幕間③:風刻特別区
渡界路の関門は、いつものように、静かだった。
アルヴェイン・ルシェルは、翼を解き、石畳の上へ降り立った。長い星渡りのあとの、地に足のつく感覚。それを、彼はいつも、悪くないと思う。
関門の連合職員が、名簿を繰る。
「ルシェル特務。ご苦労さまです。えー、ご同伴は、アステル氏と……」
「こちらは、護送対象の書庫精になります」
アルヴェインが通行証を示すと、職員は、アステルの傍らに漂う金色を帯びた光を確かめ、名簿に印をつけた。
国をまたぐ者は、誰であれ、この関門を通る。
連合特務員であり、一級創像師であるアルヴェインとて、例外ではなかった。
「どうぞ。……お帰りなさいませ」
アルヴェインは、軽く会釈を返して、関門をくぐった。
その先には、霧の街があった。
薄い霧が、街全体に、うっすらと垂れこめている。
街の輪郭も、石畳も、遠くの建物も、その乳白の膜を透かして、滲んで見えた。晴れる日は、めったにない。霧の向こうを、人が歩いている。書物を抱えた学生。外套の裾を翻す研究者。連合の記章をつけた職員。
「ひと月ぶり、じゃの」
アステルが、星菫色の癖毛を揺らしながら石畳の上を先導する。 その足どりは軽やかだ。
二人はそのまま、リーネの光を促して、前方に高くそびえ立つ、荘厳な建物へと歩き出した。
*
中央書庫は、街の最も奥、霧のもっとも濃くなるあたりに建っていた。
建物の入り口をくぐった瞬間、空気が、変わった。
古い紙と、革と、埃の匂い。天井は、見上げても霞むほど高く、そこまで届く書架が、幾層にも連なっている。びっしりと詰まった背表紙は、どれも色褪せ、その一冊ずつに、世界の記録が綴じられていた。
そして、その書架の谷間には――いくつかの光が、あった。
淡い金。青みがかった白。仄かな緋色。書物の壁のあいだを、互いに離れて、ぽつり、ぽつりと、宙に浮かんでいる。どれも、契約者を失った書庫精たちだ。ここへ還る者は、そう多くない。年に一度の照合式で、多くは新たな契約者を見つけて、ここを出ていく。いま残っているのは、この数ヶ月のあいだに、契約を終えたばかりの光だけだ。十に満たない。その少なさが、かえって、一つひとつの光を、はっきりと際立たせていた。
受付の職員が、顔を上げた。
「ルシェル特務。お待ちしておりました。……そちらが、トマス・グレン三級の?」
「ええ。リーネさんです。契約終了登録は、済んでいます」
「かしこまりました。情報を更新しておきます」
職員は、手元の名簿へ静かにペンを走らせ「こちら、書庫網への共有もお願いします」と受付に浮遊する一つの光へと声を掛けた。
「しばらく、お世話になります」
リーネが、澄んだ声で挨拶をする。
「継承は、すぐに行われますか?」
「……少し、時間をいただけますか?」
「はい。ごゆっくり、どうぞ。いつでもお声がけください」
職員の声は、事務的だったが、冷たくはなかった。
ただ、還ってきた光を、記録し、迎え入れる。それが、この場所の仕事だった。
「では……。お世話になりました」
「ええ」
「達者での」
リーネの光が、書架の谷間の奥へと、ゆっくり流れていく。まばらに漂う仲間たちの中へ溶け込むように、静かに浮かんだ。 半世紀を、一人の男と生きた光も、ここでは、数ある光の、一つになる。
「行きましょうか」
アルヴェインは、そう言って歩き出した。
*
外へ出ると、通りの向こうに見慣れた人影があった。
その人物はアルヴェインに気づくと、のそりと歩み寄ってくる。
「やあ……。戻ってたんだね」
褪せた色の外套。雑に結った灰がかった髪は、あちこちがほつれている。男とも女ともつかない、掴みどころのない佇まい。顔立ちは若く見えるが、目の下にうっすらと沈んだ隈が、その若さに年齢の知れない翳りを添えていた。
神話研究院首席研究員、ヴェラ。
この特別区で、研究者にその名を知らぬ者はいない。
「こんにちは、ヴェラ。ちょうど先ほど帰りました。白潮期ですからね。暁星からの要請がひっきりなしです」
「行ったり来たり……。君の身軽さにはいつも感心するよ」
その視線はすぐにアステルへ移った。
「アステル。……この後少し時間あるかい?」
「懲りんのう」
「君ほど興味深い存在は、そういないからね」
ヴェラは、何かを思い出したように、眠たげな目を上げた。
「ああ…そうだ。アルヴェイン。君も来てくれ。君に見せたい資料がある」
「私はついでですか……」
アルヴェインは苦笑しながら、アステルと顔を見合わせた。
*
高い天井の回廊を、学生たちが、資料を抱えて行き交っている。
講義室からは、教授の低い声が漏れていた。閲覧室の長机には、開いたままの古文書が伏せられ、壁には、神話時代の世界図と、幾度も書き込みを重ねられた白源観測図が並んでいた。
白源を追う研究者たちの日常が、この場所にはあった。
アルヴェインとアステルは、ヴェラに続き、回廊を慣れた足取りで歩いた。すれ違う学生が、彼らに会釈をする。軽く応えながら、研究室へと向かう。
部屋に入ると、ヴェラは机の上から一冊の報告書を手に取った。
「先日、星紡の古い家から古文書が見つかってね。これは第一次調査報告だ」
アルヴェインは報告書を受け取ると、静かに頁を繰った。
「……風刻に関する記述、ですか」
「まだ断片的だけどね。数少ない貴重な資料だ」
数分、部屋には紙をめくる音だけが流れた。
「……興味深い」
「そうだね」
ヴェラは、眠たげな目を細めた。
「ただし、謎を解明するには、まだ遠いですね」
「遠くないと困る」
アルヴェインは報告書から顔を上げた。
「答えになる前が、一番面白いからね」
「……あなたらしい」
ふと、漆黒の髪を耳へ流しながら、静かに頁をめくる姿が脳裏をよぎった。
――彼女なら、どう読むだろう。
「イシュレナにも連絡を?」
「どうせ君が行くんだろう? そのときにでも」
頁に添えた指先が、一瞬だけ止まった。
「……ついで、ですからね」
ヴェラは小さく笑った。
「では、私はこれから支部に向かいます」
「悪かったね。呼び止めてしまって」
ちっとも悪く思っていなさそうに言うと、ヴェラは軽く手を振った。そして、アステルを振り返る。
「アステル」
「なんじゃ」
「向こうで少しだけ話そう」
「……少しだけ、のう」
二人が奥の書架へ歩いていく。
アルヴェインはその背を見送ると、静かに研究室を後にした。
外へ出ると、乳白の霧が石畳をゆっくりと流れていた。
建物の隙間からは、白源がのぞいている。
アルヴェインは、襟元を整えると、石畳の階段を降り始めた。
胸元には、第一次調査報告。
低く澄んだ鐘の音が、霧の街へ静かに響いた。




