第10話「聖女であること、妃になること」
大司教は、二冊の記録を自ら抱えて議場へ入った。
一冊は聖女の倫理面談簿。
もう一冊は、教会が王宮から受け取った機密文書の控えだった。
どちらにも教会の連番と封印がある。昨日になって王宮で作り直せる紙ではない。
「まず、言葉の意味を分けて確認いたします」
わたくしは大司教へ一礼した。
「ミリアの治癒能力は本物ですか」
「本物だ。重傷者を癒やした記録も、複数の神官が確認している」
「その力は、聖女職を解かれれば失われますか」
「否。力は本人のものだ」
「では、『聖女』という地位は?」
大司教が銀の留め具へ手を置いた。
「教会が授ける公職である。治癒能力に加え、倫理審査、公的信頼、守秘義務を満たした者にのみ、その名と特権を認める」
ミリアの力まで疑う必要はなかった。
問われるのは、その力を持つ彼女へ、国と教会が公の信用を預けられるかどうかだ。
「事件前の面談記録をお願いいたします」
大司教が一か月前の頁を開いた。面談した神官とミリア、二人の署名がある。
「ミリアは聖女職の定期再審査について、不安を訴えている。その中で、こう述べた」
大司教は行を追った。
「『卒業後、エリカ様が退かれれば、王太子殿下がわたしを妃にしてくださる。聖女職を離れることになっても、王宮で守ると約束された』」
アルベルト殿下の視線が、初めて面談簿へ向いた。
「本人の願望だ」
宰相が席を立つ。
「親切な言葉を、ミリア嬢が都合よく受け取った可能性がある。面談した神官は、王太子が約束する場面を見ていないのだろう」
「見ていない」
大司教が答えた。
「ならば、その記述はミリア嬢の発言が一か月前から一貫していたことを示すにすぎない。殿下の約束を証明はしない」
一つの紙に背負わせるには、宰相の指摘は重かった。
「おっしゃるとおりです」
わたくしは二冊目を示した。
「では、教会保管の控えと、機密文書登録簿の番号をご照合くださいませ」
大司教が双方を寄せる。
羊皮紙の端に記された番号。
登録簿の受付番号。
同じ十桁が並んでいた。
「機密待遇照会書。件名は『妃候補照会』。事件の四十日前、王太子執務室から教会へ届いたものだ」
「受付日は、先ほどの倫理面談より前で間違いございませんか」
「間違いない」
「内容を読める範囲でお願いいたします」
大司教は一度、ヘレナの許可を待った。
「『エリカ・ヴァルトシュタイン嬢との婚約が解消された場合、ミリアを王太子妃候補の特別教育へ移行させるため、聖女職との兼任可否、教会から王宮への身分移管、必要な審査期間を照会する』」
誰もすぐには声を出さなかった。
面談簿だけなら、ミリアの夢とも読める。
照会書だけなら、王太子執務室が将来の選択肢を調べただけとも言える。
けれど二冊には、同じ未来が別々の言葉で残っていた。
「照会への回答は?」
「聖女職と王太子妃候補の兼任には、教会と王宮の共同倫理審査が必要。通常は半年を要すると返答した」
「それに対する再照会はありましたか」
「ある。卒業後すぐに教育を開始できるよう、審査期間の短縮が可能かと」
「特定の聖女を妃候補にする照会は、よくあることですか」
「私が大司教となってからは初めてだ」
「照会したこと自体は、禁じられておりますか」
「禁じられてはいない。婚約の解消も妃候補の選定も、正規の手続きを踏むならば、調査することは罪ではない」
珍しいことと、犯罪であることも同じではない。
この紙が示すのは、わたくしを陥れる命令ではなく、わたくしが退いた後の準備だった。
宰相が机へ指を置いた。
「いずれにもアルベルト殿下の自筆署名はないはずだ」
「ない。王太子執務室の職印と、フェリクス上級執務官の取扱印だ」
「ならば、前の三件と同じだ。フェリクスが職務上、可能性を調査しただけかもしれない」
王宮側へ逃げ道が一本戻る。
わたくしはその道を塞がず、大司教へ尋ねた。
「王太子妃候補を決める権限は、フェリクス殿にございますか」
「ない」
「わたくしと殿下の婚約を解消する権限は?」
「それもない」
「ただし、命じられずとも手続きだけを調べることは?」
「補佐官の職務として、あり得る」
レイモンド書記官のペンが、最後の答えまで記した。
ここでも、紙はアルベルト殿下の命令を語らなかった。
それでも、三つの嘘が成功した先にある将来は、事件の四十日前から具体的な手続きへ変えられていた。
わたくしが罪人となる。
婚約が解消される。
ミリアが妃候補になる。
その順序を望んだ者の名は、まだ紙の上にない。
「首席審問官。ミリア本人へ、この二冊に記された内容を確認する許可をお願いいたします」
警護官が、証言台へ続く扉を開けた。
白い服の胸元で、銀の聖女章が揺れた。




