第6話「記録を消す値段」
「取引、でございますか」
閉廷後、隣接する協議室で正式な和解協議が設けられた。
窓のない細長い部屋だった。
中央の机を挟み、王宮側と被害申告者側に席が分かれている。わたくしの隣には公爵家の法務官。向かいには宰相と王宮法務官。レイモンド書記官は、どちらにも属さぬ位置で記録紙を広げた。
宰相が出した案には、日付と宰相印がある。
口約束ではない。
わたくしが署名すれば、そのまま和解記録になる文書だった。
「二十日後には国境協定の更新と次年度予算の評議がある」
宰相は机の上へ二通の予定表を置いた。
「国境の守備隊は、公爵家からの兵糧と増援計画を待っている。次年度予算が遅れれば、その支払いも止まる。王太子の権限が全面停止となれば、反対派は継承問題を議題へ持ち込むだろう」
「承知しております」
「ならば、条件を聞いてほしい」
宰相が羊皮紙を開いた。
王家による公開謝罪。
毒殺未遂嫌疑の完全な撤回。
王家側有責での婚約解消。
名誉侵害、婚約準備費用、失われた利益への補償。
公爵家が求めるべきものは、金額の算定方法まで含めて並んでいた。
公爵家の法務官が、条項を上から順に確かめる。
「訂正文には、エリカ様が毒殺未遂へ一切関与していないことまで明記されますか」
「明記する」
「補償は口止め料ではなく、王家の不当告発に対する賠償として公会計へ載せる、と」
「それも受け入れよう」
宰相は迷わず答えた。
王宮が差し出しているものが、形だけの謝罪でないことは分かる。
「これを受け入れれば、明日の朝にも訂正文を出す。あなたの名誉は戻り、婚約も王家の責任で解消される。公爵家が国境協定を拒む理由もなくなる」
条件だけを見れば、不足はない。
だからこそ、その対価が重い。
「代わりに、何へ署名すればよろしいのです?」
宰相の指が、文書の最後の一節を押さえた。
「現時点では、アルベルト殿下本人の指示を示す自筆命令も署名も見つかっていない。そこで審問を終え、『王太子の関与は確認できず、王太子執務室の職員と、ミリア嬢、ヨハン・ベルツの独断であった』と結論づける」
わたくしは一節を読み直した。
『確認できず』。
その前に、『審理の結果』とある。
「確認できていないのではなく、確認を終えるのですね」
「国を守るには、終わらせる時を選ばねばならない」
「王太子執務室の職員とは、どなたを指しますの?」
宰相は一瞬だけ間を置いた。
「実務を処理した者だ」
「フェリクス上級執務官」
名を置くと、王宮法務官のペンが止まった。
フェリクスがどこまで知っていたかは、まだ調べられていない。
それでも、この和解文へ署名すれば、彼は首謀者の一人として記録される。
ミリアとヨハンの罪は消えない。だが、二人に命じた者を調べる道は、ここで閉じる。
王宮にとっては、筋の通った取引なのだろう。
わたくしは無実を回復する。
公爵家は補償を得る。
王太子は地位を守り、国境協定も予算も予定どおり進む。
その紙の上で失うのは、真相と、まだ名もない次の被害者だけだった。
「お断りいたします」
宰相の眉が寄る。
「補償が足りないのか」
「いいえ。補償を受ける権利と、調べ終えていない事実を『なかった』と記すことは別です」
「殿下の関与を示せなければ、結果は同じだ」
「その時は、『証明できなかった』と記録されるべきでしょう」
わたくしは末尾の署名欄を見た。
「ですが、調べる前に結論だけを整えれば、殿下は昨日と同じ権限を持ち続けます」
「国のためだ」
「一度それを許せば、次も『国のため』と書けますわ」
宰相は羊皮紙を引かなかった。
「あなた一人が譲れば、国境の兵も、予算を待つ役人も混乱せずに済む」
「わたくし一人の譲歩で済むのなら、提案書にフェリクス殿たちの名は要りません」
机の向こうで、王宮法務官が目を伏せた。
「ここへ署名すれば、わたくしの名誉は戻ります。同時に、王家が金と地位を対価に記録を選べるという前例へ、わたくしの名を貸すことになります」
わたくしはペンを取らなかった。
「自分の損害を埋めるために、公の記録を売るつもりはございません」
長い沈黙のあと、宰相は提案書を畳んだ。
「ならば、審問で示してもらおう。殿下の自筆命令も署名もない。部下の証言だけで、王太子本人の指示を立証できるものか」
「部下の言葉だけで立証するつもりはございません」
宰相の眉が動く。
「記録には、命じた者の名だけが残るとは限りません。命令を受けて動いた物、止まった手続き、開いた扉も残ります」
レイモンド書記官が、わたくしの不同意と和解不成立を読み上げた。
双方の法務官が内容を確かめる。
署名のない和解案には新しい証拠番号が付され、王宮が何を条件に審問を終えようとしたかまで封印された。
わたくしは一礼し、協議室を出た。
必要なのは、自白ではない。
最初に確かめるべき場所は、王家文書院だった。




