい霊が見えるんですか」

「どのくらい、って言われると難しいけど……視界に入れば、そこにいるものとして見えるよ」

「……その、普通の人と見分けってつくんですか?」

「見ればわかる。形だけで見分けてるわけじゃないけど、人の形をしているときもあれば、黒いモヤみたいに見えるときもある」

 これまで霊を見たことがなかった依は、最近になってようやく廃ビルの一件でその存在を認識したばかりだ。しかしそれも、霊を通して記憶を共有する夢のような感覚で、「見える」とはまた違う気がした。千早夜の目には一体どんな世界が映っているのか、依には想像もできない。

「すごいですね……」

 思わずこぼすと、千早夜は自嘲を含んでかすかに笑った。

「霊を視る力は、前と変わってないからね」


 屋敷の裏手にある蔵は、依でもイメージする通りの蔵だった。白い漆喰の壁に黒ずんだ木の骨組みが浮かび、重たそうな観音開きの扉が、ぴたりと口を閉ざしている。

 その前に立った千早夜が目を細めた。

「……いるね。しかも、かなり強い。ここへ入られるのを、ひどく嫌がってる」

 千早夜が、確かめるように依を見る。

 依は無意識に左手首の数珠へ触れ、それから小さく頷いた。

 重い音を立てて開かれた蔵の中は、昼間だというのに薄暗い。壁に沿って棚が組まれ、そこに大小さまざまな木箱が不揃いに収まっている。どれも長く触れられていないのか、埃をかぶって灰色にくすんでいた。片隅には、運び出しの途中らしい荷が透明なシートをかけられたまま寄せられていて、整理されかけた気配だけが中途半端に残っている。

 天井は高く、一番高いところで六メートルはあるだろうか。屋根の頂に沿うように、太く古びた梁が一本、奥へ長く通っていた。

 梁から壁沿いに視線を落としたとき、ある箱に目が止まった。

 埃をかぶった他の箱とは違って、それだけは漆をかけたような黒い艶を残している。横長で、人一人が入れるくらいの大きな箱。それだけが今なお現役のような存在感を放っていて、妙に引き込まれた。

 あれは一体、なんだろう? 中を見ては、いけないだろうか。

「依」

 その声で、はっと我に返る。引き寄せられかけていた体がぴたりと止まった。千早夜が気遣わしげに依を見るので、依は慌てて首を振った。

「な、なんでもないです。あの、始めましょう」

 千早夜に促され、依は蔵の真ん中へ立った。

 目の前にいる千早夜の向こう、視界の端に先ほどの黒い箱が映り込む。見ないようにしても、どうしても意識がそちらへ引かれたが、今は霊に集中しなくてはならない。

「僕が危ないと思ったら、依が霊と話したいって言っても、そのときは祓うからね」

 千早夜が手を差し出しながら念押しした。

「はい」

 依が左手から外した数珠を渡すと、千早夜はそれを受け取り、依に背を向けて数歩下がる。その背中を見ながら、依は「いつでも」と、その先を言おうとして――

 ぐらりと視界が傾いた。

「あ、う……」

 かすかに声が漏れる。急激にまぶたが重くなって、目を開けていられない。思考が、黒く塗りつぶされた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ