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創像師  作者: Haku
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遺されたもの

配属から、三ヶ月が過ぎた。

黎都本局の研修室には、新人創像師十二人が並んで座っている。

現場で経験を積みながら、実務を学ぶ。それが配属後の新人研修だった。

今は、書庫精の姿はない。

部屋の前方では、教導官が一枚の資料を掲げていた。


『白潮期における地方支部との連携』


「白潮期は、沿岸部の地方支部が最も忙しくなる時期だ」

教導官の声が響く。

「本局所属だからといって、本局だけで仕事をするわけじゃない。地方支部への応援、合同観測、現地調査――これからの時期は、地方へ出る機会も増える」

演台脇の大型掲示板には、各地方支部から届いた観測件数や応援要請の一覧が並んでいた。

「研修生諸君も、同行することがある。現場では、自分で判断せず、必ず担当創像師の指示に従うこと。特に白潮期は、小さな異常ほど見落とすな」


強い陽射しが研修室の床を白く照らす。

ミオの視線は、いつの間にか、その光へと流れていた。


「……ミオ、聞いてる?」

隣の席から、ニナが小声でつつく。

ミオはニナの方に顔を向けると、眼鏡を押し上げた。

「えっ…と、聞いてるよ。白潮期は、地方支部との連携が増えるんだよね」

「そこしか聞いてないでしょ」

くすくす、と、その向こうで、二人の少女が笑った。エリナと、メイ。最近はニナを中心に、四人で少し話すようになった。いつだったか食堂で、ノアを見ていた子達だ。

「ミオって、ほんと、すぐ別の世界にいっちゃうよね」

「まぁ、ミオだからね」

ニナが苦笑する。

少し離れた最前列では、レグルが相変わらず背筋を伸ばし、一言も聞き逃すまいとペンを走らせていた。


三ヶ月前、この時間はどこか落ち着かなかった。今も輪の中心ではない。それでも、隣で小突いてくれる誰かがいる。それだけで、こうして机に向かう時間も、少しだけ悪くないと思えた。


「――本日の研修は以上です」

教導官が退室すると、新人たちは席を立ち、それぞれ食堂へ向かおうとした。

その時、後方の扉が開いた。


「ミオ」


ライナスだった。

新人たちの視線が、一斉に集まる。

「これから出る」

「え……?」

「二泊三日だ。出張の支度をしてこい。三十分後、正門に集合」

ミオは目を丸くした。

「に、二泊三日ですか?」

「ああ。昼飯は馬車で済ませる」

それだけ言うと、ライナスは踵を返し、さっさと廊下へ出ていく。

ミオは慌てて資料をまとめ、その背を追った。

「二泊三日って……地方任務だよね」

「また現場なんだ」

「最高位の書庫精がついてると、やっぱり違うのかな」

エリナとメイが囁く中、ニナだけは何も言わず、閉まった扉を少し心配そうに見つめていた。



馬車は、黎都の北へ向かっていた。

車内には、ライナスと、その隣にセイル。向かいに、ミオとノア。


「今回は、ベルンハイム支部だ」

「ベルンハイム……ですか?」

「北の地方支部だ。その管轄のフェルスって里に向かってる」

ライナスが、包みのパンをミオに放りながら言った。

「地方創像師が、一人、亡くなった。名は、トマス・グレン。六十九歳。三級創像師。……病だったそうだ」

ミオは、受け取ったパンを膝に置いた。

「フェルスは、トマス三級の担当区の一つだ。担当区には、他にも町や村がある。全部合わせて六、七か所だな」

「そんなに広い場所を、一人で……?」

「いや」

ライナスは首を振った。

「四級を何人か抱えてる。地方の三級は、基本的にそいつらと現場を回す」

パンをかじりながら、ミオをちらりと見た。

「お前も研修が終われば、その一人だ。配属先はまだ決まってねぇがな」

ミオは思わず姿勢を正した。

「……今日は、トマスさんが受け持っていた仕事の引き継ぎか何かですか?」

「今日の仕事は、そっちじゃねぇ。――書庫精の、保護だ」

「保護……」

「創像師が死ぬとな」

ライナスは、窓の外へ目をやった。

「世界が照合を解く。……契約が終わるのは、その結果だ。契約ってのは、俺たち人間が作った制度だが、照合は世界の摂理だからな。創像局がやるのは、その事実を登録することだけだ」

「じゃあ、残された書庫精は……」

ミオは、思わずセイルを見た。

セイルは、小さく頷いた。


「照合が解かれた書庫精は、光に還ります」


「そして中央書庫へ送られ、継承を済ませた後……新たなマスターとの照合を待つのです」

ミオは、ノアに視線を移す。

何も言わない。

その横顔は、いつもと変わらず静かだった。


照合が、世界の摂理として、ひとりでに解ける。


頭では、分かる。

けれど、その先のことは、まだ、うまく想像できなかった。



ベルンハイムへ着いたのは、日が傾ききった頃だった。 六時間あまり、馬車に揺られ続けた身体は、すっかり凝り固まっている。降り立ったミオは、背伸びをした。


黎都ほどの喧騒はない。それでも、街道沿いでは宿へ入る旅人や、荷を降ろす馬車の姿が絶えない。北へ向かう者も、南へ戻る者も、この街で一夜を過ごす。ベルンハイムは、北部への玄関口となる街だった。


創像局ベルンハイム支部は、その町の一角にあった。黎都本局の、あの威圧するような石造りとは、まるで違う。二階建ての、飾り気のない建物だ。中へ入ると、事務方の男が、書類の山から顔を上げた。


「本局の方ですね。お待ちしておりました」


奥から、四十半ばほどの男が姿を見せる。日に焼けた顔には、ここ数日の疲れが色濃く滲んでいた。

「三級のオルトです。……トマスさんの件、遠いところをありがとうございます」

ライナスが、短く一礼する。

「ライナス・エルドです。……トマス三級のこと、お悔やみ申し上げます」

オルトは、静かに目を伏せた。

「覚悟はしていました。引き継ぎの準備も、できる限り進めていました」

そう言って、小さく息をつく。

「ですが、三級が一人欠ける穴は、やはり大きい。四級たちには担当を振り直しましたが、判断が必要な案件は、当面、私たち残った三級で回すしかありません」

その声に、弱音はなかった。ただ、現実を淡々と受け止める地方創像師の重みだけが滲んでいた。

「後任の件は、本局でも急ぎます」

ライナスが言うと、オルトは、少しだけ表情を和らげた。

「……助かります」

そう言うと、机に置いてあった地図を広げる。

「フェルスへは、ここから馬車で二時間ほどです」


「里には、四級のエドガー・ハインズが待機しています。トマスさんとは長く一緒に働いていた創像師です。リーネ……失礼、トマスさんの書庫精も、現在はエドガーが付き添っています」

「承知しました。連合は予定通りに?」

「ええ。明日の夕方に到着予定です。今日はゆっくりお休みになられて、明日は昼頃に出発していただければ間に合います」

オルトは壁の観測地図へ目を向けた。

「……申し訳ありません。本来なら私がご案内したいところですが、この時期は支部を空けられません」



翌日、昼過ぎ。

馬車を降りると、一面の麦畑が午後の陽光を浴びていた。金色の穂が、風に合わせてさわさわと波打ち、その向こうに、石造りの古い家々が寄り添っている。


里の入口で、一人の男が、ミオたちを待っていた。初老の、実直そうな男だった。支部で会った創像師と同じように、その肌は陽に深く焼けていた。

「遠いところを、ありがとうございます」

男は、深く頭を下げた。

「ベルンハイム支部所属、四級創像師の、エドガー・ハインズです。……この里ができて間もない頃から、トマスさんと現場を共にしてきました」

ライナスが、軽く会釈を返す。

「本局所属、三級創像師のライナス・エルドです。書庫精のセイル、新人創像師のミオ・ヴェルナ、その書庫精ノアと来ています」

「よろしくお願いいたします」

「亡くなられてから、ずっとこちらに?」

「はい。二日前から」

エドガーは少しだけ目を伏せた。

「リーネを、一人にはできませんから」


エドガーの後ろについて、一行は、里の細い道を歩いた。

どの家の軒先にも、花が咲いている。よく手入れされた用水路が、澄んだ水を、さらさらと流していた。里の中心では、緩やかな石橋が小川を跨ぎ、その上を、子どもたちが笑いながら駆けていく。

道を行くと、人々が、ミオたちの制服に気づいて、ぽつり、ぽつりと足を止めた。

畑仕事の手を止める人。帽子を胸に抱く人。静かに道を譲り、一礼する人。

エドガーは、そのたびに小さく会釈を返す。

誰も、言葉は交わさない。それでも、その静かな所作の一つひとつが、この里が数日前に、大切な人を見送ったのだということを物語っていた。

ふいに、一人の老婆が、ミオの手を取った。皺だらけの、あたたかい手だった。

「……リーネも、行ってしまうんだねぇ」

老婆は、小さく笑った。

「なら、伝えておくれ。今までありがとう、って」

ミオは、とっさに言葉が出なかった。ただ、こくり、と頷く。 老婆は、それで安心したように、静かに手を離した。


「いい里、ですね」

歩きながら、ミオが、ぽつりと言うと、エドガーは、少しだけ誇らしげに笑った。

「でしょう。……信じられますか。ここは昔、何もない、真っ白な忘霧の土地だったんですよ」

「えっ……」

「この里に未来が刻まれてから、もう四十四年になります」

エドガーは、風に揺れる麦畑へ目を向けた。

「私は、その創刻には立ち会っていません。フェルスへ来たのは、その数年後です」

懐かしむように、目を細める。

「その話は、あとで、ゆっくり。先に、リーネに会ってやってください」



トマス・グレンの家は、里の外れにあった。戸口には、里の人々が供えたのだろう、いくつもの野の花が置かれている。まだ色褪せてもいない。

「リーネは……奥に」

通されたのは、日当たりのいい部屋だった。

窓から射し込む柔らかな陽光の中に、もう一つ、白く揺らめくものがあった。

麦畑を思わせる、ほのかな金色を宿している。

窓際には、古い手帳や図面が、几帳面に積み重ねられていた。

ミオは、息を呑んだ。

その静かな光の美しさに、目を奪われた。


「……リーネ、と申します」


澄んだ女の声が、柔らかく部屋を満たす。

その声に呼応して、淡い金色の光が、わずかに揺れた。

「手続きを、お願いいたします」

ライナスは頷くと、鞄から書類を取り出した。


契約終了の登録は、静かに進んだ。

書類には、故人の氏名、階級、契約年数、死亡確認事項。淡々とした、行政の手続きだった。

「本局三級創像師、ライナス・エルド。トマス・グレンの死亡を確認。契約終了を、登録する」

ペンが、紙の上を滑る。それだけだった。ミオはその事務的なやり取りに、少しだけ面食らった。もっと、厳かな儀式を想像していた。

「言っただろ」

ミオの顔色を読んだのか、ライナスが言った。

「俺がやってんのは、契約を“終わらせる”手続きじゃねぇ。契約は、トマス三級が亡くなった時点で、もう終わってる。俺は、それを紙に書き留めてるだけだ」

リーネは、何も言わなかった。

その輝きだけが、ゆっくりと明滅を繰り返していた。



登録が済むと、それまで後ろで待機していたセイルが、前に進み出た。

「リーネ。……情報共有を、お願いできますか」

「ええ」

セイルは静かに目を閉じた。

その胸元から、蜂蜜色を帯びた光が、ゆっくりと浮かび上がる。リーネへ寄り添うように近づき、やがて二つは、静かに重なった。


ミオには、何が起きているのか、分からなかった。

「書庫精同士の直接共有だ」

「……書庫網、とは、違うんですか?」

「あれは書庫精全体へ共有するためのもんだ。今やってるのは、この土地の記録を、セイルへ直接渡してる」

「直接……」

「土地の変化、創刻の履歴、住民との経緯。そういったもんをセイルが受け取って、整理する。後任へ渡すためにな」


目に見える変化は、何もなかった。

(でも……こうして、受け継がれていくものがあるんだ……)


やがて、二つの光はゆっくりと離れた。

胸元へ光が還ると、セイルはそっと目を開いた。

「……共有、完了いたしました」

伏せられた蜂蜜色の瞳には、長いまつ毛の影が落ちていた。



連合の迎えが来るまで、まだ半刻ほどあった。

エドガーが、部屋の隅に置かれた小さな卓へ湯呑みを並べる。

ノアとセイルの前にも、一つずつ湯呑みが置かれた。ミオは、思わず様子を見つめた。

「ああ。書庫精は召し上がりませんよね。でも、トマスさんは、いつもリーネの分も用意していました。気づけば、私もそうするようになっていたんです」

そう言って、エドガーも席についた。


「……さっきの話ですが。この里は、かつて完全に忘霧へ還った土地でした。街道沿いの、小さな里だったそうです。それが役目を終えて、人は去り……すっかり、白へと還った。古い地図には、『旧フェルス跡』と、それだけ」


白に、還りきった土地。やがて、その姿は原霧と見分けがつかなくなる。


「百年近く、誰も手をつけませんでした。完全に忘霧へ還った土地を、もう一度使うなんて、当時は前例がなかったですから」

「なぜ、ですか?」

「忘霧に刻んだ未来は定着しにくい。それが、昔の通説だったんですよ」

「今は違う」

ライナスが、短く言った。

「はい。創刻技術は少しずつ発展し、成功例も積み重なっていった。その考えは、次第に覆されていったんです」

エドガーは、一度言葉を切った。

「そこで、創像局が試したんです。完全に白へ還った土地を、人の暮らせる場所へ戻せるか――それが、フェルス再開拓計画でした」


「エドガーさんは……」

ミオの呟きに、小さく首を振る。

「当時、二十歳。契約して四年目でしてね。……私は別の地方支部にいました。計画を率いていたのは、当時の三級創像師です。トマスさんも、まだ四級で……その下で働く、現場の一人にすぎませんでした」


四級……ということは、まだ里に未来を刻む大役を任されるには早い。

ミオがそう考えたのを見透かしたように、エドガーは続けた。


「彼は、実際に未来を刻んだわけではありません。でも、私がベルンハイム支部へ配属された頃には、トマスさんはもう、この里へ誰よりも足を運ぶ創像師でした」

「どうして、ですか?」

「この里の定着を見届けるためですよ。定着観測や、忘霧の確認。橋や用水路を見て回って、必要があれば小さな創刻をする。住民と話をして、困り事があれば耳を傾ける。……地方創像師としては、ごく当たり前の日常です」

エドガーは、少しだけ苦笑した。

「でも、若い頃の私は、それが少し物足りなかった。もっと大きな創刻がしたい。新しい未来を刻みたい。そう思っていましたから」

ミオは、その気持ちが痛いほどわかった。研修生の身で分不相応なことは承知の上だ。それでも、早く自分も未来を刻みたい。いつも、そう思っている。


隣のライナスへ視線を向けた。

「……なんだ」

ミオは慌てて首を振る。

「い、いえ……何でもありません」

話を聞いて初めて、ライナスがその数少ない経験を積んできた創像師なのだと知った。


エドガーはそんなミオを見て、小さく笑った。

「トマスさんだって、同じでしたよ。若い頃は、大きな創刻の話になると、誰よりも目を輝かせていました。あの頃は、未来を刻むことばかり見ていたんでしょうね」


小さな沈黙が落ちた。

ノアとセイルの前にも置かれた湯呑みからは、まだ湯気がゆるやかに立ちのぼっている。

ミオは、何気なく部屋の中へ視線を巡らせた。

窓際にまとめられた遺品の中に、一枚の額縁が見えた。


(あれは……)


エドガーは、その視線に気づき、小さく頷く。

「ああ。あれは、里の人が贈ってくれた肖像画です」

そう言って、肖像画を持ってくる。そこには、穏やかに微笑む青年と、その隣に寄り添う一人の女性。

ミオは、少しだけためらってから口を開く。

「……トマスさんと、奥様ですか?」

「そう見えますか」

エドガーは、どこか懐かしそうに微笑んだ。

「これは、トマスさんとリーネですよ」

「え……?」

ミオは、もう一度、肖像画へ目を向けた。

並んで微笑む二人は、創像師と書庫精には見えなかった。

「トマスさんは、生涯独り身でした。でも、この里じゃ誰もそうは思っていませんでしたよ」

エドガーは、肖像画へ優しく目を落とす。

「みんな、この二人を夫婦みたいなもんだと思っていましたから。もっとも、晩年は『娘さんですか』なんて聞かれることも増えましたが。――リーネ、この日のこと、覚えていますか?」

ほのかに金色を帯びた光が、小さく揺れた。

「ええ。里が開拓されて十年。節目の収穫祭の日でした。トマスが、『ようやく里の人々に受け入れられた気がする』と喜んでいたのを覚えています」

「……トマスさんらしいですよね。創像師として仕事で関わっているだけでは、あそこまで里の人との距離は縮まりません」

肖像画を見つめながら、エドガーは続けた。

「数年ほどの定着観測のあと、計画は、成功と判断されました。責任者だった三級は、通常業務へ戻って……関係者も、みんな、現場を離れた。でも、トマスさんだけは、通うのをやめなかった。計画が終わっても、休日になると顔を出しては、住民と一緒に畑を耕し、木を運び、家づくりを手伝っていた」

懐かしそうに、笑う。

「気づけば、創像師というより、この里の住人でした」


「……トマスさんは、いつからここに住んでいたんですか?」

「三十年ほど前から、ですね」

「支部のある町に住むのが、普通だと思ってました」

「普通は、そうです。」

エドガーは、静かに頷いた。

「三級になって、星渡りが使えるようになった頃、突然、この里へ家を移したんですよ。毎朝ここから支部へ飛んで、仕事を終えると、またここへ帰ってくる。……みんな、物好きだと言いました」

少しだけ、目を細める。

「でも、あの人は、笑って言ったんです。『仕事へ行く場所と、帰る場所は、別だからな』って」

エドガーは、窓の外の麦畑へ目を向けた。

「さっき、私もトマスさんも、若い頃は未来を刻きたくて仕方がなかった、と話しましたよね。でも、この頃にはもう、あの人は『続いていく未来』を見ていました。だから、この里を帰る場所に選んだのでしょう」

ミオもまた、窓の外を見た。

金色の麦畑。緩やかな石橋。澄んだ用水路。

胸の奥に、あたたかなものが灯った。

この里には、自分が探している何かがある。

そんな気がした。

ふいに、リーネの光が小さく揺れた。

「……迎えが、近いようです」

そう言うと、淡い金色の光は、部屋の中をゆっくりと巡った。

「……もう、お別れなんですね」

「……私に、人の言うような“恋しい”という気持ちが、あるのかは……分かりません。書庫精、ですから」

穏やかな声だった。

「ですが、トマスのいない自分を、私は、知りません。半世紀、同じ景色を見て、同じ未来を歩んできました。……それは、皆さんの言う感情と、そんなに、遠くないのかもしれませんね」

泣きも、しない。取り乱しも、しない。

それでも、その静かな声には、半世紀を共に歩んだ確かさが、静かに宿っていた。

「……ライナスさん」

ミオは小さな声で呼びかける。

「リーネさんは、これから、どうなるんですか」

「連合の護送で、中央書庫へ戻る」

ライナスは、静かに答えた。

「そこで、継承の手続きを受ける」

「継承……」

馬車の中で聞いた言葉が、胸の奥によみがえる。

継承とは、書庫精にとって、新たな始まりだ。

半世紀という歳月を胸に抱き、トマスと共に歩んだ日々を携えたまま、リーネは静かに旅立とうとしている。

そう思うと、胸の奥が、きゅっと痛んだ。

隣でノアは、リーネを静かに見つめていた。

ミオは、そっと視線を伏せた。



外で、風が動いた。

麦の穂が、一斉にさわりと鳴る。

里のあちこちで、人々が空を見上げた。

家路を急ぐ子どもたちが歓声を上げる。

夕暮れの空を、一条の光が、滑るように降りてきた。

人の背に、淡く光る翼。

「……きっと、お迎えだ。」

誰かが、小さく呟いた。


光は、トマスの家の前へ、静かに降り立った。

長身の男の背には、仄かに紫がかった光の翼が広がっていた。

その光が、ほどけるように解ける。

解けた光は、一人の幼い少年の姿を結んだ。

男は、一歩前へ進み出る。


「連合特務協力員の、アルヴェイン・ルシェルです」


そう名乗った男は、リーネの光へ向き直り、静かに一礼した。

「このたびは、お悔やみを申し上げます。トマス・グレン殿の書庫精を、お迎えに参りました」

金色を帯びた光が、小さく揺れる。


(……この人が、連合の創像師)

細縁の眼鏡の奥の瞳は、穏やかなのに、近寄りがたい空気があった。

ミオは、ふと、その隣の少年へ目を向ける。

星菫色(ほしすみれいろ)の癖毛が肩を越えて揺れた。同じ色を宿した瞳が、静かにリーネを見つめている。


「……大儀であった。良き旅路を」

幼い見た目には似合わない、古風な口調だった。

(……書庫精、なんだよね)

なぜだろう。

その少年からは、これまで出会った書庫精とは、どこか違う空気を感じた。


アルヴェインは、ライナスへ目を向けた。

「ライナス」

「……はい」

ライナスの背筋が、ぴん、と伸びる。

「胃は、無事そうですね」

「……誰の、せいだと思ってるんです」

つい、といった調子で、本音が漏れた。ライナスが、しまった、という顔をする。

アルヴェインは、ふ、と目元をやわらげた。 「推薦した責任は、感じていますよ」

「……。」

「期待しています」

「……恐縮です」


そこへ少年が、ミオへ歩み寄った。

「……お主が、ミオ・ヴェルナか」

「は、はい」

少年の姿をした書庫精は、それ以上は、何も言わなかった。ただ、ミオとノアを順に見つめ、小さく頷いた。

「なるほど、のう」

それから、隣のノアへ、ひとこと。

「――継いだ側は、難儀じゃな。忘れられぬ側の、儂とは違う」

ノアは、表情を変えなかった。

「……あなたには、あなたの難儀があるでしょう」

「違いない」

アステルは、愉快そうに、肩を揺らした。

「――また今度、じっくり話そうではないか」 星菫色の髪を揺らして、悪戯っぽく笑う。

「アステル」

アルヴェインが、たしなめるように、名を呼んだ。

「安心せい」

アステル、と呼ばれた少年は、肩をすくめる。

「今日は、仕事じゃ」



リーネが、アルヴェインの傍らへ寄る。

エドガーは、ゆっくりと里を見渡した。

金色に揺れる麦畑。

緩やかな石橋。

澄んだ用水路。

子どもたちの遊ぶ広場。

「……いい里になりましたね」


「……あの」

気づけば、ミオは、リーネの前に進み出ていた。

「里の人が……伝えてほしい、って。“今まで、ありがとう”って……」

言いながら、胸が、詰まった。

淡い金色の光が揺れる。

「……ありがとうございます」

静かな声だった。

「あの人が聞いたら、きっと、照れたでしょうね」

肖像画の中のリーネが、優しく微笑んでいる――そんな気がした。


「……良い旅、でした」


「では――良き夜を」

アルヴェインが、ミオたちへ一礼する。 アステルの姿は淡い光へとほどけ、その光がアルヴェインの背に重なると、星渡りの翼が静かにひらいた。

二つの光は、金色に暮れる麦畑の上を、音もなく空へ昇っていく。


ミオは、その光が、薄暗くなりゆく空の一点に溶けて消えるまで、ずっと、見送っていた。



ベルンハイムへと戻る暮れゆく街道を、馬車は静かに進んでいた。

しばらく、誰も口を開かなかった。

「……連れてきて、正解だったみてぇだな」

不意に、ライナスが呟く。

「え?」

ミオが顔を上げると、小さく首を振った。

「……いや」

それだけ言うと、隣のセイルへ目を向ける。

「リーネから預かった記録は」

「ええ。黎都へ着く頃には、整理も終わると思います」

「そうか」

二人は、そのまま仕事の話へ移っていった。

ミオは、膝の上の手を、じっと見つめた。

それから、隣のノアを、そっと見上げる。

「……ノア」

「はい」

「前のマスターのこと……覚えてる?」

ノアは、少しの間、窓の外を見ていた。

「……継承のとき、前マスターとの記録の多くは、綴じ直されました。……残っているのは、ほんの、断片だけです」

「そっか……」

ミオは、それ以上、聞かなかった。

トマスとリーネの姿が、脳裏に浮かぶ。


半世紀。

同じ未来を歩み続けた二人。


「……ノア」

「はい」

そのいつもと変わらない短い返事を、これから先も、何度聞けるのだろう。

自然と口元が、ふっと綻んだ。

「これからも、よろしくね」

ノアは、わずかに目を見開いた。

「……はい」


いつか、自分たちにも、その日は来るのだろう。


二人の旅は、まだ始まったばかりだった。

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