蔵に残るもの・二
「高瀬さんに憑いているものを祓うこと自体はできます。ですが、それで解決するわけではありません」
九条が目を瞬かせる。
「……つまり?」
「高瀬さんをそうさせている原因が別にあります。そこを祓わないかぎり、また誰かが同じ影響を受けるでしょう」
「ほう……なんと。そんなに根の深い話でしたか」
驚いているはずなのに、どこか弾んだ声で聞き返す九条を見て、依はこの男がどういう人間なのか、さすがにわかってしまった。
この人は、面白がっている。人が危ない目に遭っているにもかかわらず、無邪気に、好奇心でこの場を楽しんでいる。それが霊ではなくまったくの人間であることに、依は戸惑っていた。
そんな依をよそに、千早夜は淡々と続ける。
「安く譲ってもらったとのことですが、その理由はお聞きになりましたか」
「もちろん、聞きましたよ。何かないのかとね。すると、昔この家で人が亡くなったことはあるが、もう戦前の話だと。古い屋敷ならそのくらいのこと、珍しくもないでしょう。私も最初は、その程度の話ならいちいち気にするほどでもないと思ったんです」
「その方に、もう少し詳しく聞いていただけますか」
千早夜はわずかに身を乗り出して言った。
「亡くなったのが誰で、どういう経緯だったのか。そこがわかれば、こちらも対処の見通しが立ちます」
九条は露骨に渋い顔をした。
「今からですか」
「ええ。今ここで高瀬さんに憑いているものだけ祓っても、元を断たなければ、また別の形で影響が出ます。……それでは、改修も進みませんよ」
九条は太い首を反らして天井を仰ぎ、しばらく「ううむ」と唸っていたが、やがて諦めたように頷く。
「わかりました。出るかどうかわかりませんが、ひとまず連絡を入れてみましょう」
そう言って、九条はスマホを取り出し、ソファから腰を上げた。
応接室を出ていこうとする九条に、高瀬がすがるような目を向ける。それに九条は気づいているのかいないのか、「すぐ戻りますから、適当にしておいてください」と片手で拝み手をしながら部屋を出ていった。
扉が閉まり、応接室には依と千早夜、それから高瀬だけが残った。
高瀬はあからさまに落ち着きを失っていた。俯いたまま膝の上で手をきつく握りしめ、小さく震えている。
何をそこまで怖がっているのだろう。そう思ったとき、千早夜が高瀬を見据えたまま、わずかに身を乗り出す。
「今のうちに、祓っておくよ」
「え……九条さんは、いいんですか」
肩越しに依を見た千早夜の口元には、九条に向けていたものとは違う、やわらかな笑みがあった。
「彼は関係ないから」
そう言って千早夜が立ち上がった瞬間だった。
「ひっ」
高瀬が弾かれたようにソファから飛びのいた。
逃げようとした足がもつれ、座面に手をついてよろめく。それでも千早夜から距離を取ろうと、窓際まで後ずさり、背中が壁にぶつかる。
高瀬は見開いた目を千早夜へ向けたまま、そこで固まった。
壁際で怯えきっている高瀬を見て、依は息を呑む。千早夜が小さく息を吐いた。
「人に憑いていても、こうなるから厄介なんだよね」
廃ビルのときに千早夜が言っていたことを、依はようやく実感した。
力が強く出すぎるせいで、千早夜が近づいただけで霊が逃げる。
「……霊が逃げるって、こういうことだったんですね」
千早夜は苦笑した。
「うん。本来なら、僕がこの部屋にいる時点で、高瀬さんの中に留まってはいられないはずなんだけど」
「でも、今は……」
「依がいるからだよ。依に引き寄せられて、ここに留まっている」
しかし、高瀬は千早夜が一歩でも動けば逃げ出しそうだった。
窓際の壁に背をつけたまま、玄関ホールへ続く扉へ何度も視線を走らせている。
だがそこへ行くには、センターテーブル横にいる千早夜の前を抜けなければならない。
逃げ場をなくした高瀬が、助けを求めるような、すがるような目を依へ向ける。
「それなら、私が高瀬さんの近くに行けば、私のほうに引きつけられますか。……それか、私に霊が移れば」
「やめて」
千早夜の声が、すぐに重なった。
「あれは、厳密には霊じゃないから」
「え……霊じゃない?」
「強い霊の影響で生まれた残滓みたいなものだよ。高瀬さん自身が乗っ取られているというより、それに引きずられているだけ。依に移ったとしても、霊みたいに話はできない。ただ、悪い影響を受けるだけだ」
だから千早夜は、さっきから“何か”が憑いているとしか言わなかったのか。
「依に危ないことはさせられないよ」
「……でも。私も、何か役に立ちたいんです。少し近くにいるだけなら、大丈夫です」
千早夜はすぐには答えず、高瀬を見た。
やはり高瀬は、目が合っただけでびくりと身をこわばらせる。
千早夜は依に目配せして、口を開いた。
「……そこにいて。高瀬さんが逃げようとしても、無理に塞ごうとしないで」
依が頷き、暖炉の前に立つと、千早夜は玄関ホールへ続く扉の前へ回り、高瀬から出口を遮る位置に立った。
高瀬は浅い呼吸を繰り返していた。視線が、千早夜と、閉まった扉、それから反対側にいる依のあいだをせわしなく行き来している。
依には、高瀬本人というより、その中にいる何かが逃げ道を探しているように見えた。
千早夜が声をかける。
「高瀬さん。そこを動かないでください」
そう言いながら一歩だけ近づく。
それだけで高瀬の肩が跳ねた。
「っ、来るな……!」
高瀬は部屋の端へ後ずさった。
脂汗を浮かべながら、それでも千早夜から離れようとして、最後には部屋の隅へ追いやられる。背中を壁に押しつけ、とうとう身動きがとれなくなった高瀬は、頭をがしがしと掻きむしりながら、依と出口の扉とをせわしなく見比べていた。
「う、う……」
喉の奥で潰れた声を漏らすその姿は、依には痛々しく見えた。
やがて、高瀬の視線が依のほうへ偏っていく。まるで、もうそこにしか逃げ場所がないとでもいうように。
千早夜が再び一歩近づいたとき、ついに高瀬が頭を抱え、叫ぶ。
「……来るな、っ来るな!」
その直後、ふっと膝が抜け、高瀬の身体が床へ崩れ落ちた。
応接室が一瞬、しんと静まり返る。
「っ、大丈夫ですか」
「依」
依が反射的に一、二歩踏み出したところを、千早夜の声が鋭く制した。
「近づかないで」
「でも……」
助けないと、と振り向いて言おうとしたところで、倒れ込んでいた高瀬が、床に手をつき、跳ね起きるように動いた。千早夜の表情がこわばる。
「依!」
跳ね起きた勢いで、高瀬が依へ向かってくる。
千早夜がすぐに依と高瀬のあいだへ滑り込む。しかし、千早夜の手が届くより早く、高瀬の手が依の腕をつかんだ。
触れられたところから、冷たいものが一気に流れ込んできた。全身が粟立ち、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
ばたん、と誰かが倒れ込む音が聞こえた。
それと同時に、千早夜の「依」と焦った声も届く。
霊ではない。それだけは、なぜかわかった。
美紀のときのように、記憶も、声も、未練も流れ込んでこない。ただ冷たい泥沼に沈められていくように、身体が動かない。手足はぬかるみに絡め取られ、息をするたび、濁ったものが内側を少しずつ侵していく。
「高瀬さんに憑いていたものが、依に移った。ごめん、防ぎきれなかった」
「大丈夫、です……高瀬さん、は……」
苦しさのなかでどうにかそれだけを絞り出すと、千早夜はすぐに答えた。
「倒れて気を失ってる。心配ないよ。……今は依からそれを引き離さないと」
少しの逡巡のあと、千早夜が言う。
「依、触れていい?」




