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創像師  作者: Haku
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6/9

終わらない町

窓の外の風景が、ゆっくりと変わっていく。

馬車に揺られて、もう半日あまり。

これまでの現場は、どこも黎都から半日とかからない場所だった。こんなに長く馬車に乗るのは、配属されて初めてだ。

石畳の大路も、絶え間ないつちの音も、とうに遠い。舗装された街道はいつしか土の道に変わり、両側には、刈り入れの済んだ畑と、低い丘が、静かに流れていくだけになった。


隣では、ノアが窓の外へ目を向けている。


向かう先は、暁星南部の町、ロウレン。

今回の案件は、少し奇妙だった。


かつて交易で栄えたその町は、東に新しい街道と港ができた途端、坂を転がるように寂れていった。

人が去り、役目を失った町には、やがて忘霧ぼうむの発生が確認された。 創像局は行政や町の人々と協議を重ね、この町を未来へ残すため、ロウレン再興計画を立ち上げる。


最初に刻まれたのは、教育・研究拠点への転換だった。学者や教育者を招き、新たな住民を迎え入れる計画だ。創刻は定着し、移り住んだ人々も、この町で新しい暮らしを始めた。

しかし五年ほどが過ぎると、町には再び忘霧が迫った。

第二次ロウレン再興計画では、人口規模に合わせて町の在り方を見直し、農業を中心とした持続可能な町への転換が図られた。新たな担い手を迎え、耕作地の再生も進む。


それでも、忘霧は消えなかった。


土地に異常はない。創刻にも誤りはない。 原因だけが、誰にも分からなかった。 そして今回──第三次ロウレン再興計画が立ち上がった。


「……忘霧って、どんな霧なんですか」

ミオは資料を読み返しながら尋ねた。


「原霧とは、違うんですよね」

脳裏には、第三開発区で見た、飲み込まれそうな白源が浮かんでいた。


セイルが穏やかに答える。


「見た目はほとんど同じです。ただ、原霧がまだ何も刻まれていない“始まりの白”なら。忘霧は、役目を終えたものが還っていく“終わりの白”です。町にも、森にも、人の営みがあった場所なら、どこにでも現れます」

「終わりの白……なんだか寂しいですね」

「終わりというより、循環ですね」


ノアが言葉を継ぐ。


「世界に刻まれたものは、永遠には残りません。役目を終えれば、やがて白源へ還ります」


ライナスが腕を組んだまま窓の外を見た。

「普通なら、それでいい」

低い声だった。

「問題は、ロウレンはまだ終わるような町じゃねぇってことだ。住人だっている」


「なのに今回も、忘霧が発生した。始まりは小さかったらしい。前の二回もそうだった。そうなると町の連中も、『また始まった』くらいの感覚だろうよ」


ミオは、道中に何度も読み返した資料を見下ろした。

冒頭に綴じられた初動報告へ、改めて目を通す。


--------------------------------------

案件番号:AK-72-041


管轄:レイヴァ支局 ロウレン支部


分類:

忘霧案件


概要:

レイヴァ地方ロウレン町北西地区山林にて忘霧発生。

忘霧は現在も拡大継続中。

発生原因は不明。

現地対応継続中につき、本局支援を要請。


初動対応:

・周辺住民避難開始

・白源封鎖創刻完了

--------------------------------------


報告書には、それだけが簡潔に記されていた。


「原因不明……。どうして……」

「それがわからねぇから、本局まで呼ばれる案件なんだ」


馬車が、小さく揺れた。

ミオはノアと一緒に、窓の外へ目を向ける。

小さな影が空をよぎった。

星渡りの創像師だ。地上の何もかもを置き去りに、南の空へ飛んでいく。


飛べば、あっという間なのだろう。

本局からロウレンへ向かった今回の統括責任者も、すでに現地入りしているはずだ。


「……統括の人は、もう着いてるんですよね」

影を目で追いながら、ミオは尋ねた。

「セドリック二級か。ああ、とっくにな」

ライナスが資料を閉じる。

「上位数%の階級だからな。流石に俺たちと一緒の馬車で半日も潰させらんねぇ」

ミオは頷きながら、その名前を胸の中で繰り返した。

「その、セドリック二級って……どんな人なんですか」

「腕は確かだ。人当たりもいい。部下にも慕われてる。……で、俺やお前と同じ、一般創像師だ。それが実力だけで二級まで上がった。大したお人さ」

その口ぶりには、同じ叩き上げへの敬意があった。

「まぁ俺も、似たような境遇だからな。なにかと目をかけてもらってる。気さくな人だが、腕も立場も俺の遥か上だ。失礼のないようにな」

「その割に、いつも軽口を叩いてますよね」

セイルが言うと、

「うるせぇ」

ライナスは一蹴した。


そんな二人のやり取りを見て、ミオはふと尋ねる。

「そういえば、セイルさんって、普段も人型なんですね」

「ええ」

セイルは蜂蜜色の瞳を瞬かせ、頷いた。

「この間、書庫精は普段、本や動物の姿で過ごすことが多いって聞きました。……あ、ノアは別ですけど」

ノアがちらりと視線を投げる。

「でも、セイルさんは違うんですね」

「ふふ。この姿の方が、何かと便利ですので」

「……まぁ、人型の方が仕事しやすいだろ」

「そういうことです」


──マスターとの同調が強固な場合や、私のように知を司る場合には、通常も人型を取る傾向にあります。


ミオは、ノアが以前言っていた事を思い出した。

(そういう……ことなのかな)


御者が手綱を軽く引き、馬車の速度が落ちる。

「着いたぞ。ロウレン……暁星の、南の端だ」


やがて、その町は夕暮れの丘の陰から現れた。


馬車を降りたミオは、丸眼鏡を押し上げて町を見上げた。

寂れてはいた。立派な石造りの倉庫は半分が扉を閉ざし、広場の噴水に水はない。けれど――不思議と、暗い町ではなかった。


夕餉ゆうげの匂いが、暮れかけた風に乗って流れてくる。広場では家路につく人影がぽつぽつと過ぎ、水のない噴水のへりで、子どもが石畳を蹴っていた。その少し離れたベンチには、一人の老人が静かに町を眺めている。窓には、ひとつ、またひとつと灯りがともりはじめる。古い時計塔が、かしん、と鈍い音を立て、少しずれた時刻を打つ。大通りに渡された色褪せた飾り紐は、去年の――いや、もっと前の祭りの名残だろうか。


寂れている。けれど、ちゃんと、生きている。

誰かに愛されている町だった。


「ミオ。俺は馬車をうまやに回してくる」

ライナスが御者へ言いつけて、振り返った。

「手続きと支払いがある。お前はそこで荷物を見とけ。すぐ戻る」

「あ、はい」


ライナスとセイルが御者とともに、広場の脇の厩へ消えていく。 ミオは荷を足元に置き、噴水のへりに腰を下ろした。ノアが、その傍らに静かに立つ。


「……創像局か」

声がした。

噴水の反対側のへりに、一人、腰かけている人がいた。


ミオより少し年上だろうか。二十歳はたちくらいの女性だ。片膝を立て、頬杖をついて、暮れていく町を気だるげに眺めている。


「あ……はい。今日、着いて」

「そう」

彼女は制服を一瞥すると、興味なさそうに言った。

「また、来たんだ。今度は、何になるんだろうね。この町」

「えっと……」

ミオは口ごもった。今回の案件で、自分はただの見学に過ぎない。

「……ごめんなさい。私、まだ新人で、何も分からなくて」

彼女は、ぱちりと瞬きをして、それから、ふっと笑った。

「あんた、創像局の人間っぽくないね」

「……」

「ユナス」

「え?」

「あたしの名前。どうせいつもこの辺で暇してるし、また会ったら声でも掛けてよ」

その時。

「ミオ。待たせたな」

ライナスがセイルとともに戻ってきた。

ユナスは軽く手を振った。

ミオは荷を持ち上げ、小さく頭を下げると、ライナスと宿へ向かった。



宿に着くと、一人の男が待っていた。

「やあ、お疲れさま。遠かっただろう」

三十代半ば。明るい砂金色の髪に、澄んだ緑の瞳。

人を惹きつける、不思議な熱をまとった男だった。


噂の――セドリックだ。


星渡りで先に着き、下準備を進めていたらしい。

ミオが頭を下げると、男は柔らかく笑った。

「君が、ミオ・ヴェルナか。ノアに選ばれた新人の。……へえ」

その視線がノアへ移る。

人型のノアを認めた瞬間――笑みが、止まった。


「……ノア」

声色が変わっていた。

「久しぶりだね。人の姿の君を見るのは……三年ぶりか」

ノアは静かに一礼した。

「セドリック二級。ご無沙汰しています」

「相変わらず堅いな」

少し眩しそうに目を細める。

「二級、か。あの頃は、まだ肩を並べて現場を回ってた。あの人が見たら、なんて言うかな。……いや。きっと、喜んでくれるな」


ミオは、二人を見つめた。

ノアには、ミオの知らない時間がある。

知らない誰かと歩んだ、長い歳月がある。その“誰か”を、セドリックは慕わしげに「あの人」と呼んだ。


訊いてみたい。

けれど、今は訊けなかった。


セドリックが、ぱん、と手を打つ。

「さて。昔話はまた今度だ。今は仕事の話をしよう」

その足元で、白いてんが、細く長い体で、静かに座していた。セドリックの書庫精だ。マスターの砕けた調子とは裏腹に、置物のように動かず、赤みの澄んだ朱橙しゅとうの瞳で、じっとこちらを見ていた。


宿の一室に、書類が広げられた。

「道中で、概要は聞いてるね」

セドリックは卓に地図を広げ、淀みなく本題へ入った。

「二度刻んで、二度とも定着した。なのに、また忘霧が兆す。原因だけが分からない。……で、今回が三度目だ」

指で、地図を、とん、と叩く。

「勘違いするなよ、新人さん。僕らは調査に来たんじゃない。刻みに来たんだ。観測も行政との調整も済んでる。僕らは現場を見て、代表者と最終確認をして、本局へ創刻を申請する。許可が下りれば――創刻だ。」

「原因が、分からなくても……刻むんですか?」

つい、ミオは口にしていた。

セドリックは少し目を見開き、いっそう朗らかに笑った。

「いい質問だ。でもね――原因が分かるのを待っていたら、その間に、町は忘霧に飲まれてしまうかもしれない。分からないなら、分からないなりに、今できることをやる。刻んで、残す。それが、この国のやり方だよ」

少し間を置いて、続ける。

「もちろん、本局も、同じ町にそう何度も予算は投じられない。ロウレンへの大規模創刻は、今回が最後になる」


部屋が、しんと静まった。

それでもセドリックは、笑みを崩さない。

「そこで、暁星創像局の出世頭である僕の出番、ってわけさ」

ライナスが眉をひそめた。

「自分で出世頭とか言う奴、初めて見ましたよ」

「遠慮して『有望株』くらいにしとく?」

「そこじゃねぇです」

セイルが、小さく吹き出す。

「だからこそ、希望を込めよう」

反論の余地は、ミオにはなかった。

その隣で、ノアは何も言わず、静かに控えていた。


翌朝。現場の最終確認は、町外れから始まった。

観測櫓やぐらの立つ、町のいちばん端。そこで、ミオは足を止めた。 町の輪郭が、途切れている。人の絶えた区画の、その先に――白い霧が、音もなく、わだかまっていた。


(忘霧――。)


そこだけ、風がなかった。鳥の声も、人の気配も、匂いさえも、境の手前でふつりと途切れている。霧との境では、打ち捨てられた古い家々が、端から白く滲んでいた。屋根の角が、塀の線が、描きかけの絵を水で流したようにぼやけていく。手前には、創像局の封鎖柵だけが、場違いなほどくっきりと残っていた。

ミオは、息を呑んだ。 足がすくむ。 それでも、目は、白い霧を追っていた。


「観測部の資料は、頭に入れてきた。今日は、それを自分の目で確かめるだけだ」

ライナスが言った。

「創素濃度、忘霧の進行、地盤。――資料と違いがねぇか、一つずつ見ていくぞ」


その後、一行は町外れを歩き、観測地点を一つずつ巡っていった。

確認は、半日ほどで済んだ。 新しく掘り起こすことは、何もない。資料の「異常なし」を、追認していくだけだった。

「創素濃度、正常。忘霧の進行も、通常の範囲だ。妙な早さじゃねえ」

ライナスが低く唸る。

「資料の通り。……土地は、どこもおかしくねえ」

「創刻痕にも異常はありません。過去二度の定着記録とも一致します」

セイルが身を低くし、地面にそっと手をかざした。

「だろうね」

後ろで、セドリックが満足げに頷く。

「町と一緒に、立て直してきたんだ。それでも、また終わりへ還ろうとした。それだけの話さ」


何も間違っていないのに、結果だけが、おかしい。

セドリックは、それを迷いのない声で言ってのけた。


「土地が健全なら、三度目も刻める。――あとは、町の代表者たちと最終確認だ」 書類を束ね、立ち上がる。 「午後、集会所を借りてある。行こうか」



その日の午後、集会所には、町長や役場の職員、商人、農家――十数人の代表者が集まっていた。

進行は、セドリックが引き受ける。


「みなさん、こんにちは。創像局です」


人好きのする笑みで、場を見渡す。

集まった人々が、静かに頷き返した。

セドリックは、壁に掲げられた計画図の前へ歩み寄った。ロウレン全体の地図には、忘霧の進行区域に加え、新たな居住区や農地の整備計画までが、一目で分かるようまとめられている。

「まずは、現在の状況を確認しましょう」

図の北西部を指し示す。

「観測部の最新の調査でも、忘霧は北西部から、ゆるやかに進行しています。速度に異常はない。土地にも異常はなく、前回の創刻も正常に定着しています」

一度、言葉を切る。

「つまり、前回の創刻が失敗したわけではありません。それでも、忘霧は止まらない。だからこそ、今回はこれまでとは違う視点で町を見直しました」


指先が、図の中央へと移る。

「これまで二度の再興で、新たな住民を迎え入れることには成功しました。しかし、その多くは数年で町を離れています」

集まった人々を見渡した。

「問題は、人が来ないことではありません。人が、根づかないことです」

部屋に、静かな沈黙が落ちる。

「だから今回は、『暮らし続けられる町』を目指します。雇用、住居、地域とのつながりを含めた定住支援を柱とし、人が根づく仕組みそのものを刻む。それが第三次ロウレン再興計画です」


誰も、すぐには口を開かなかった。

「そうさねえ……」

やがて、パン屋の主人が、気を遣うように口を開く。

「創像局さんが、いいと思うなら。……大丈夫じゃないかね」

それを口火に、穏やかな相槌が、あちこちで、さざめいた。

「そうだな」「俺たちじゃ、もう分からんしな」

「前の時も、町は少し賑やかになったんですけどね」

「そうそう。祭りも久しぶりに盛り上がったしな」

「祭りなぁ。昔は毎年もっと賑やかだったがな」

「懐かしいねぇ……子どもらも、朝から走り回ってた」

「……あの頃は本当に活気があった」

反対の声は上がらない。けれど、賛成の声も続かず、話題はいつしか昔話へと移っていった。


「……まあ、創像局さんに、お任せしますよ」

誰かが、そう締めくくった。

「ありがとうございます」

セドリックは静かに頷いた。


ミオはレグルと設計した、あの橋を思い出す。

あのとき感じたものが、この部屋には、ない。


集会所の隅では、一人の老人が、何も言わず穏やかに会合を見守っていた。

ロウレンへ着いた日に、広場で見かけた老人だ。

やがて会合は終わり、人々は静かに席を立ち、集会所をあとにしていく。 老人もまた、杖を手に、静かに立ち上がった。


「あの……」

ミオは、その背中を呼び止めていた。

老人が振り返り、目尻の皺を深くする。

「おや。お嬢ちゃんも創像局かい」


名は、ガロ。若い頃は交易商として町を行き来し、ロウレンが最も栄えた時代を知る、この町でも古株の一人だった。

「はい。あの……少し、お話を聞いてもいいですか」

「おう、構わんよ」

「さっきの会合で……皆さん、反対はしていませんでした。でも、なんだか……」

ミオは、そこで口をつぐんだ。

「少し、気になってしまって」

ガロは、しばらくミオの顔を見つめ、静かに頷いた。

「創像局さんには、昔からよう世話になっとる。この町のために、何度も力を貸してくれた。みんな、感謝しとるよ」

その口調に、嘘はなかった。

「……ただねぇ」 ガロが、静かに息をつく。

「無理に、若いふりをさせられる年寄りみたいでね。見ているこっちが、少し、つらいのさ」

ミオは、何と言えばいいのか分からなかった。

「……それでも」

懸命に、言葉を探す。

「町が、このまま終わってしまうのは……」

ガロは目を細め、ふっと笑った。

「寂しいとも」 短く答え、窓の外に滲む夕焼けへ目をやる。

「けどなぁ……港は戻らんよ」


その一言は、不思議なくらい穏やかだった。

ガロは、それ以上は語らず、小さく会釈すると、集会所をあとにした。

その後ろ姿を、ミオはしばらく見送っていた。



宿へ戻ると、本局へ提出する設計書の、最終確認が始まった。

セドリックは卓いっぱいに設計図を広げ、細部を詰めている。 その隣に、もう白貂の姿はなかった。ほぼ白に近いプラチナの髪に、赤みの澄んだ朱橙の瞳。無機質なほど端正な女性――書庫精のネージュだ。

手には、真鍮のコンパス。表情は、動かない。


「過去二度の創刻記録との照合、完了しました」

ネージュが、抑揚なく告げる。

「第三次計画、最終案。定着率予測、過去最高値」

「上出来だ」

セドリックが図面を検分し、申請書へペンを走らせようとする。

「……あの」

気づけば、ミオは口を開いていた。

セドリックが、ペンを止める。

「うん?」

「本当に……これで、いいんでしょうか」

「“これ”っていうのは?」


ミオは、すぐには答えられなかった。

会合の静けさだけが、頭に残っていた。

「皆さん、反対はしていませんでした。でも……何か、大切なものが、噛み合っていない気がして」

言葉を探しながら、続ける。

「何が違うのかは、私にも分かりません。でも、このまま創刻して、本当に町は前へ進めるんでしょうか」

部屋が、静まり返った。

ライナスが、腕を組んで難しい顔をする。


(やってしまった……)


やがて、セドリックが小さく笑った。

「いいところを見てる」

思いがけない返事に、ミオは顔を上げる。

「正直に言えば、僕にも分からない。未来は、人の気持ちまでは設計できないからね」

静かに、設計図へ視線を落とす。


「だけど」

その一言だけは、迷いがなかった。


「ロウレンには、まだ人が暮らしている。店を開き、畑を耕し、子どもたちが笑っている。創像師が“何か違う気がする”っていう理由だけで刻むのをやめたら――その瞬間に、この町は本当に終わってしまうかもしれない」

穏やかな口調のまま、言葉だけが、少し熱を帯びた。

「今回が、ロウレンへの最後の大規模創刻だ。だからこそ、僕は中途半端な判断はしない。原因が分からないから申請しない――そんな結論を、本局へ持ち帰ることはできない」

ペンを、握り直す。

「統括として、この町を残せる可能性があるなら、それに賭ける。僕たちは、未来を刻めるんだ」

まっすぐ、ミオを見つめた。


「だったら、最後まで刻むよ」


やがてセドリックは、申請書を閉じ、ライナスへ差し出した。

「ライナス」

「はい」

「ロウレンの設計書は、君が上へ提出してくれ。許可は下りる。その後の現場監督も、君だ」

ライナスは、両手で受け取った。

「了解しました」

「僕は明日の早朝に発つ」

「本局へ?」

「いや、別件だよ」

セドリックは苦笑した。

「北部の開発区で、白源調査の立ち会いが入っててね。午前中だけ顔を出してくる」

「相変わらず、お忙しいことで。体、ひとつしかないの知ってます?」

「知ってるよ。だから星渡りがある」

「そういう問題じゃねぇんですが」

セドリックが、楽しげに笑う。


「じゃあ、ロウレンの件は頼んだよ」

「ええ」

その傍らで、セイルも静かに一礼する。

「お疲れさまでした、セドリック二級」

「ああ。君も、ご苦労さま」

いつの間にか、足元には、白い貂に戻ったネージュが座っている。

「ミオ」

「は、はい」

「今日のことは、あまり考え込みすぎないこと。創像師は、考え始めると眠れなくなる」

「……もう手遅れみたいですけどね」

ライナスが小さく息をつく。

ミオは、小さく苦笑した。 セドリックが、つられて笑う。それから、ノアへ目を向けた。

「ノア。よろしく頼むよ。……君が付いているなら、安心だ」

ノアは、静かに一礼した。 白い貂が、すっと扉の方へ向かう。

「じゃあ、また本局で」

セドリックは、ネージュを伴って部屋を出ていった。


足音が、廊下の向こうへ遠ざかる。

ライナスは、受け取った設計書を、革鞄へしまい込んだ。

「……ライナスさん」

「なんだ」

ミオは、小さく頭を下げた。

「すみません。失礼なこと、言ってしまって」

「あ?何がだ」

「セドリック二級が、みんなで考えてきた設計なのに……私、何も分からないまま、口を挟んで」

ライナスは、手を止めた。

「別に失礼じゃねぇ」

思いのほか、あっさりした返事だった。

「むしろ、前のお前なら、ああいう場で自分から口を開こうとはしなかっただろ。今日は、違った」

ミオは、目を瞬いた。

「現場じゃ、理屈で説明できねぇ違和感ってのは、案外ある。だから、全部切り捨てろとは言わねぇ。……だがな、俺は現場の創像師だ。申請が通れば、この設計で刻む」

そこに、セドリックのような熱はない。ただ、自分の役目を淡々と背負う者の声だった。

「……はい」

「今日はもう休め」

ぶっきらぼうに言い残し、ライナスはセイルとともに部屋を出ていった。

扉の閉まる音が、静かな部屋に響く。



自室に戻っても、眠気は訪れなかった。

窓の外で、ロウレンの灯りが、ひとつ、またひとつと揺れている。

ガロの言葉。セドリックの言葉。ライナスの言葉――。


やがてミオは、月白の装飾を宿した本を抱え、そっと部屋を出た。 夜風が、頬を撫でる。 足が向かったのは、昨日、ユナスと出会った広場だった。



月明かりの広場。水のない噴水のへりに、ユナスはいた。

石畳は夜露をまとい、広場には風の音だけが流れている。

「お、また会ったね」

ミオに気づいて、軽く手を上げる。

「こんばんは」

ミオは、少し離れて、へりに腰かけた。

「何? 夜の散歩?」

「えっと、少し、眠れなくて」

「ふーん。……なんか、考え事?」

気さくなその声に、つい、口が軽くなる。

「今回の、町の再興計画のこと……なんですけど」

少し迷って、尋ねた。

「ユナスさんは……この町が、変わっていくことを、望んでますか?」

軽かった空気が、ふと張り詰める。 長い、沈黙があった。


やがて、ユナスがフッと笑った。

「……分かんないな。変わってほしいのか、このままでいてほしいのか。でも」

少しずれた時を刻む時計塔を、見上げる。

「どっちにしたって、昔みたいには戻らないのにな」


――無理に、若いふりをさせられる年寄りみたいでね。

ガロの言葉が、静かに重なった。


「あたし、来月、この町を出るんだ」

ユナスが、ぽつりと言った。

「黎都へ行く」

「……そうなんですか」

「仕事だよ。この町にいたって、退屈だしな。黎都なら、やりたいことがたくさんある」

明るく笑いながら、ユナスは時計塔を見上げた。

「同じ年頃の奴は、みんなそうだ。町の再興を待つより、その方が手っ取り早い」

「……この町の年寄りはさ、みんな、昔の話ばっかりするんだ。港が賑わってた頃は、とか。あたしは、その頃なんて、知らないのに」

少し、声が低くなった。

「知らない“昔”を懐かしがれって言われても、困るだろ」

「ユナスさんは……この町が、好きじゃないの?」

「好きだよ」

間髪入れず、答えた。 ユナスは、もう一度、時計塔を見上げる。


「好きだから、出ていくんだ」


それ以上、ユナスは何も言わなかった。

ミオも、何も聞けなかった。 残ることを選んだ、老人。出ていくことを選んだ、若者。 向かう先は、正反対なのに――二人とも、どこか、同じ静けさの中にいる。


そのとき、ふいに、ミオは気づいた。

(……この町の人、誰も、“これから”の話をしてない)


「ほんと、変なやつだな、あんた」

迷子のような顔をしたミオを見て、ユナスが笑う。

「創像局のくせに、こんなとこで、ぼーっとして」

「……うん」 ミオは、素直に頷いた。

「行くよ。今度は、黎都でまた会ったら、声掛けてよね」

ユナスは軽く手を挙げ、月明かりの町へ帰っていった。


ミオは、腕の中の本を抱き寄せた。ユナスの足音は、やがて石畳の向こうへ溶けていく。広場には、風の音だけが残った。その静けさの中に、ミオは立ち尽くしていた。



黎都に戻って、数日が過ぎた。

報告書も補講も、いつも通りに流れていく。日常だけが、何事もなかったように過ぎていく。けれど、ロウレンのことを考えない日はなかった。


ある日の午後――宿舎の廊下で出くわしたライナスが、ミオを手招きした。

「ミオ。……ロウレンの件、決まったぞ」

心臓が、小さく跳ねる。

「申請が通った。俺は近いうちに、三度目の創刻をしに行く」

「……そう、ですか」

思ったより、声は小さかった。 ライナスは、少しだけ黙る。

「セドリック二級にも報告した。『これで本当に最後になればいい』とさ」

「……これで、よかったんですよね」

自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

ライナスは答えなかった。ミオの頭へ、ぽん、と手を置く。

「……考えとけ」

「え?」

「分からねぇなら、分からねぇまま持っとけ」

少し、間を置いて。

「捨てんな」 それだけ言って、廊下の向こうへ歩いていった。

ミオは、しばらくその場に立っていた。


これから、ロウレンは三度目の未来を刻まれる。


終わらない町として。

――終われない町として。


「ノア……」 隣に佇む半身へ、声を掛けた。

「私、おかしいのかな。創像師は、未来を刻むのが仕事なのに。刻むことで、救われる人たちがいるのに――」

気づけば、制服の裾を握りしめていた。

「もし私だったら……刻みたいって、思えなかった」

ノアは、しばらく何も言わなかった。

やがて、静かに言う。

「私は、あなたを選びました。」

その一言に、ミオは息を呑む。


「だから私は、あなたの見たものを信じます」


短い言葉だった。けれど、その眼差しに、迷いはなかった。

ミオは、小さく笑った。 張りつめていた肩の力が、少しだけ抜けていく。

「……そっか」

ぽつりと、呟いた。

「ありがとう」

「はい」


ノアが、静かに頷く。

ミオは、制服の裾から、そっと手を離した。

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