見えない足跡を追って②
目を開けたサトルの前に広がっていたのは、田園の風景だった。昨日見た夢と比べて変わり映えもなく、絵画の中に入ったかのような世界だ。
「そうだ。絵が光ったと思ったら、ここに来たんだ」
とすると、ここは藍原証悟が描いたときの乙筒木村か。前に見た夢よりも未来に飛んだハズだが、なにひとつ変わった様子はない。
「「この村は変わらないな」」
サトルがつぶやいた言葉が二重に聞こえた。思わず自分でも驚き、もう片方の声がした背後を向く。そこには畦道に木製のイーゼルスタンドを立て、固定した画用紙に筆を振るう男がいた。
サトルは、この男こそが藍原証悟だと確信した。
「ったく。建てつけ悪くて描きづらいな、畦じゃあ。固定できないぞ。風も吹くなよ。じきに沈むんだから」
サトルはイーゼルの正面に回り込み、描きかけの絵を見た。黄金色の稲穂と青空、赤くなりかけの山々、色褪せた屋根の家屋。画集にあった風景と同じ構図だ。証悟は目に見える色合いを紙の上で巧みに再現していく。
「おう、こんなところに絵描きさんなんて、珍しいなぇ」
うしろから、証悟に声をかける老婆が現れた。
「おう、悪いね。邪魔だったかい?」
「いやいや、ええわ、描いてて」
証悟は左手のパレットに青色のチューブを捻り出す。
「ここさ、もう沈むんだろ。バアちゃんは出ていかないの?」
「脱穀するまで出る気はねえ」
「ははっ、そりゃそうさな。もうちょいで収穫しなきゃだ」
「この景色があと2年もすりゃ水底なんて、信じらんねえべな」
「この村も、変わっちまうんだな」
平筆に薄めた青の絵の具をつけ、空を彩っていく。
「……でもさあ、変わらないのもいいよな。バアちゃん知ってるかい? 都会がどんなになってるか」
「テレビでしか知るワケねえさね」
「街中でタバコをスパスパ、川は汚れて、空気にはスモッグが浮いててさ。イヤだぜ、もう。豊かになりつつあると、下品になってくる。人も環境も。豊かってなんだろうな」
証悟は老婆と目も合わせず筆を洗うと、バケツのような筆洗器のドス黒い水を空のペットボトルに入れた。筆洗機を上げた右手には、痛々しい傷跡が残っている。
「豊かになっても余裕が出るワケじゃなくて、もっと傲慢になるだけだ。人が人を慮って、助けあうような未来じゃなかったんだ。人と人の欲が混じりあって、汚らしい世界しかできなかった」
「おれたは貧乏のままだけんな」
「立ち退き料貰ったんだろ? 三途の川渡るカネだけ残して、生きてりゃいいじゃねえか」
「綺麗言ばっかり抜かして、年寄りに冷たいなぇ」
絵が完成したようだ。証悟はイーゼルを分解してリュックの中に入れ、他の道具も収納した。描いた絵は太陽に向かって掲げ、乾燥させる。
「ははっ、悪かったね。それじゃあな、荒井のバアさん」
「……その呼び方。もしかして、証悟ちゃんかい?」
「ボケてなくて安心したぜ。長生きしなよ」
「どうして戻ってきたんだい!?」
絵描きの男が証悟と気づいてから出た言葉が、歓迎ムードではなかった。証悟のほうも、それをわかっているように笑いながら、3本の指を立てた。
「みっつ。ひとつはカネのため、ひとつは沈みゆく故郷の姿を残すため、残りひとつは……友達を弔うためさ」
「出て行ったときから、この村が嫌いになってるかと思って。ゆかりちゃんのコトは……証悟!」
「思い出すんだよな、オリンピックの年になると。今年はソウルだったな。女々しい男だよ、オレは。まだ全然、ちっとも忘れられねえんだから。忘れられれば、どんなに楽か」
証悟は画材を入れたリュックを背負い、ハツラツと叫んだ。
「大ッ嫌いさ、こんな村なんて!」
そう言い捨て、集落に背を向け歩き出す証悟に向かって、老婆はより大きな声で叫んだ。
「まだ! 生きておるッ!」
証悟の顔から笑顔が消えた。サトルには、彼の真っ暗な瞳からは感情を察せなかった。
「ゆかりちゃんは、生きておる……」
「あっそう。ガキのときに聞きたかったね、その思いやり」
「いや、違う。生きて……いや、死んでいない」
「イヤな表現だな。それ以上、愚弄すんなよ。なあ」
「ほんとうに、ほんとうに……」
老婆は絞りだすように言ってから、背中の丸まった身体が震えだした。
「おいバアさん、勘弁してくれよ。すぐに救急車なんか呼べねえぞ」
「ゆかりちゃんは、きっと、待っておる。証悟、おまえを」
「はあ、まだ言うかね」
ため息混じりに呆れた瞬間だった。青い空にこだまするオオカミたちの遠吠えが村中を包む。それはまるでサイレンのように、長く長く鳴き続けていた。
「なんだよこりゃあ……。こんなにうるせえの、聞いたコトねえぞ」
あの声を聞いた途端、老婆は豹変した。カラスのようなガラガラ声を口が裂けんばかりに開き、そして怒鳴った。
「狼神様が呼んでおる……おまえを!」
「……なあ、この村のさ、退去。すぐに村中の人間が同意したんだってな?」
「行け、あの祭壇へ! 証悟は、この村の人間じゃろう!」
「てめえらが出てくってのに、オレをあそこに行かせんのか! ゆかりの想いはどうなる、なんのために下らない伝説のために犠牲になった!? この村のためじゃなかったのかよ、聞いてンのか、ええッ!?」
「行けッ! 行けッ! 古梶山へ、あの祭壇へ!」
「クソッ、話にならねえ。ゆかりはなんのための贄だったんだ!」
嫌悪感を露わにした、そのときだった。オオカミの遠吠えの残響は女性の声に入れ替わり、証悟に語りかける。それはサトルにも聞いたコトのある声だった。
『――聞こえる?』
「……なんだ、今の声。まるで」
『証ちゃん、聞こえる?』
「おいおい。オレをそう呼ぶのはひとりしか思い出せねえぞ。……ゆかり、おまえなのか?」
『久しぶりに会いにきて。わたしの元へ、来て。あの祭壇へ』
「大人っぽい声になったな。ホントに、マジに生きてたのか!」
『待っているからね、証ちゃん』
この一言を最後に、辺りは静かになった。他人事だというのに、心臓の鼓動が聞こえるくらいの不気味な静寂と、タブーを犯すような背徳感がサトルの身体をつんざく。
「おい、おいおいおい、マジかよ……。バアさん、今の声聞いたろ? なにが死んでないだよ。生きてなきゃあ、あんなコト言えねえ。そうだろ!?」
証悟の目は相変わらず虚ろで、しかし口元には笑みを浮かべていた。老婆の身体の震えは止まらない。その原因は、証悟にあるようだった。正気に戻った瞳が物語っている。
「声? 耳が遠くなったのか、わしにはオオカミの遠吠えしか……」
「なんだよ、なんだよおい。生きてたのかよ、ゆかりッ! あの山奥の中でどうやって? いや、この際化けて出てきてもいい。とにかく行くからな、待ってろよ!」
興奮している証悟の反応を見るに、暗く暗く、暗澹たる思いを抱えながら生きていたのは間違いない。消息を絶って久しいゆかりの、聞いたコトのない大人になった声を聞いて確信するくらいには。
「来てみる価値はあった、連れ戻してやろう。村が沈む前に!」
明らかに不可解な状況下で、信じたいコトを信じて行動する証悟の後をサトルは追い、確かめる。現代で、ゆかりが助けてと言っている状況になるのかを。




