第3話「月のない夜の目撃者」
わたくしはヨハンへ向き直った。
彼の目撃証言については、すでに気になることがあった。
舞踏会が始まる前、卒業生たちは前夜の彗星観測を話題にしていた。
新月に合わせて中庭も東回廊も消灯したのに、厚い雲で何も見えなかった、と。
「ヨハン様。昨夜、どこで何をご覧になったのか、改めてお聞かせください」
「昨夜の十一時頃だ。俺は東回廊から中庭を見下ろしていた。すると、君が小瓶を持って温室へ入っていった」
「時刻は十一時。場所は東回廊。わたくしがいたのは温室の入口ですね?」
「間違いない」
「人違いでは?」
「そんなはずはない。雲の切れ間から月明かりが差したんだ。君の顔も髪も、ドレスの色も見えた。手にした扇の金色の紋章まで、はっきりとな」
信用させたい一心なのだろう。尋ねるたび、ヨハンの証言は細かくなる。
「東回廊から四十歩以上離れた温室の入口で、扇の紋章まで見えた。そう記録してよろしいですか?」
「ああ」
書記官のペンが走る。
「セドリック教授。昨夜の観測について伺えますか」
列席していた天文学教授が進み出た。
「彗星観測のため、昨夜十時半から零時まで、中庭、東回廊、温室周辺の灯火を消しました。灯火管理簿にも記録があります」
「月と空模様は?」
「昨夜は新月です。しかも全天を雲が覆い、彗星は観測できませんでした。東回廊から温室までは四十歩以上。人影ならともかく、顔や扇の紋章を見分けることは不可能でしょう」
わたくしはヨハンを見た。
「ヨハン様。暗闇で見えなかったはずのものを、誰から教えていただいたのです?」
それ以上は問わなかった。
書記官のペンが止まる。
誰もが、ヨハンの答えを待った。
「あ……それは……」
「もうよい、ヨハン」
殿下が鋭く遮る。
「これほど曖昧な証言なら、証拠から外す。下がれ」
守るのではなく、切り捨てる言葉だった。
ヨハンの顔が蒼白になる。
「殿下に言われたんだ!」
「ヨハン!」
「エリカ嬢を見たと証言しろと! そうすれば、父の領地税流用を不問にしてやると約束された! 俺は、教えられたとおりに話しただけだ!」
第三の証拠も、わたくしの罪を証明しなかった。
それどころか、事件は王太子による偽証教唆の疑いへ反転した。
「殿下。三つの証拠は、すべて崩れました」
わたくしは証拠台を見渡した。
「では次に、誰がこの三つの嘘を用意したのか、確認いたしましょう」
「私は、見たのなら証言せよと言っただけだ!」
殿下はヨハンを睨みつけた。
「小瓶を捏造しろなどとは命じていない!」
「小瓶が捏造品だと、殿下はご存じでしたの?」
殿下の口が止まる。
「違う。言葉の綾だ」
「ふざけるな!」
ヨハンが叫んだ。
「学院の旧印章を使い、式典備品の搬入を口実にエリカ嬢の控室へ入って、私物箱へ小瓶を入れろと命じたのは殿下だ! 現行の印章は手に入らないが、古い紋章でも誰も枚数までは見ないとおっしゃった!」
「貴様の独断だ!」
「わたしも命じられました!」
今度はミリアの声が二人の間へ割って入った。
彼女はヨハンと殿下を交互に見た後、震える両手を握り締めた。
「この手紙を書けば、わたしを妃にしてくださると……。文面を考えたのも、エリカ様の筆跡見本を渡したのも殿下です!」
「お前はエリカを憎んでいた。自分から協力したのだろう!」
「だからといって、殿下の指示がなくなるわけではありません!」
三人はもう、互いの言葉を守ろうとはしなかった。
「確認いたします」
わたくしの声に、三人の言い争いが止まる。
「ヨハン様は殿下から、旧印章の使用と小瓶の設置を命じられた。ミリアは殿下から、脅迫状の文面と筆跡見本を渡された。そしてヨハン様は、偽証の見返りに父親の罪を不問にすると約束された」
わたくしは書記官へ顔を向けた。
「ここまでの発言も、記録されていますね?」
「すべて」
短い返答が、三人の逃げ道を塞いだ。
「その断罪を支えた証拠は、三つとも嘘でした」
わたくしはアルベルト殿下を正面から見た。
「殿下。最後まで、証言なさいます?」
「あなたには分からないわ!」
ミリアがわたくしを睨んだ。
「生まれた時から、何もかも持っていたあなたには。わたしがどれほど苦しかったかなんて!」
何もかも、ですか。
六歳から続いた王妃教育。自分の時間も、望む将来も持てなかった年月を、わたくしは口にしなかった。
苦労を比べても、彼女の罪が重くも軽くもなるわけではない。
「わたくしが何を持ち、何を失ったかは、いまの問題ではございません」
「でも――」
「苦しかったことは、誰かを罪人にしてよい理由にはなりません」
わたくしは、ミリアから目を逸らさなかった。
「あなたを助けたことを後悔はいたしません。ですが、それと、あなたがしたことの責任は別です」
ミリアはその場に崩れ、顔を覆った。
「そこまでになさい」
オルガ学院長の声が広間を鎮めた。
「現時点で確認された事項を整理します。小瓶はエリカ嬢の所有物とは立証できず、ヨハン本人が旧印章の使用と小瓶の設置を認めた。脅迫状は、記載日より後に納品されたインクで書かれ、ミリア本人が筆記を認めた。目撃証言は物理的に成立せず、ヨハンは王太子殿下から偽証を命じられたと証言した。そして三名の発言は、アルベルト殿下の関与を示している」
学院長は警護官を呼んだ。
「学院の権限で刑罰を決めることはできません。本件を王宮の正式審問へ送ります。口裏合わせを防ぐため、三名は別々の部屋で待機させなさい」
警護官たちが動き、殿下、ミリア、ヨハンを引き離していく。
学院長は次に、わたくしへ尋ねた。
「虚偽告発と名誉毀損について、あなた個人の被害申告も審問へ付されます。重い処罰を望みますか」
「わたくし個人への侮辱について、重い罰を望むつもりはございません」
広間の緊張が、ほんのわずかに緩む。
「ただし、許すという意味ではございません。王家の名で証拠を偽造し、偽証を命じた件は、わたくし個人が不問にできる問題ではありません。公的な責任は、正式な審問で明らかにしてくださいませ」
学院長が重く頷いた。
「アルベルト殿下との婚約については、後日、王家を交えて協議しますか?」
「婚約を継続する意思はございません」
「エリカ!」
警護官に囲まれた殿下が振り返る。
「待て。話し合えば、まだ間に合う」
わたくしは殿下を見なかった。
左手から婚約指輪を外し、書記官の立ち会いのもと、学院長の手へ預ける。
「わたくしは、罪人として殿下から捨てられるのではございません」
指輪の重みが手から離れた。
「王家からの正式な謝罪、不当な告発に対する補償、そしてわたくしと公爵家の名誉回復。それらを手続きによって確認したうえで――わたくしから、この婚約をお断りいたします」
返事は待たなかった。
ただ、殿下のそばにいた者たちが視線を伏せ、静かに距離を取った。誰も、王太子の言葉へ無条件に従おうとはしない。
わたくしは扇を開き、止まっていた楽団へ一礼した。
音楽が、もう一度始まる。
背後から歓声は聞こえなかった。
ただ宮廷書記官のペンだけが、彼らの未来を一行ずつ記し続けていた。




