第5話「それは私事ではございません」
翌日。
王国高等審問会の円形議場で、昨夜の記録鞄が開封された。
封蝋の欠けがないことを三名が確かめる。レイモンド書記官が綴じ紐を切ると、乾いた音が石壁へ返った。
首席審問官ヘレナ・グラーフの両脇には、二名の審問官。
下段には記録机。
王宮側の席には、ディートリヒ・ノルデン宰相と法務官が座っている。
さらに高い傍聴席から、グスタフ国王陛下が審理を見届けていた。
「王太子アルベルト殿下による、エリカ・ヴァルトシュタイン嬢への犯罪告発について審理を始める」
ヘレナ首席審問官が木槌を置く。
「当会は事実認定と刑事責任を判断する。王族の身分に関する処分は国王が、教会の職位は教会が、それぞれ本会の認定を受けて決する」
最初に立ったのは宰相だった。
「昨夜の一件は、王権犯罪として扱うべきものではない。舞台は卒業記念舞踏会であり、逮捕令状もない。婚約者同士の感情的な争いが、行き過ぎたにすぎません」
議場の後方で、羽根ペンが紙を擦った。
私事。
宰相は、昨夜の宣誓も警護官も、その二文字の中へ押し込もうとしている。
「殿下は若く、卒業の日に感情を抑えきれなかった。王宮として不適切な言動は認め、エリカ嬢と公爵家には謝罪する用意がある。ですが、これを王権の犯罪と呼ぶのは行き過ぎです」
謝罪を申し出ながら、事件の名を小さくする。
わたくしは口を挟まなかった。
ヘレナ首席審問官が宰相の陳述を最後まで記録させ、こちらを見る。
「エリカ嬢。意見は」
「一つ、確認させてくださいませ」
わたくしは宰相へ向き直った。
「王権の行使は、行われた場所で決まりますか。それとも、用いられた権限と手続きで決まりますか」
「権限と手続きだ。だが昨夜は、裁判ではない」
「ええ。ですから、裁判だったとは申しません」
レイモンド書記官の前にある記録を示す。
「殿下は『王太子の権限に基づく正式な犯罪告発』と明言し、証拠の真正と証人への不干渉を宣誓なさいました。虚偽ならご自身も審問を受けることにも同意されましたね」
「記録の通りです」
書記官の返答は短かった。
宰相は表情を変えない。
「言葉だけの宣誓だ。殿下は実際にエリカ嬢を投獄していない」
議場の何人かが宰相を見る。
令状はない。
投獄もされていない。
そこだけを見れば、宰相の反論にはまだ力があった。
「では、実際に使われた力を確認いたします。昨夜、警護隊を指揮した副官に伺います」
証言台へ進み出た警護隊副官は、胸に右手を当てて宣誓した。
「昨夜、大広間の扉は誰の命令で封鎖されましたか」
「王太子執務室から出された封鎖命令です。王太子印を確認しました」
「封鎖中、出席者が外へ出ようとした場合は?」
「制止します。従わなければ、命令違反として拘束する手順でした」
「わたくしが告発の途中で退出しようとした場合も?」
副官は一度、宰相の方を見た。
「同じです」
石造りの議場に、その二文字が落ちた。
婚約者の口論で、人の自由は奪えない。
「副官。封鎖命令書と警備配置表を提出してください」
ヘレナ首席審問官の命令で、二通の記録が証拠机へ運ばれる。命令書の下部には王太子印の印影があり、配置表には各扉を守った警護官の署名が並んでいた。
「まだ、身柄を拘束できる準備があったというだけだ」
宰相は退かなかった。
「準備だけで罪が成立するなら、王宮は警護を置けなくなる」
「では、もう一つの準備をご覧くださいませ」
わたくしは広報草案の提出を求めた。
昨夜、証人控室で新しい証拠番号を付けられた原案。
十七時の受付印。
広報局の受付簿。
搬入便の番号。
「こちらは告発三時間前、王太子執務室から広報局へ渡された発表文案です。国家の広報を使い、わたくしを罪人として国内外へ公表する準備が進められておりました」
「執務室の者が、殿下の演出を予想して先走った可能性もある」
「その可能性は否定いたしません。誰の指示かは、これから調べるべきことです」
わたくしは原案の日付へ指を添えた。
「ですが、その場の口論でなかったことは、この時刻から分かります」
宰相は答えず、草案を読み直した。
ヘレナ首席審問官が、封鎖命令と広報記録を左右に並べる。
「中間裁定を下す」
木槌が一度鳴った。
「昨夜の告発は、王太子印による会場封鎖と身柄拘束の可能性を伴い、公式発表の準備にも王太子執務室が用いられていた。私的な口論ではなく、王太子権限を用いた公的行為と認定する」
続いて、別の裁定書が開かれた。
「審理への干渉を防ぐため、アルベルト殿下の新規告発権、証人への接触権、関連記録の訂正命令権を暫定的に停止する」
王太子の地位も、日常の職務も、まだ残る。
それでも、昨夜の言葉を痴話喧嘩へ戻すことはできなくなった。
閉廷後、議場を出ようとしたわたくしを宰相が呼び止めた。
「王権の行使であったことは認めよう」
彼の後ろには、王宮の法務官とレイモンド書記官がいた。内密な囁きではなく、記録に残る申し入れらしい。
「だが、国政まで道連れにする必要はない。あなたの名誉も補償も満たせる」
宰相が隣の協議室を示した。
「現実的な取引をしませんか」




