プロローグ なるがままに
── 東京都・昭鳥市
思い返せば夏だというのに、この日はやけに静かだった。
「あーあ、ついてないなあ。ホントについてねえよ」
時刻は午後5時。夕暮れは遠くなり、まだ溢れんばかりの太陽が照っていても、住宅街の道周りには誰もいない。だからこそ、禅院サトルは言い聞かせるようにつぶやいた。
「キミ、夏休みに入ってからそればっかりだな」
そう、周りには誰もいない。だがそれは独り言ではなく、会話のキッカケとなる。
「だってさ、2択問題で正解していれば補習なんか行かないで済んだのに。たった2点! たった2点足らないせいで学校に行かなきゃならないんだぜ!?」
「ああわかった、わかった。ワタシだって付き合ってるだろ」
サトルの話し相手は、背中に取り憑いた口だ。名前はバク。真っ黒い渦の中から伸びる舌とギザギザの白い歯が特徴のソイツは空妖――カンタンに言えば妖怪――と呼ばれる存在だ。
サトルは遠い先祖が受けた呪いのおかげで、空妖と引かれ合う運命を背負った。
「苦しんでるのはオレ!」
「ワタシだって退屈なんだ、イスの背もたれにピッタリくっついてな。どれだけ苦汁をなめているか。もう飲み干す勢いだぞ、苦汁」
サトルからは見えないが、バクは虚空を舐め回して苦汁をなめる仕草をした。
「なにが退屈って、一回聞いた授業をまた聞くのがな。キミ、覚えてないのか?」
「おまえ……、苦汁に飽き足らずオレを舐めてる?」
「誰も授業を覚えてないおバカなんて言ってないぞ」
「言ったなコイツ!」
「おっと、口が滑った」
こんなふうに言いあうのが、彼らの日常だ。
「ああもう、こんなクソ暑い中で勉強ができるかっ!」
「学ランを脱げばいいじゃないか」
「脱いだらおまえがバレちまうだろうがッ。ベロと歯を出さなくても目立つだろ!」
「背中にブラックホールを背負う男。いいじゃないか、カッコいいぞ」
「よくないわ!」
バクは舌と歯を出さなくても、本体である黒い渦が現れる。どういうワケか、いくら服を着込んでも、バクがその上に現れるのだ。
「連日40度近く……。もう夏はいいよ。頭がヘンになりそうだ」
サトルは汗で濡れた髪を乱しながら歩く。十字路に差し掛かるとき、その景色に異様な不快感を覚え、ふと足を止めた。
「なんだ……? あの電柱のうしろ」
まるで風呂場の黒カビに見つめられている気分だ。無視したくてもつい見てしまう、イヤな存在感がある。
遠回りしようにも、暑さと喉の渇きもあり、気にし過ぎと考え、サトルはそのまま歩くコトにした。
しかし、その予感は見事的中するのだった。
「――夏は、汗。汗で濡れた髪って……艶かしいよなァ」
見つめていた電柱から、男がぬっと現れた。サトルの背筋に暑さを忘れるくらいの怖気が襲う。
「肌着が身体に張り付くのもそそる。そうは思わねェか?」
夏だというのヨレヨレのロングコートを着てボロボロのジーンズを履いたソイツは、おかしなコトを言いながら漆黒の目を輝かせてサトルに近づく。
「な、なんだコイツーーっっ!?」
サトルは大声を上げた。初めて見る不審者に面食らった。
「く、来るな!」
「ああ、いい顔面だ。なによりもその目。それがいい」
「来るなって……うわ!」
うしろに下がろうと拍子に、転けてしまった。手をついてケガはしなかったものの、アスファルトの熱がサトルを襲う。
「あちちっ!」
「その顔、イエスだ!」
不審者は親指を立てた。
「……おまえ、なんなんだ!? け、けけ警察呼ぶぞ!」
「警察? ヤツらに俺様は捕まえらんねェよ。ンッフフフ……」
サトルは素早く立ち上がって不審者を睨む。そして、あるコトに気づいた。この男、汗をかいていない。
「気づいたかい? 禅院の呪継者」
不審者はぶ厚いくちびるを上げ、不敵に笑う。そしてそこから出てきた呪継者という言葉。
「おまえ……空妖か」
「その通り」
早速だ。早速空妖と引かれ合った。サトルはため息をついた。
「ふざけんなよ、もう……」
「なにがだァ?」
「ヘンなのばっかり来やがって。いや人面犬とカッパはまだいいよ、いいヤツだったからな。おまえは不審者じゃねえかよ!」
サトルは不審者を指差す。
「しかも初対面なのに禅院なんて言いやがって……。オレの先祖の知り合いだったのか、こんなヤツが!?」
「おまえさんは俺様と出会いたくはなかったろうが、俺様はずっと会いたかったぜ。禅院の呪継者となァ!」
「あの『かるま』と関係が!?」
かるまとは、サトルの先祖に呪いをかけた空妖だ。
「あるワケねェだろ! あんなイカれた鬼と関わりたくねェよバカ!」
「おまえだって大概だわ大バカ!」
「とにかくだ! バカ!」
不審者は手を叩いて仕切り直す。
「……なんのバカだよ、おい」
「流れで言っちゃった。メンゴ」
「おまえキライだわ! なんだ、オレの命を狙ってるのか!?」
「ンッフフフ。違う、違う。むしろな、むしろ」
不審者は長い舌で口を舐め回しながら、サトルの下へにじり寄ってくる。
「おまえ……これ以上近づくなッ! バク、チカラを――」
サトルはバクの口に手を突っ込み、そこから得物を取り出すも、突如暴風が吹き荒れ、それを離してしまった。
「むしろ……俺様をスキにさせてやる。生まれ変わってな」
「ワケのわからないコトをっ!」
サトルは転がっていった得物に指を伸ばすも、次は激しい光が視界を覆い、目がくらむ。
「な、なんだッ。こいつのチカラは!」
「安心しろよ……命は取らねェ。もっとも玉は取るけどな。ンッフフフィー!」
サトルが目をつむっている隙に、不審者は気色悪い笑い声を上げながら肩を叩いた。したコトといえば、ただそれだけ。
だが結果的にそれを『だけ』と言うには、あまりにも軽すぎた。
「またな、禅院の呪継者。次に会うときはもっと自分を好きになれるぜ、ンッフフフ……」
目がくらむ間に、革靴の鳴る音だけが響く。やっと目を開けても、人影はなかった。
「バク、なんで黙ってたんだよ」
悔しさ混じりにバクに尋ねた。
「アレには敵意を感じられなかった」
「だからって!」
「それに不気味じゃないか。もちろん言動と行動もそうだが、あの突風と光。空妖の持つ能力は限られているのに、複数の怪奇現象だぞ」
「……たしかに。無闇に戦うのはキケンだ」
幸いバクは見られていないし、能力も見せていない。次に会ったらやり返す。サトルはそんな思いを抱き、落とした得物を拾い、バクの口の中へと放った。
「はあ。ムナクソ悪い。アイス買って帰ろ」
「おっ、ホントか? ならワタシはハーゲンダ――」
「高いからダメ!」
サトルは、まだ身体の異変には気づかなかった。それに気づいたのはトイレに入ってからだ。いつものようにズボンに下げると、違和感を覚えた。
最初に思ったのは……軽い、というコト。徐々に心臓が鳴り、冷や汗がたれてきた。
小便を済ますだけ、それなのに手はこわ張る。そうだ、それだけだ。サトルは意を決してパンツを下ろした!
すると、そこにはッ!
「なッ、無くなってるァーーッッ!?」
あるハズのモノはなかった。
サトルは――生まれ変わったのだ。




