第4話「まだ間に合うもの」
大広間の扉が閉じた。
再開した音楽は、厚い木板の向こうでくぐもった。
わたくしは警護官に促され、夜の回廊を進む。
アルベルト殿下、ミリア、ヨハンとは別々の控室へ移される。口裏合わせを防ぐためだ。
左手には、もう指輪がない。
十二年もそこにあった重みだけが、まだ指の根元に残っていた。
「エリカ!」
背後から殿下の声が飛んだ。
振り返る。
二人の警護官に挟まれた殿下が、こちらへ来ようとしていた。外套も着けず、舞踏会用の礼装のままだ。先ほどまで人を裁く側に立っていた方とは思えないほど、足取りが乱れている。
「二十日後には国境協定の更新がある。王位継承資格の最終審査も近い。ここで私の関与が記録されれば、国政が混乱するのだぞ」
謝罪より先に、協定と継承審査。
あの方らしい順番だった。
「それで、何がまだ間に合いますの?」
殿下は唇を湿らせた。
「記録が王宮へ渡る前なら、話を収められる。君の名誉も、公爵家との協定も守れるのだ。ミリアとヨハンについては、こちらで――」
「殿下。お離れください」
警護官の一人が進路を塞いだ。
「無礼者。私はまだ王太子だ」
「学院長より、証人を隔離せよとの命を受けております」
「私の命令と学院長の命令、どちらが上かも分からぬのか」
警護官の顎がわずかに固くなった。それでも退かなかった。
今夜、彼らに与えられた役目は王太子を敬うことではない。証言が混ざらぬよう、四人を引き離すことだ。
「エリカ、君が協力すれば済む話だ!」
殿下が警護官の肩越しに叫ぶ。
協力。
何を、誰のために。
「続きは、記録の残る場所で伺いますわ」
わたくしは答えを待たず、回廊を曲がった。
殿下が間に合わせたかったもの。それが、わたくしの名誉ではないことだけは分かった。
案内された証人控室は、客室ほどには広くない。
窓には鉄格子。扉の外には警護官。机の上には、封印用の蝋燭と空の木箱が並んでいた。
ほどなく、レイモンド宮廷書記官が真鍮の留め具のついた革鞄を抱えて入室する。後ろには二名の記録官が続いた。
「舞踏会での告発、提出証拠、証言および宣誓について、予備審問記録としての封印が完了いたしました」
机の上へ三つの文書束が置かれる。
赤い封蝋。
同じ頁数を示す番号。
綴じ紐の結び目をまたぐ、書記官の公印。
「複本はどちらへ?」
「一部は王家保管庫へ。一部は王国高等審問会へ。原本は私の管理下で移送します」
「三つの束に相違は?」
「ございません。各頁の右下に同じ連番を打ちました。後から訂正が必要になった場合は、元の記述を消さず、訂正理由と命令者を追記します」
三か所へ分ける。
一つだけを差し替えれば、残り二つと頁番号が食い違う。
「お願いいたします」
礼を述べたところで、廊下が騒がしくなった。
「宮廷書記官殿、確認を! この公表文は止めるべきでしょうか」
警護官が扉を半分だけ開け、相手の身分証と用件を確かめる。
入ってきた文官の襟元には、王宮広報局の記章があった。息を切らし、抱えた羊皮紙の角を折り曲げている。
「大広間から妙な話が届いております。ですが、こちらは王太子執務室から至急扱いで受け付けた文案です。公表の許可を待っていたのですが……」
彼が差し出した羊皮紙を、レイモンド書記官が受け取った。
表題は『王宮広報局・公式発表文案』。
『王太子アルベルト殿下は、婚約者エリカ・ヴァルトシュタインによる聖女ミリアへの毒殺未遂を看破された。よって王家は犯罪者との婚約を解消し――』
わたくしの罪。
殿下の功績。
その後の婚約解消。
まだ起きていないはずの結末が、美文に整えられている。
「これは、いつ王太子執務室から届きましたの?」
「本日の十七時です」
文官は受付印を指した。
「執務室の臨時便で届きました。至急、公表の準備をせよと。受領者と搬入便の番号は受付簿に残っています」
レイモンド書記官の指が、時刻の上で止まった。
舞踏会の開始は十八時。
殿下が告発したのは二十時。
「文面は受領後に書き換えましたか」
「誤字を二か所直しただけです。原案も保管してあります」
「書記官様。こちらも関連記録として保全をお願いいたします。受付簿と、届いたままの原案も」
「承知しました」
書記官は文官から原案を受け取り、新しい証拠番号を付けた。二名の記録官が受付時刻と搬入便の番号を読み合わせる。
文官は自分の署名を求められ、ようやく事の重さに気づいたらしい。ペンを持つ指が震えていた。
草案だけでは、誰が作成を命じたかまでは分からない。
王太子執務室の誰かが、殿下の許可なく先走った可能性も残る。
けれど、告発がその場の激情から生まれたという逃げ道は、十七時の受付印が塞いだ。
断罪の結末は、断罪が始まる前から文章になっていた。




