第2話「六日前の手紙に、二日前のインク」
ミリアの指先に残る薄紫色の汚れが、わずかに震える。
「これは卒業礼拝の祈祷文に使う、長期保存用のインクです。王都の工房が今回初めて調合した一本で、普段は黒く、熱を受けた時だけ紫へ変わります」
「それがどうした」
「学院へ納品されたのは、二日前です」
わたくしは手紙の末尾を示した。
「けれど、この手紙の日付も、ミリアが受け取ったという日も六日前。つまり――六日前の手紙に、二日前のインクが使われております」
短い沈黙の後、殿下は手紙ではなく、わたくしを見た。
「だが、納品を管理していたのは貴様だ。保管場所を知る貴様がミリアの控室へ忍び込み、そのインクで手紙を書いたのだろう」
管理者だからこそ、品物の所在を知っている。
その疑いは成立する。何人かの貴族も、表情を引き締めて頷いた。
「その可能性もございますわね」
「認めるのか」
「仮に、殿下のおっしゃるとおりだといたしましょう。わたくしが控室からインクを盗み、この手紙を書いた。ですが、そのインクが学院へ届いたのは二日前です」
わたくしはミリアへ向き直る。
「わたくしが書けたのは、早くても二日前。ところがあなたは、六日前に受け取り、その夜に殿下へ相談したと証言なさいました」
ミリアの唇から色が失せた。
「殿下の説と、あなたの証言。どちらが正しいのでしょう?」
「ミリアが日付を勘違いしたのだ」
殿下が間を置かず答える。
「恐怖で記憶が混乱したのだろう。実際には二日前だった」
「手紙だけでなく、殿下へ相談した日まで、そろって四日も取り違えたのですか?」
「それは……」
「書記官。二人は先ほど、六日前に手紙を受け渡した事実を別々に証言なさいましたね」
「そのように記録しております」
六日前に手紙があったという証言と、二日前に初めて存在したインク。
どちらか一方しか、真実ではあり得ない。
「念のため、納品後の経路も確かめておきましょう」
学院職員が受領書を掲げた。
保存用インクは二日前、封をした箱で学院事務室へ届いた。わたくしが確認したのは外箱の封印と数量だけ。その後、職員が未開封のままミリアの控室へ運び、ミリア自身が封印に破損がないことを確かめ、受領欄へ署名している。
少なくとも、殿下の侵入説を裏づける記録はない。
一方で、ミリアが受領後のインクへ触れられたことだけは、本人の署名が証明している。
「では、受領後にこのインクへ触れた方を――」
「わたしは書いただけです!」
ミリアの叫びが、わたくしの言葉を遮った。
「文章まで考えたのは、わたしではありません!」
広間から物音が消えた。
ミリアは自分の口を両手で覆う。責任を筆記だけに狭めようとした言葉が、筆記した事実そのものを認めていた。
「いま、『書いた』とおっしゃいましたか?」
「動揺して言い間違えただけだ!」
殿下が一歩進み出る。
わたくしは殿下と言い争わず、書記官を見た。
「ただいまの発言は?」
「一言一句、記録いたしました」
ミリアが顔を上げる。その視線は一瞬だけ、隣のアルベルト殿下へ向いた。
学院へ来たばかりの彼女には、冬服も教本もなかった。学院の支援制度を使い、それらを手配したのはわたくしだ。
あの日、礼を言いながら震えていた手で、彼女はわたくしを罪人にする文字を書いた。
「……ここまでだ」
殿下が低く告げた。
「これは正式な裁判ではない。婚約者同士の問題として、ここで終わらせる」
「できかねます」
答えたのはレイモンド書記官だった。
「殿下は正式な犯罪告発を行い、宣誓なさいました。ここまでの記録は、すでに予備審問記録として封印の対象です」
「告発の真正性に疑義が生じた以上、学院としても中断は認められません」
オルガ学院長の言葉が、殿下の退路を閉ざした。
わたくしを逃がさないために選んだ手続きから、今度は殿下自身が逃げられない。
「では、最後の証拠を確認いたしましょう」




