第14話「国は、誰か一人では動かない」
国境協定の更新まで、あと十二日。
翌朝の議場には、外務、財務、内務、軍務の実務官がそろっていた。
いつもなら傍聴席に座る者たちではない。机に積まれた起案簿や決裁規程を実際に扱い、王太子執務室へ書類を上げてきた者たちだ。
ディートリヒ宰相は彼らを見回し、最後の抗弁を述べた。
「目前の国境協定と次年度予算には、王太子の決裁が要る。今ここでアルベルト殿下を失えば、行政は止まる。国境の諸侯は動揺し、諸外国にも隙を見せることになる」
アルベルト殿下を残す理由が、愛情から国益へ置き換わった。
それでも、軽く扱ってよい主張ではない。審問に勝っても、国境で兵や民が代償を払うのなら、それは解決とは呼べなかった。
「各省から、現在の未決案件と法定の決裁権者をご報告ください」
わたくしの求めに、外務官が立った。手にした規程集の頁には、夜通し確認したらしい細い紙片が何枚も挟まっている。
「国境協定の最終締結権者は国王陛下です。王太子の事前承認は慣例ですが、法定の必須要件ではありません。外務大臣と国境を管轄するヴァルトシュタイン公爵家の合議を経て、陛下が締結できます」
「慣例を外せば、交渉の遅れは」
宰相が問う。
「既存案を維持する限り、二日です。新たな譲歩を加える場合は、さらにかかります」
二日。損失はある。けれど、国が止まる日数ではない。
次に財務官が立った。
「次年度予算は、国王陛下と財務・内務両大臣の副署による暫定決裁が可能です。王太子職が空席であっても、提出済みの予算案そのものは失効しません」
軍務官も、国境の定例補給は現行予算の範囲で継続できると証言した。
わたくしは、昨夜分類した起案目録を提出する。
書類を作ったのは、わたくし一人ではない。外務省が条文を起こし、財務省が数字を積み、内務省と軍務省が必要量を出した。わたくしがしたのは、部署の境目にできた食い違いへ印を付けることだった。
その目録をもとに、各省の実務官たちが夜明けまでに作った暫定移管案が重ねられた。
省庁横断の監査は、各省から一名ずつ出す合議体が引き継ぐ。三か月を移行期間とし、その間は国王と担当大臣が副署する。照合の順番、差し戻しの条件、異論が割れた場合の再審査先まで、担当者自身の言葉で書き込まれていた。
「一晩で作った仕組みに、国政を任せると?」
宰相の指が、移管案の端を押さえた。
「一晩で国の仕組みを作り直すのではございません。もともと各省にあった権限を、正規の場所へ戻すのです」
「公爵家との関係はどうする。婚約を失えば、支援も失うのではないか」
「父からの文書がございます」
公爵家の封印を確かめてから、書記官が読み上げる。
王家の正式な謝罪と既存協定の遵守を条件に、国境防衛への支援は継続する。協定は王太子個人との約束ではなく、王国と公爵領の公的な契約である。そこに、わたくしが王太子妃になるという条件はなかった。
グスタフ国王陛下が、高所の席から移管案を受け取った。
一枚ずつ目を通し、外務官と財務官へ二、三の確認をした後、国王印を預かる侍従へ振り向く。
「法務確認を経て、必要な暫定勅令を発する。王太子一人の不在を理由に、国政を止めることは認めぬ」
宰相は、しばらく書類から顔を上げなかった。
「移行には失敗の危険がある」
「ございます」
わたくしは否定しなかった。
「ですが、無実の者へ罪を着せる王太子を国益の名で残せば、この国の署名そのものが信用を失います。その傷は、三か月の移行期間では回復できません」
ヘレナ首席審問官が木槌を鳴らした。
「王太子個人を残さなければ国家機能が停止するとの抗弁を退ける」
宰相が目を伏せる。
これで、アルベルト殿下の罪を国政の都合で曖昧にする理由はなくなった。
ヘレナは、文書院の貸出票、財務会議録、学院の通行証を机上へ並べた。
「ここからは、アルベルト殿下本人の故意について判断する。エリカ嬢、核心だけを問え」
「はい」
わたくしは、最初の三枚を示した。
「第一に。文書院、財務省、学院で別々に保管された記録が、事件直前の三日間に王太子執務室へ集まりました。保管元同士に、事前の連絡はございましたか」
三機関の管理官が、それぞれ否定する。
「第二に。フェリクス殿の代理権限で、書類や通行証を動かすことはできます。けれど、ミリアを王太子妃候補に選び、アルベルト殿下ご本人へ正式告発を宣誓させることもできますか」
「できない」
ヘレナの答えは短かった。
「第三に。隔離されたミリアとヨハンの供述は、互いの担当を知らないまま、公開前の記録と一致しましたね」
レイモンド書記官が、舞踏会直後に封印した別室供述を開く。
ミリアは、筆跡見本に使われた書簡の形式と、妃候補にするという約束を述べた。ヨハンは、通行証の搬入名目と、税調査を止める際の言い回しを述べた。どれも公表前の記録と一致している。
「一致しております」
わたくしは最後の問いを置いた。
「第四に。アルベルト殿下には、わたくしを退けてミリアを妃候補へ移す利益がありました。正式告発の撤回不能性を知り、不都合な記録を提出本から外す方法も自筆で利用していた。当夜、ヨハン様が命令者を答えようとした際には制止し、小瓶が捏造品であることも口にした。これらすべてを同時に説明できる、殿下の関与以外の筋書きは示されましたか」
返事をしたのは、王宮側ではなかった。
「示されていない」
ヘレナは三枚の記録を重ね、その上へ妃候補照会と教育記録を置いた。
「一つずつなら、別の説明は可能である。だが、独立記録の収束、隔離供述との一致、利益を得る地位、正式告発を実行した本人の知識と当夜の言動。そのすべてを同時に満たす合理的な別筋はない」
木槌には、まだ手を伸ばさなかった。
「アルベルト殿下が本件を知り、王太子執務室の権限を用いて準備させた故意は、最終判断に必要な水準へ達したと認定する。殿下が黙秘を続けても、提出済みの証拠だけで判断へ進む」
有罪の正式な宣告は、最終弁論の後だ。
王宮側の法務官が、隣席のアルベルト殿下へ身を寄せた。小声の相談が続く間も、書記官のペンは止まらない。
「残る争点は量刑事情である」
ヘレナが告げる。
「殿下が重刑相当の審問まで進める意思だったのか、虚偽の罪を認めさせる威迫に留めるつもりだったのか。黙秘する権利は保障する。ただし、説明がなければ、行為が通常もたらす結果に基づき判断する」
法務官が顔を上げた。
「アルベルト殿下ご本人が、陳述を希望しております」




