規則は守るために
研修生としての日々は、慌ただしく過ぎていった。
今日も、窓から差し込む暁星の眩しい朝日に、ミオは顔をしかめて目を覚ました。
ひと月前に配属された、黎都創像局の新人宿舎。
ようやく慣れてきた硬めのベッドの上で、深緑色のくせ毛をさらにひどく跳ねさせたミオは、隣のサイドテーブルを指先で探った。
そこには、月白の装飾が施された、手触りの良い一冊の「本」が、静かに置かれている。
「……ん……おはよう、ノア」
掠れた声で呼びかけた瞬間、装飾が微かに光を放ち、本の輪郭が粒子となって宙へ解けはじめた。光の渦が瞬時に実体化し、彫刻のように端正な青年の姿を結ぶ。
ノアは、枕元で眼鏡を探るミオを静かに見つめた。
「おはようございます、ミオ。起床予定時刻を、十二分過ぎています」
枕元に転がった大きめの丸眼鏡を迷いなく拾い上げ、呆然とするミオの鼻先へ差し出す。
「まずは視界を確保してください。それから、その鳥の巣のような頭を整えるべきです。……今日も、あなたのポケットの『ガラクタ』を整理する時間は、なさそうですね」
「あ、ありがとう……。でもガラクタじゃないよ、小さな宝物たちなんだから」
ミオは丸眼鏡をかけ直し、へへっと笑った。
照合式の静寂をぶち破って滑り込んだ、あの「伝説の遅刻」から一ヶ月。
三年間、誰とも契約しなかった孤高の知が、なぜ自分を選んだのか、理由はまだ分からない。 それでも、この冷涼な半身との凸凹な朝は、すでにミオの日常になっていた。
*
朝の食堂。
こっくりとした橙色の南瓜スープを啜るミオの周囲で、同期の新人たちの声が飛び交っていた。昨日の訓練の話、書庫精との同調の話、憧れの創像師の話。どれも弾んでいる。
けれど、ミオの席だけが、少し静かだった。
ミオの興味は、いつだって、人より少しだけ別の場所にある。
今気になっているのは、スープの中の豆だ。
昨日、訓練場の隅で見つけた種と、形がよく似ている。その小さな発見のほうが、無理に輪へ入るよりも、ずっと魅力的だった。
「ねえノア、この豆の形、昨日訓練場で見つけた種に似てない?」
「ミオ、朝食に集中してください。制服の袖が、スープに浸かりそうですよ」
「……ノアってなんか、お母さんみたいだね」
「お母さん、ですか」
ノアは、白銀の髪を揺らした。
「私の記録の中の母親とは、若干異なるようですが。マスターの身の安全を確保し、その尊厳を守るのも、書庫精としての重要な責務ですから」
淡い金色の瞳で甲斐甲斐しく世話を焼くその姿へ、食堂のあちこちから、密やかな眼差しが注がれている。 ミオがふと顔を上げると、ノアを見つめていた女の子たちと目が合った。彼女たちはバツが悪そうに顔を背け、去っていった。
食後、器を片付けて食堂を出たところで、よく通る声が飛んできた。
「おい、遅いぞ。いつまで新人気分でいやがる」
ライナスが、腕を組んで壁に寄りかかっていた。
その傍らには、蜂蜜色の柔らかな髪をなびかせた青年が、穏やかな微笑みを湛えて立っている。
「おはよう、ミオさん。今日は一段と、ポケットが『重力』に逆らっていますね。また何か見つけたんですか?」
髪と同じ色の瞳を細めたのは、中性的な柔和さを持つライナスの書庫精、セイルだ。
研修で顔を合わせるたびフォローしてくれる彼は、ミオにとって「もう一人の指導役」になっていた。 しかも、優しい。
「ライナスさん、セイルさん、おはようございます。これ、昨日見つけた変わった石なんですけど……」
ミオがポケットへ手を伸ばすより早く、 ライナスが遮る。
「ストップ! ……セイル、こいつにガラクタ自慢をさせるんじゃねえ。行くぞ、今日は現場見学だ」
*
「現場見学」の行き先は、都の東。
創像局が「第三開発区」と呼ぶ広大な土地だった。
暁星王国の東の先端にあるその一帯までは、宿舎からそれなりの距離がある。
「本来なら」
ライナスが歩きながら言った。
「俺とセイルだけなら、星渡りでひとっ飛びだ。半刻もかからん。……だが、今日はお前がいるからな」
「私がいると、ダメなんですか?」
「飛べねえ奴を抱えて長距離を飛ぶほど、俺の同調は安くねえ。新人の付き添いは、地道に地上を行くのが規則だ」
そう言い肩をすくめる。
「創像局の馬車を出す。文句はねえな」
一行は馬車に乗り込み、大通りを東へ向かった。
車窓の外では、黎都の朝が、もう全力で動いている。荷を積んだ馬車、足場の組まれた建物、図面を抱えて走る職人たち。通りの先では、つい先月まで空き地だったはずの場所に、真新しい市場が立ち上がっていた。
「相変わらず、せっかちな都ですね」
ノアが車窓を眺めたまま、淡々と言う。
「百年前の地図なんて、半分は役に立ちません。創って、栄えて、忘れて、また創る。暁星は、そういう国です」
ミオも、知ってはいた。──暁星は、五王国でいちばん発展した国。創像師の数も、創刻の数も、世界一多い。
けれど教科書で覚えた知識と、車窓を流れる埃と熱気と槌の音は、まるで別物だった。 創るために、この国は次々と古いものを手放していく。
『創るために忘れる国』。
誰かがそう呼んでいた意味が、少しだけ分かった気がした。
「しかも今年は、白潮の年だ」
前の座席から、ライナスが言った。
「十年に一度だからな。海から白潮が迫って、創刻できる窓は一年きり。開発区はどこも、書き入れ時だ」
「……だから今年は、新人研修も現場が多いんですね」
「ああ。白潮の一年は、創像師にとって一番忙しい」
せっかちな地上の喧騒の、さらに上を、影が一つ、すっと横切った。 青い空を、一人の創像師が飛んでいく。
星渡りだ。
通りでは、子どもたちが歓声を上げて指をさしていた。 ミオは、その群れに、幼い頃の自分を重ねた。空をゆく創像師を見上げては、いつか自分も、と焦がれる子ども達。その一人が、今は憧れた制服を着て、半身まで隣にいる。
だけど――ミオは、ちらりとノアを見た。
「ねえノア。私、いつになったら飛べるのかな」
ノアは、すぐには答えなかった。
「……まだ、です」
やがて、淡々と。
「飛ぶには、私とあなたの“同調”が要ります。今のあなたは、私と呼吸ひとつ、満足に合わせられないでしょう」
「うっ……分かってますけど」
ミオは唇を尖らせ、それでも、車窓の空の一点を、もう一度だけ見上げた。
憧れは、子どもの頃と同じ高さにある。ただ、近づいたぶんだけ、届かないもどかしさも、はっきりした。
ノアは何も言わず、その横顔を静かに見ていた。
*
やがて馬車は、開発区の手前で停まった。
「降りるぞ。ここからは歩きだ」
ライナスを先頭に、一行は土の道を歩き出す。進むほどに、街の賑わいが、後ろへ遠ざかっていった。
「ミオ。歩きながらでいい、言ってみろ」
前を行くライナスが、振り返りもせずに言った。研修担当の、いつもの抜き打ちだ。
「創刻案件の流れ。大規模のやつだ」
「えっと……観測部が白源を見つけて、創素濃度とか定着率を測って。計画書を作って、本局の審査を通して……国家規模の案件なら、最後に国王の承認を得る。そしたら創刻して、そのあと定着観測。揺らぎが出たら修復、ひどければ……白化……です」
「まぁ、順番は合ってる」
ライナスが短く認めた。
その横で、セイルが穏やかに付け足す。
「ミオさん。教科書だと『創刻=白源に未来を刻むこと』と一行で済みますけど。現場だと、創像師が刻むのは“土台”だけなんですよ」
「土台?」
「ええ。創像師は、街そのものを建てるわけじゃない。『ここはこういう未来になれる』という可能性を、白源に定着させる。あとは──」
「あとは、職人や住民が育てる」
ミオが引き取ると、セイルは嬉しそうに目を細めた。
「正解です。だから創像師は、家を建てる人じゃなくて……可能性の余白を、置いてくる人なんです」
「さっきの順番で言えば、計画前の、行政や住民とのやり取りが抜けてるってこった」
「なるほど……」
可能性の余白。
その言葉が、ミオの中に残った。
やがて、街の喧騒が、完全に途切れた。
開発区の縁。柵と観測櫓の向こうに、それはあった。
白源。
異様に濃い、白い霧。
風が吹いても揺らがず、底も奥も見通せない。世界の果てからやってきた“まだ何も刻まれていない余白”──原霧だ。
霧の手前には観測機器が並び、幾人もの観測員が作業していた。そして創像師と見られる数人は、書庫精とともに縁に立っている。 誰も、霧の中へは入らない。入って帰った者は、一人もいないから。
ミオの足が、止まった。試験のとき遠目に見た白源より、ずっと近い。
「……ミオ?」
ノアが、静かに呼ぶ。
返事はない。
ミオの琥珀色の瞳は、ただ白源だけを映していた。
「柵を越えるなよ。見るだけだ」
ライナスが釘を刺した。
「今日は灌漑案件の見学だ。下流の農地を広げるための、新しい水路の未来を刻む。担当はうちじゃない。お前は、後ろで手順を見て覚えろ」
縁では、ベテランらしき創像師達が、手をかざしていた。手のひらに淡い光が灯り、霧の表面へ、見えない設計図を描くように、すうっと線が引かれていく。
観測員が数値を読み上げる。
「定着、開始。揺らぎ、許容範囲内」
やがて霧の一部が薄れ、その奥に、まだ輪郭の曖昧な水路の“予感”が現れた。
──まだ水も土もない。ただ「ここに水路が生まれる」という未来だけが、置かれる。
すごい、とミオは素直に思った。
けれど。
「……ライナスさん」
声が、無意識に低くなる。
「あの水路、ちょっと違う気がします。こっち──南に、曲がりたがってる」
近くにいた観測員の一人が、ぴくりと眉を上げた。
まだ階級も持たない研修生の、それも例の問題児の言葉だ。
「根拠は」
ライナスが聞く。
「分かりません……けど」
フン、と観測員が鼻で笑った。
その時だった。
ミオの耳にだけ、白源が低く唸る音が聞こえた。
その音に、胸の奥が、ドクン、と跳ねる。
(……来る)
「どうかしましたか」
ノアが名を呼ぶ。
理由は、分からない。
けれど身体が、勝手に動いた。
「お、おい!?」
「ミオ!」
ライナスとノアの声が、同時に背に飛ぶ。
ミオは、柵を飛び越えていた。
次の瞬間、観測機器が甲高く鳴った。
設計通りに刻まれた未来の線が、嫌がるように、南へ南へとよじれていく。
そして──白い霧の境界が、呼吸をするように膨らんだ。 かと思うと、地面を這い、霧がこちらへせり出してきた。 境界線が、消える。
「境界が揺れる! 全観測員は退避してください!!」
緊迫した声が飛ぶ。
だが、境界際で機器を操作していた若い観測員が、それを守ろうとした一瞬の遅れで、その場に取り残された。波打った白い霧が、彼の足元へ迫る。
「危ないっ!」
一直線に駆けるミオへ、ライナスが叫んだ。
(届いて……!)
白い霧へ呑まれかけた観測員の腕へ、必死に手を伸ばす。 その瞬間、ミオの手の甲に刻まれた星形の紋章が、本人さえ気づかぬほど淡く、一瞬だけ瞬いた。
世界が、ほんの刹那、遅くなる。
波打つ境界の動きが鈍り、ミオの指先が、若い観測員の腕を掴んだ。 二人はそのまま、地面へ転がり込む。背後では、数人の創像師が一斉に手をかざしていた。
「南側を固定!」
「定着率、回復!」
「境界を押し戻せ!」
白い霧は激しく波打ちながらも、創刻によって、徐々に静まりはじめる。
やがて境界は、何事もなかったように、静寂を取り戻した。
観測員が、荒い息を吐いて座り込む。
「……た、助かった……」
震える声だった。
「君が来てくれなければ、私は……」
最後まで、言葉にならなかった。
「白化は回避しました!」
「定着率、回復しています!」
「間に合ったか……」
誰かが、深く息を吐く。
そこへ、ライナスがやって来た。その表情は、怒りに染まっている。
「──この、馬鹿野郎が!!」
怒号が、現場に響いた。
ミオは、びくりと肩を震わせる。
「何やってんだお前は! あと一歩で白源に飲まれてたんだぞ!!」
「で、でも……」
「でもじゃねぇ!」
そこへ、助けられた観測員が、まだ息を整えながら口を開いた。
「ま、待ってください! その子を責めないでください。私が逃げ遅れたんです。この子が来てくれなければ、私は今ごろ白源に──」
「だからだ」
ライナスの声は、低かった。
「だから、叱ってる」
観測員が、言葉を失う。
ライナスは、ミオだけを真っ直ぐ見据えた。
「結果論で語るな」
「……」
「助かった。そりゃ結構だ。だが、お前が白源に呑まれてた可能性も、同じだけあった」
「……」
「お前が無茶をすれば、ノアも巻き込まれる。現場の創像師も、お前を助けるために動かなきゃならねぇ。規則ってのはな」
ライナスは、静かに言った。
「お前みてぇな馬鹿が、死なないためにあるんだ」
ミオは口を開かなかった。
けれど、胸の奥が、もやもやと重い。
助けたのに。
間違っていなかったはずなのに。
その沈黙へ、そっと声が差し込まれた。
「……ライナス」
セイルだった。
蜂蜜色の瞳を、ミオへ向ける。
「彼女が飛び出したのは、観測機器が警報を鳴らす前です」
ライナスが眉をひそめた。
「……ああ」
少し間を置き、セイルは続けた。
「だからこそ、不思議なんです」
現場の創像師たちも、観測員も、自然とミオへ視線を向ける。
ライナスが、低く尋ねた。
「……おい、ミオ」
「は、はい」
「なんで分かった」
「え……?」
「警報は鳴ってなかった。境界も、まだ揺れてなかった」
ライナスは、真っ直ぐミオを見る。
「お前は、何を見た」
ミオは、困ったように丸眼鏡を押し上げた。
幼い頃から、説明のできないこの感覚。
「……分かりません」
「……」
「ただ、白源が、急に低く唸った気がして……なぜだかとても……危険だと思って」
その場が、静まり返る。
誰一人、そんな音は聞いていない。
「……私は、その音を認識していません」
ノアはそう言って口を閉じた。
ライナスはしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「わかった……その話は、後だ」
再び、ミオを睨みつける。
「だが、無断で現場に飛び込んだ件は別問題だ」
「……はい」
「反省文だ。五枚」
「ご、ごま──」
「十枚でもいいぞ」
「五枚でお願いします……」
現場の緊張が、少しだけほどけた。
何人かが、思わず苦笑する。 が、ライナスだけは、笑わなかった。
(……白源が、唸った)
その一言は、彼のこれまでの経験を、覆すに足るものだった。
ノアが、音もなくミオの隣に立つ。
「無茶を、しましたね」
「……うん。怒られちゃった」
「ええ。ライナスが正しい」
白銀の髪が、霧の光に淡く滲む。
「ですが──あなたが、誰かを助けようとして手を伸ばしたこと。私は、記録しておきます」
ミオは、ノアを見上げた。
それから、泥だらけのまま、少しだけ笑った。
立ち上がりざま、足元で何かが目に入った。
揺らぎの去った地面に、小さな白い石が転がっている。さっきの騒ぎで、霧の縁から弾かれたものだろうか。ミオは反射的にそれを拾い、ポケットへ突っ込んだ。
そのとき、指先に、ほんの微かな違和感が走った。 この石の落ちていた辺り──いや、この開発区そのものが、どこか。 “まだ何も刻まれていない”はずの原霧なのに。
どこか、古い。
真っ新なはずの白い紙に、何かを書いて、消しゴムで強く消した跡だけが、うっすら残っているような―― うまく、言葉にならない。
ただ、ざらりとした引っかかりだけが、指先と胸の奥に残った。
「……気のせい、かな」
ミオは丸眼鏡を押し上げ、首を傾げた。
その違和感が何なのか、まだ彼女に言葉にできるはずもなかった。




