蔵に残るもの・三
それがどういう意味か、依にはわかっていた。けれど、このまま千早夜に頼りきりになる前に、ひとつだけ確かめたかった。
「……待って、ください。一度だけ……話を……」
「依」
「お、お願いします……」
千早夜は短く息をついた。
「たぶん、話はできない。さっきも言った通り、霊じゃないから。でも、依がそれで納得できるなら……一度だけ」
依は小さく頷いた。
依は美紀と対話したときの感覚を思い出し、同じように呼びかけてみる。心の中で手を伸ばすように、耳を澄ませた。
しかし返ってきたのは、声ではなかった。
依の内側で、無数の何かが一斉に擦れ合う。
声にならない、感情の叫びのようなものが、身体の奥で暴れのたうつ。
怒り。憎しみ。拒絶。
まとまりのない剥き出しの怨嗟が際限なく湧き上がり、依の意識を引き裂こうとする。
「っ……」
依はたまらず床に手をついた。これは、千早夜の言っていた通り話せる相手ではない。霊のように、悲しみや未練のかたちを持っていない。ただ濁った恨みだけが、触れたものを巻き込んでいく。
「依、無理に聞こうとしなくていいよ」
荒く息を繰り返す依に、千早夜が言う。
「なんでも話せるわけじゃない。……このままだと依が危ない。祓わせて」
聞けなかった。
美紀のときのように、声を拾うことも、願いを探すこともできなかった。
けれどこのまま千早夜の手に触れなければ、あの泥のような怨嗟に押し潰されるのは自分のほうだ。それならせめて、千早夜の負担にならないようにしたい。
「……はい。痛いのは、耐えます」
わずかな間のあと、千早夜の手が依に触れた。
「っ……!」
霊が憑いたときの痛みとは違う、凍てつくような鋭い痛みが内側へ広がっていく。耐えられないほどではないはずなのに、逃げたくなる痛みだった。
千早夜が息を呑む気配がする。
それに気づいた途端、依は反射的に逃げかけた身体を、どうにかその場に留めた。
やがて、痛みの奥にかすかな熱が混ざり始める。触れられたところから細い光が差し込むみたいに、温かなものが流れ込んできた。
際限なく湧き上がっていた怨嗟が遠ざかり、ぬかるみに絡め取られていた手足が、少しずつ解放されていく。
長く耐えた気がしたが、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。
依がゆっくりと目を開けると、すぐ目の前に千早夜の顔があった。
張りつめた表情でこちらを見つめるその目と合った瞬間、遠のいていた応接室の空気が、一気に戻ってくる。
「あっ。もう、だいじょ……」
立ち上がろうとした途端、身体を支えきれずに膝が崩れた。千早夜がすぐに抱き止める。
「無理しないで」
「す、少し疲れただけです!」
とっさにそう返してしまったものの、重たい風邪にかかったときのように身体がだるい。しかしそれを言えば、また千早夜に余計な心配をかけてしまう。それはしたくなかった。
そのとき、気を失っていた高瀬が身じろぎした。
「あ、あれ? なにが……」
さっきまでの青白さが嘘みたいに薄れ、呆然とはしているものの、来たときよりずっと楽そうな顔をしている。
「高瀬さん、あなたはもう心配ありませんよ」
千早夜は高瀬へそれだけ告げると、依をソファに座らせた。そのまま顔色を確かめるようにのぞき込む。
「依、平気?」
「……平気です」
力が入らなかった依の言葉に、千早夜の眉がわずかに寄る。
そこへ、電話を終えたらしい九条が応接室へ戻ってきた。
「いやあ、話を聞けました。……む、高瀬? お前、ずいぶんすがすがしい顔をしている。まさか、もう終わってしまいましたかな?」
千早夜は少しだけ間を置いてから、背中越しに答えた。
「ええ。高瀬さんに憑いていたものの祓いは終わりました」
「それは惜しいことをした。しかし助手の方、顔色が悪いようですが、大丈夫ですかな」
「助手ではありません。……それで、確認は取れましたか」
依の胸がわずかにざわつく。けれど今は、その意味を考える余裕もなかった。
「ああ、そうでした。たしかに、あそこの蔵では二人の男女が亡くなっていました。しかも同じ日に、ですよ。私が問い詰めたら、もう話したはずだなどと言い訳して、しぶしぶ口を割りましてな。まったく、そういうことは先に――」
「やはり蔵ですか」
九条の言葉を切るように、千早夜が静かに問う。
「戦前からある建物だと伺いましたが、亡くなったのもその頃ですか」
「ああ、はい。そうみたいですな。商家の当主と、その妻だとか。事業に失敗して、心中でもしたんじゃないかと私はね、思って――」
「わかりました。その蔵に霊がいます」
千早夜はそれ以上、九条に話を続けさせなかった。
「後日、そちらへ伺います。本日はここまでにしましょう」
口調は穏やかなままだったが、そこには有無を言わせないものがあった。
九条がなお何か言いかけても、千早夜は静かに話を畳み、最後には「では、よろしく頼みますよ」とだけ言わせて、高瀬とともに帰した。
九条と高瀬がいなくなった応接室で、千早夜はすぐに依へ向き直った。
その顔を見た途端、堪えていた言葉がこぼれた。
「……私、何もできませんでした」
美紀のときみたいに、何かを聞き取ることもできないまま、結局、千早夜に助けられてしまった。
うまくできなかった、という悔しさだけが胸に残る。
「そんなことないよ。依がいたから、高瀬さんに憑いていたものは祓えた」
すぐに返ってきた声に、依は顔を上げた。
千早夜は依の座っているソファの前で身をかがめ、視線を合わせる。
「ただ、高瀬さんに触れられただけで移るとは思っていなかった。……その数珠は、近づいてくるものを遠ざけるには強い。でも、触れた相手から流れ込むものまで防げるわけではないんだと思う。依の体質は、僕が考えていたよりずっと危ういのかもしれない」
冷静に分析している声音は、いつもより落ち着いてさえ聞こえた。けれど、依を見る目からは、いつもの余裕が消えていた。
千早夜はかすかに口元を上げると、ソファの肘掛けに手を置いて立ち上がる。
「だから、次はこうならないようにするね」
その言葉に、依は膝の上で手を握りしめた。
それは、千早夜がすべて自分でどうにかしようとしているふうに聞こえた。けれど、その全部を千早夜に背負わせてしまうのは嫌だった。
翌日、依が目を覚ましたころには、もう昼を過ぎていた。
身体のだるさはだいぶ引いていたが、本調子には遠い。それでも、寝てばかりもいられず、依はそっとベッドを抜け出した。
遅い昼になってしまった。今からなら、簡単なものしか作れない。冷蔵庫を開けて、使えそうな具材を取り出し、作業台の上へ並べたところで、ふいに声がかかった。
「依? 休んでないとだめだよ」
顔を上げると、千早夜がキッチンの入口に立っていた。
「もう、だいぶよくなりました」
ほんの少しだけ嘘を混ぜて答える。
千早夜は眉を下げたまま近づいてきて、依の顔色を確かめるようにじっと見た。何か言いたそうな気配を感じて、依はなるべくそちらを見ないように、取り出した具材へ視線を落とす。
「……か、簡単なお昼のつもりです。それに、まだ蔵の霊を祓えていませんよね……?」
手を動かそうとする依を、千早夜は止めなかった。ただ、近くにあったボウルを取って、切った食材を入れやすいように依の手元へ寄せてくれる。
依が食材を切り終えたころ、千早夜が静かに口を開いた。
「今回の件は……僕一人で行こうと思ってる」
「え?」
思わず手が止まり、千早夜を見上げる。
「どうして、ですか」
「……依が心配だから」
あまりにもまっすぐな答えに、依は絶句した。
「高瀬さんに触れられただけで、依はああなったんだよ。あれは霊ですらなかった。それなのに、あそこまで影響を受けた。……連れていけない」
「でも、私がいないと、霊は……」
「……そうだよ。本当なら、依がいたほうがいい。……それでも連れて行きたくない」
その言葉に込められた本気がわかるからこそ、依はまともに顔を見返せなかった。
千早夜の心配を、否定したいわけではない。それでも、このまま千早夜の言う通りにしているだけでは、きっとこれからも役に立てはしない。
「……昨日みたいにはなりません。今度はちゃんと気をつけます。だから、お願いです。連れて行ってください」
それはほとんど、自分に言い聞かせているような言葉だった。
千早夜の目がわずかに揺れ、そのまましばらく黙って依を見返していた。
「憑いた霊がかわいそうに見えても、助けようとして無茶しないで。僕の言うこと、聞いてくれる?」
それが、連れていく代わりの条件だった。
「はい、約束します」




