第2話 全肯定と戸惑い
白い空間には、妙な静けさがあった。
無音、というわけではない。
完全な無音なら、むしろ耳鳴りでもしそうなものだ。
だがここには、そうした現実的な気配の代わりに、『何も邪魔しない沈黙』だけが広がっている。空気の流れも、遠くの話し声も、機械の駆動音もない。ただ、自分と、目の前の女神と、本一冊分の距離だけがくっきり切り出されている。
フィレイアはその静けさの中心に立っていた。
白い衣。
淡い髪。
眠たげで、気怠くて、いまにも「本題はまだなの」とでも言いそうな顔。
知識の女神。
転生の案内役。
そして何より、平助の倫理観を根本からぶち壊しかねないほどに、性癖へ危険な角度で刺さってくる存在。
平助は自分の両手を、なんとなく腹の前で組んだ。
変な宗教勧誘に来た人みたいな姿勢だな、と内心で思う。実際、気持ちの向きとしてはかなりそれに近かった。いまの彼は、フィレイアという存在に対して、あまりにも都合よく心を揺さぶられている。
だが、揺さぶられているのは平助だけではないのかもしれなかった。
フィレイアは平助を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……本当に、転生する前からそういう目で人を見るの?」
声は相変わらず低い。
落ち着いている。
責めているというより、純粋に理解不能なものを前にした時の確認に近い響きだった。
平助は一瞬、自分がどういう目をしていたのか考え、やめた。
考えるまでもなく、かなりまずい目だったに違いない。司書お姉さんを初めて見た時と同じような、いや、それ以上に『構造を見つけた』人間の目をしていたはずだ。
「すみません」
「謝るくらいなら少しは隠して」
「善処します」
「いまの言い方、たぶんしない人のそれね」
よかった。
と、平助は思った。
この人、ちゃんと軽く刺してくる。
ただ呆れるだけではない。
露骨に怒るでもない。
わずかに眉を寄せて、必要な分だけ釘を刺して、でもそれ以上は本気で感情を荒立てない。
その温度管理が、実に良い。
いや違う。
いま大事なのはそこではない。
平助は小さく咳払いをした。
司書お姉さんを前にしていた時にも何度かやった、気持ちを落ち着けるための癖である。目の前にいるのが司書ではなく女神に変わってなお同じことをしているのだから、人間の本質というものはそう簡単に変わらないらしい。
「それで」
フィレイアが言う。
「話を進めてもいい?」
「はい」
「あなたは死んだ。これから転生する。その前に、いくつか確認と説明をする必要がある」
「はい」
「ただし、念のため言っておくけど」
そこで彼女は、ほんの一瞬だけ言葉を切った。
切って、視線を少し逸らす。
たったそれだけの動きに、平助の胸の奥が妙にざわついた。
なんだ。
いまの間は。
知識の女神が、転生者相手に説明をする。
それだけなら、もっと機械的に進めてもいいはずだ。
なのに、いま彼女はほんの少しだけ、言い淀んだ。
言葉を選んだように見えた。
「私は、他の女神たちみたいに気が利かないし、見た目も、能力も……その、華やかじゃないから」
「…………」
平助の思考が止まった。
止まって、次の瞬間、ものすごい速度で逆回転を始めた。
何を言った。
いまこの人は何を言った。
見た目も、能力も、華やかじゃない。
つまりそれは、自分は他の女神に比べて劣っている、と。
そういうことか。
そういうことなのか。
この、ここに立っている、知識の気配をまとった、眠たげで、気だるくて、明らかに主役めいた方向には自分を振らない女性が。
自己評価が。
低い。
平助はその場で数秒、完全に呼吸を忘れた。
いや、違う。
忘れたのではない。
もっと危険なものが胸の内側からせり上がってきて、呼吸の優先順位を上回ったのだ。
自己肯定感の低さ。
その言葉は一般に、繊細さとか、生きづらさとか、そういう切実な文脈で語られる。
そして実際、平助にだってその苦しさくらいは分かる。
自分を大きく見せない。
期待しない。
最初から少し引いている。
傷つく前に『どうせ自分なんて』と予防線を張る。
そういう人間のいじらしさと痛ましさを、彼は何度だって見てきた。
だが。
それが。
それが、このフィレイアという女神に乗ると、どうなるか。
致命傷である。
自己肯定感の低さが、エッチだった。
もちろん、肌の露出とかそういう話ではない。
そんな安い意味ではない。
もっと根源的で、もっと人格の奥に触れる種類の色気だった。
自分は前に出るほどではないと思っている。
他の華やかな女神に比べれば、自分なんて、とどこかで思っている。
でも本を読ませればきっと誰より深く、知識の話をさせれば静かに長く続けられて、必要とされればきちんと仕事をする。
そういう『能力はあるのに、自分の見せ方を知らないまま引いた位置に座っている女性』が、平助の前に現れてしまったのだ。
終わりである。
フィレイアは平助の沈黙をどう受け取ったのか、小さく眉を下げた。
「……やっぱり、拍子抜けした?」
「は?」
「もっとこう、神々しいのを想像してたでしょ」
「いや」
「だって、普通はそういうものじゃない」
「いやいやいやいや」
平助の口が勝手に動いた。
もう駄目だった。
理性の制御が追いつかない。
司書お姉さんを前にした時よりひどい。
あの時はまだ現実社会の柵があった。図書館のマナーも、カウンター越しの距離も、一般市民としての仮面もあった。
だがいまはどうだ。
死後の白い空間である。
しかも目の前の女神が、自分は他の女神より見た目も能力も地味だなどと言っている。そんなもの、爆発するに決まっている。
「ちょっと待ってください」
「待つけど、何」
「それは、違います」
「何が」
「いまの認識の全体が」
「全体……?」
フィレイアが少しだけ身構えた。
ほんの少しだけ。
そのわずかな警戒がまたよくなかった。
ああ、この人、自分がこれから何を言われるのか分からなくて、でも面倒な予感だけはしてるんだな、という感じが伝わってくる。
最高か。
いや違う。
いまは違う。
平助は一歩、前へ出た。
フィレイアが反射で半歩引く。
その『引き方』がまた、ものすごく良くて、平助は危うく本題を見失いかけた。自分から前へ出ず、むしろ距離が詰まると少しだけ引く。この『主役の女』では絶対にやらない微細な自己防衛の仕方。たまらない。
だが、ここでたまらないとか言っている場合ではないのだ。彼には、いま、この女神の自己評価の低さを本気で訂正する義務がある。
「フィレイアさん」
「……なに」
「まず、『華やかじゃない』は褒め言葉です」
「は?」
「そこをマイナスに置いている時点で、だいぶ危ういです」
「待って。いきなり理解不能」
「理解可能です。します。させます」
「させる、って何」
平助は構わず続けた。
「華やかさって、主役が持ってればいいんですよ」
「何の話をしてるの」
「物語の構造の話です」
「急に大きくなったわね」
「大きい話ですから」
フィレイアが明らかに困惑している。
困惑しているのに、露骨に遮ってこない。
ここも良くない。
相手の話を切るのは面倒、でも全部聞きたいわけでもない、という人特有の受け身感がある。
その受け身自体が、また自己肯定感の低さに繋がっていて、もう本当に危険だった。
「見た目も能力も華やかじゃない、っておっしゃいましたよね」
「ええ、言ったけど」
「そこに、控えめな自己認識と諦めがにじんでいる」
「そんな分析いらない」
「いります。すごく」
「いらないわよ」
「いえ、必要です。これは今後の転生手続きに関わるので」
「絶対に関わらない」
平助はそこで、すう、と息を吸った。
ここから先は熱だ。
熱で押し切るしかない。
なぜなら彼は、司書お姉さんを前にした時もそうだったように、こういう『自分を低く見積もる側の女性』に対しては、もう理屈と本能の両方で止まれない人間だからだ。
「いいですか」
「よくない」
「よくなくても聞いてください」
「面倒」
「そこです」
平助は指を差しかけて、やめた。
死後空間の女神に指差し確認するのはさすがに品がない。
代わりに拳を握る。
「その『面倒』って感じ」
「感じ……?」
「はい。良いです」
「何が」
「全部です」
「何も分からない」
フィレイアが本気で引き始めた。
だがもう止まらない。
「まず、見た目の話をしましょう」
「したくない」
「そこからしか始まりません」
「最低」
「褒め言葉として受け取ってください」
平助は続ける。
「フィレイアさんは、いわゆる主役系の美ではない」
「それ褒めてる?」
「最高に褒めてます」
「いまのところ一ミリも信用できない」
「でも整ってる。すごく整ってる。しかも見れば見るほど分かるタイプだ」
「……」
「これが重要なんです」
「重要なんだ」
「一目で分かる美は、物語の中央に置かれやすい。けれど、見つけた人間だけが分かる美は、もっと深く刺さる」
「刺さらなくていいのでは」
「刺さるんです。こっちは」
「そう」
フィレイアの返事がどんどん乾いていく。
だが平助にとっては、その乾きすら燃料だった。
「それに、目元」
「目元?」
「すごくいい」
「急に雑」
「雑じゃないです。その少し眠たげで、世界に対して本気を出してない感じ」
「本気を出してないわけじゃない」
「分かります。分かりますよ。そこがまたいい」
「分かられたくない」
「たぶん本気を出す場所が限定的なんです。知識とか、本とか、そういうものにだけきちんと熱量が向く。それ以外には過剰な愛想を振らない。必要がないから」
「…………」
そこでフィレイアが、わずかに目を逸らした。
それを見た瞬間、平助の胸の中で、何かが決定的な音を立てた。
当たっている。
たぶん、今のは当たっている。
自分の本質を、こんなふうに言い当てられたことがあまりないのだろう。
だから反論できない。
反論できないくせに、認めるのも少し嫌で、視線だけが逃げる。
その仕草が、どうしようもなく、いじらしかった。
ああもう、本当に。
自己肯定感の低さって、こんなにエッチなんだな、と平助は思った。
もちろん、その低さそのものを消費して喜びたいわけではない。苦しさも痛ましさも分かる。分かるのだ。
だが同時に、『自分を主役と思っていない女性が、実はちゃんと魅力的で、でもそのことをあまり知らずに生きている』という状態そのものが、彼の魂に深く刺さってしまうのだから仕方がない。
「それから能力」
平助は続けた。
「知識を司る女神なんですよね」
「そうだけど」
「だったら十分すぎるでしょう」
「他の女神はもっと分かりやすい力を持ってるの」
「たとえば?」
「美とか、勝利とか、豊穣とか」
「ああ」
なるほど、と平助は思う。
たしかに分かりやすい。
美は一目で分かる。勝利は結果が見える。豊穣も実りとして現れる。
それに対して知識は、地味だ。
即物的ではない。
じわじわ効く。
持っていても、知らなければ価値が分からない。
だが。
だからこそ。
「最高じゃないですか」
「何が」
「知識ですよ」
「だから、地味だって」
「そこです」
「またそこなの?」
「地味だからいいんです」
平助は、ほとんど確信に満ちていた。
「目に見える華やかさは、最初から注目を集める。でも知識は違う。表に出ない。ぱっと見では分からない。けれど、時間をかけて触れた人間だけが、その深さに気づく」
「……」
「つまり、知識を司る女神っていうのは、最初から主役として祭り上げられる存在じゃない。むしろ、気づく側に見る目が必要な存在なんです」
「……それ、全然嬉しい説明に聞こえないのだけど」
「嬉しいです。すごく」
「あなただけでしょう」
「ええ。だから十分です」
「十分じゃないわよ……」
フィレイアが、ほんの少しだけ声を強めた。
珍しい変化だった。
あからさまに怒鳴るわけではない。
だが、普段より一段高い。
照れと困惑と苛立ちが全部混じっている。
良い。
本当に、良い。
平助は、そこでとどめを刺すように言った。
「フィレイアさんは、自分が前に出るタイプじゃないでしょう」
「……そうね」
「でも、知識を与える側なんですよね」
「ええ」
「それって、自分が表に立たなくても、誰かの世界を根本から変える位置にいるってことじゃないですか」
「……」
「主役の隣で、一番深いところを支える役目って、最高に美しいですよ」
静寂が落ちた。
白い空間の中で、フィレイアは動かなかった。
平助も動かなかった。
数秒。
あるいはもっと長かったかもしれない。
時間感覚が曖昧になるほど、空気がじっとりと張った。
フィレイアの頬が、ほんの少しだけ赤いことに、平助はそこでようやく気づいた。
あ、と思う。
もしかして。
いや、もしかしなくても。
効いている。
効いているのだ。
この、自己肯定感の低い、知識の女神に。
自分を『華やかじゃないから』と言って一歩引いた場所へ置いていた女性に。
その控えめさこそ美しいのだと、しかもかなり本気の熱量で断言する変態の言葉が。
効いている。
その事実に、平助の胸の奥が、ひどく熱くなった。
フィレイアは唇を少しだけ開いて、それから閉じた。
言い返したいのか、呆れたいのか、そもそもどう反応していいのか分からないのか、その全部が混ざったような顔をしている。
そして結局、彼女がようやく絞り出したのは、ひどく小さな一言だった。
「……変」
「はい」
「気持ち悪い」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知ってます」
そこでフィレイアは、完全に言葉を失ったように目を伏せた。
耳まで少し赤い。
やばい。
と、平助は改めて思った。
これはやばい。
自己評価の低さ。
その低さを真正面から肯定されて、困り果てて、でも完全には突っぱねきれない反応。
しかも知識の女神。
本好き。
気だるげ。
地味寄り。
主役の真ん中より、隅で静かにしている方が似合う。
完成している。
これはもう、かなり完成度が高い。
平助は自分の鼓動が妙に速いことを自覚しながら、それでも口を止められなかった。
「あと、さっきから思ってたんですけど」
「まだあるの?」
「あります。かなり」
「……聞きたくない」
「聞いてください」
「どうして……」
「大事なので」
フィレイアはもう露骨にうんざりした顔をした。
だが逃げない。
その逃げない感じもまた、たぶん彼女の性質なのだろう。面倒でも、完全に放り出せない。言葉を受け取ってしまう。知識の女神だからなのか、単に性格なのか、そのどちらにせよ相当に危うい。
「さっき『他の女神より見た目も能力も』って言いましたよね」
「言った」
「比較対象が他の女神って時点で、基準がだいぶおかしいです」
「……」
「それ、学年主席の集まりの中で『私なんて普通だし』って言ってるようなものですよ」
「そんなつもりじゃ」
「つもりじゃなくても、です」
「……」
「しかも自分の良さを、自分で一番雑に扱ってる」
「雑に……」
「はい。かなり」
「そんなことないわ」
「あります」
平助は、そこで少しだけ声を落とした。
「そういう、自分の価値を信じきれない感じ」
「……」
「ものすごく、いじらしいです」
フィレイアの肩がぴくりと揺れた。
「いじらしいって、なに」
「そのままの意味です」
「どういう意味で使ってるの」
「良い意味です」
「信用できない」
そのやりとりが、妙に楽しかった。
死んだばかりだというのに。
司書お姉さんを庇って人生を終えた直後だというのに。
それでもいま、自分はこの女神と言葉を交わし、そのたびに彼女の反応一つひとつへ心を動かされている。
最低だろうか。
たぶん、最低なのだろう。
でも同時に、平助はどこかで思っていた。
これは、司書お姉さんを忘れたとか、薄れたとか、そういうことではない。
むしろ逆だ。
あの人を好きだったからこそ、その系譜のもっと深い場所にいる存在へ、こんなにも強く反応してしまう。
知に寄り添う女性。
前へ出ない女性。
自分の価値を少し低く見積もる女性。
でも、ちゃんと見れば、ものすごく綺麗で、ものすごく深い。
平助にとって、それはもう、抗いようのない美だった。
フィレイアは長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……あなた、今までどうやって生きてきたの」
「わりと普通に社畜を」
「そういう意味じゃなくて」
「……そういう意味なら、かなり不器用に」
「でしょうね」
その返しが、ひどく優しかった。
いや、優しいというのとも違う。
断罪でも嘲笑でもなく、ただ『ああ、そういう人なのね』と受け取った声。
平助はそこで、不意に胸の奥が少しだけ静かになるのを感じた。
フィレイアは本を抱え直す。
「……少し、座る?」
「え」
「長くなりそうだから」
「長く……」
「あなたが」
「それは」
「否定しないのね」
「できません」
フィレイアはまた小さく溜息をついて、椅子の隣へ視線を向けた。
気づけば、いつの間にかもう一脚、似たような椅子がそこにあった。
知識の女神の白い空間。
静かな椅子。
本を抱えた気だるげな女性。
そして、その低い自己肯定感を前に、変態的な熱を抑えきれなくなっている死んだばかりの男。
あまりにもろくでもない光景なのに、どうしてこんなにも妙に美しいのか、平助にはもう分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この話は、まだ終わらない。
むしろ、いま始まったのだ。




