幕間②:落葉
深翠の国、南の奥。
ひとが名を付けるよりも前から在ったという、古い森だった。
天を覆う梢は、なお濃い緑を湛えながらも、もう半分が葉を落としている。
森の中心には、一本の大樹が立っていた。
この森の心臓と呼ばれる古木だ。
幹は、内から白く、ひび割れている。
その根方には、薄く、霧がわだかまっていた。
忘霧だ。
役目を終えたものが還っていく、終わりの白源。
森は、ゆっくりと、そこへ還ろうとしていた。
その霧のほとりに、一人の女が、静かに立っていた。
闇に溶けるほど深い、艶やかな黒髪。それを、星と鎖を象った細い銀の装飾が、ひとすじ縁取っている。紅桔梗の瞳は、忘霧を映してなお、揺らぐことがない。その美しさを際立たせていたのは、造作ではない。誰にも乱されることのない、深い静けさだった。
湿った夜気の中、森の何もかもが、緩やかに終わりへ傾いていく。
その変化を、彼女――イシュレナだけは、ただ静かに見届けていた。
「……本当に、何もしないんですか」
沈黙を破ったのは、森番の青年だった。難しいことは何も知らない。ただ、この森に生かされ、ここを我が家として育っただけの若者だった。
「創像局に頼めば、創刻で森を残せるって。役目を終えかけた森に、もう一度"未来"を刻めば、また――」
「この森は、どうして終わるのだと思いますか」
イシュレナの声は、水面のように凪いでいた。
咎める響きはない。ただ、静かに問うていた。
「えっ……」
「人に忘れられたから、ではありません。忘れられるより、ずっと前から、この森は役目を終えはじめていた」
彼女は、闇に沈む木々へ、ゆっくりと目をやった。
「この森は、かつて川を生んでいました。湧き水を集め、里の田畑を潤していた。――けれど、人は山から水を引く術を得た。森が水を生まなくても、人は生きていけるようになった」
青年が、息を呑む。
「森は、獣を養っていました。けれど、人は里を広げ、森を切り開き、獣たちもまた、別の場所へ居を移していった」
「……」
「人が森を訪れる理由も、少しずつ失われていった。森を抜ける古い道も、新しい街道に取って代わられ、もう誰も通らない」
「川も、獣も、道も。この森が担っていたものを、一つ、また一つと、別のものが肩代わりしていった。そうして、いつしか――この森がなくても、世界は回るようになった」
イシュレナは、青年を振り返った。
その切れ長の目は、組織では感情が読めないと評されることが多い。
けれど今そこにあったのは、咎めではなく、痛みを分けあうような慈愛の色だった。
「それが、役目を終える、ということです。誰のせいでもありません。あなたの森は、ただ――まっとうしたのです」
青年は、うつむいた。やがて、絞り出すように言った。
「……でも、おれにとっては、まだ、必要なんだ」
彼は古木へ向かって、一歩踏み出しかける。
けれど、足元にわだかまる忘霧を前に、その足は止まった。
「この洞で、死んだ祖父さんと、よく雨宿りをした。獣に追われて泣いてたガキの頃、この森が、隠してくれた。おれは、この森に育てられたんだ。それが、世界に要らないからって、終わっていいなんて……っ」
イシュレナは、すぐには答えなかった。
青年の言葉を、最後の一滴まで、聞いた。それから、静かに口を開く。
「世界に要るか、要らないか。それと、あなたにとってかけがえがないかどうかは――別の話です」
「……え」
「世界が回るのに、この森はもう要らない。それは、本当です。でも、あなたがこの森に育てられたことも、同じくらい、本当です。終わるものに、確かに意味があった。その意味は、世界が忘れても、あなたの中には残る」
彼女の声は、諭すというより、ただ、隣に立つようだった。
「無理に未来を刻んでも――たとえ一度は甦っても、役目を終えたこの森は、また、終わりへ還ろうとするでしょう。引き止めて、甦らせて、また終わる。それを、繰り返すことになる。それは、看取るより、ずっと惨い。……だから、残すのではなく、見送りましょう。この森が、確かに在ったことを、あなたが覚えている。それでいい」
青年は、長いあいだ、古木を見つめたまま、動かなかった。 やがて、こくり、と、小さく頷いた。声にならない涙が、一粒だけ、土に落ちた。
深く頭を下げると、青年は、森をあとにした。
*
夜が更けても、イシュレナは、その場を離れなかった。
やがて、森を包む夜気がいっそう深まる。
背を向けて歩きだそうとしたイシュレナの足が、ふと、止まった。
心臓の古木から少し離れた土に。
忘霧が届く、その境目に。
落ちた種から芽吹いた、小さな双葉が、一つ。 それもまた、やがて忘霧へ還る命だった。
イシュレナは、しばらく、それを見つめた。
始まりは、彼女の領分ではない。彼女に視えるのは、いつも、終わっていくものの方だ。けれど、その終わりは、彼女の目に、ただ失われるものとしては映らなかった。すべては、循環の途中にある命だった。
彼女は、双葉をそっと撫でると、森を下った。 守れなかったものまで、自らの責として抱え続ける。
彼女にできる責任の取り方は、ただ一つだった。
終わりまで、見ていてやること。
そして、その先を――見ないでおくこと。
*
屋敷の自室へ戻ると、窓辺には一羽の白鳩が、文を咥えて待っていた。
差出人を確かめるまでもない。あの、細縁の眼鏡の奥で、いつも穏やかに笑っている、食えない男からだ。
立場の違いで、公に言葉を交わすことは無い。
それでもこの十年、忘霧を巡る考察だけは、互いに重ねてきた。
封を切ると、相変わらず要点の掴めない近況の合間に、妙に引っかかる記述があった。
――暁星に、面白い新人が来ました。機器も書庫精も捉えられないものを、先に視るそうですよ。
イシュレナの指が、その一行で止まった。
機器も、書庫精も、捉えられないもの。
忘霧に敏い者は、世に少なくはない。けれど、機器の網も、書庫精の目もすり抜けるものを、なお先に視る――それは、もはや「敏い」の域ではない。彼女自身が、長い孤独の果てに、ただ一人で立ってきた高さだ。そこに並ぶ者を、彼女はこれまで、ほとんど知らない。
「……同じ、なのでしょうか」
呟きは、夜の静けさに溶けた。
会ってみたい、とは思わなかった。ただ、世界のどこかに、自分とよく似た高さで"視えない何か"を視る者がいる――その事実だけが、静かに、彼女の中へ沈んでいった。
そして、もう一つ。引っかかったことがある。 その新人が視るというのは、本当に、自分と同じ"終わり"なのだろうか。
彼女は文を畳み、窓の外の闇へ目をやった。 その黒の向こうで、終わりかけた古い森が、静かに白へ還っていく。その片隅で、誰にも知られず、双葉が一つ、夜露を吸っている。
イシュレナは静かに目を閉じた。
自然は、神ではない。
けれど、人間よりずっと賢く、美しい。
それが、彼女の辿り着いた答えだった。




