第3話 三日三晩、あるいは祝福の拷問
白い椅子は、見た目より座り心地がよかった。
沈み込みすぎず、硬すぎず、背を預ければきちんと支えてくれる。
装飾の少ない造りのくせに雑ではない。必要なものだけが過不足なく揃っている感触だった。
なるほど、と平助は思う。
この空間の趣味は、たぶん全部フィレイアに寄っている。
華美ではない。
分かりやすく豪奢でもない。
だが、よく見れば細部の整い方に異常なくらい気が配られている。
声高に価値を主張しないくせに、触れれば分かる。使えば分かる。そういうものだけで構成されている。
良い。
とても、良い。
知識の女神が住まう白い空間が、見た目のインパクトではなく、じわじわと『分かる人間には分かるよさ』へ寄っているのは、かなり高得点だった。
主役の舞台装置ではなく、静かな副読本の装丁みたいな美しさ。
ここまで来ると、空間設計そのものがモブヒロイン的ですらある。
平助がそんなことを考えている間に、フィレイアは向かいの椅子へ座り直し、本を膝に置いた。
逃げるつもりはないらしい。
かといって積極的に付き合う顔でもない。
あくまで、『長くなりそうだから座らせただけ』という顔だ。
そこがまた、よかった。
「先に言っておくけど」
フィレイアが言う。
「私は、あなたの妙な趣味を肯定するつもりはない」
「妙ではありません」
「妙よ」
「かなり体系立ってます」
「そこがすでに気持ち悪いの」
平助はそこで少しだけ胸を張った。
体系立っている。
そうなのだ。
ここを理解してもらわねばならない。
平助のモブヒロイン愛は、単なる雰囲気や一過性のときめきではない。長年にわたり培われた鑑賞眼と、数え切れない観測と、幾多の『なぜ主役ではないのか』という問いを経て、ようやく形を得た思想である。
いわば哲学だ。
あるいは宗教。
少なくとも、ただの『地味な子が好き』という雑な一言で処理されていいものでは断じてなかった。
「肯定していただかなくても結構です」
平助は言った。
「ただ、誤解だけは正したい」
「何をどう誤解していると思ってるの」
「フィレイアさんが、ご自身の価値をだいぶ雑に見積もっていることです」
「……またそこに戻るの」
「戻ります。根幹なので」
「本当に面倒」
その「面倒」の言い方が、前より少し弱かった。
平助は見逃さない。
たぶんフィレイアは、すでに薄々察し始めている。
この男は、いくら軽くあしらっても、そこでは終わらない。
むしろ適当に流せば流すほど、『流された』という事実ごと肯定の材料にしてくる種類の危険人物だと。
そしてそれは、正しい。
平助は一度、静かに息を吸った。
「まず前提として」
「前提……」
「はい。モブヒロインとは何か、です」
「聞きたくない」
「聞いてください」
「どうして」
「そこを共有しないと、この先ずっと話が噛み合わない」
「別に噛み合わなくても困らない」
「私は困ります」
「あなたが困るだけでしょう」
「十分でしょう」
「十分じゃないのよ……」
フィレイアが小さく額を押さえた。
その仕草に、平助は一瞬うっとりしかけた。
やめろ。
いまは本題だ。
だが、本題に入ろうとするたび本題の対象がいちいち可愛い反応を返してくるのだから、そちらも少しは自重してほしい。自重しないからこそいいのだが。
「モブヒロインというのは」
平助は、なるべく落ち着いた声で語り始めた。
「単に地味な女性のことではありません」
「……」
「ここ、よく誤解されるんです」
「よく誤解されるほど話す機会があるのね」
「心の中では常に」
「最悪」
「重要なのは、『主役ではない』ことと、『主役になり得るだけの要素を持ちながら、それでも主役の外側に置かれている』ことです」
「……」
「つまり、ただ目立たないだけでは駄目です。整っていなければならない。可愛げも、知性も、優しさも、個性も、十分にある。でも、それを大きく掲げず、一歩引いた位置にいる。あるいは物語の都合で、そう置かれてしまう」
「物語の……」
「はい。理不尽です」
「知らないわよ」
「理不尽なんです」
平助の目に、真剣な光が宿る。
「本来ならもっと評価されるべきなんですよ。でも主役を立てるために、ほんの少しだけ照明を弱くされる。ほんの少しだけ『惜しい』位置へ置かれる。その惜しさの中で、なお魅力が失われない」
「……」
「いや、むしろそこに置かれることで、魅力がより際立つ場合すらある」
「……ずいぶん熱いのね」
「当然です。これは世界の損失に関わるので」
「世界の損失……?」
「ええ」
フィレイアが、わずかに目を見開いた。
平助は気づいている。
さっきから彼女は、否定したり呆れたりしつつも、完全には話を切っていない。
理解不能なものとして退けるだけなら簡単だ。
だが、彼女は知識の女神だ。
よく分からない理屈があるのなら、いったん最後まで構造を見ようとしてしまう。
それが彼女の性質であり、同時に平助にとっては最高の追い風だった。
「主役というのは、最初から『見てください』という側に置かれます」
平助は続ける。
「でもモブヒロインは違う。本人がそう望んでいなくても、結果として『見つける側の感性』を試す位置にいる」
「……」
「だから、そこに気づける人間は少ない」
「あなたみたいに?」
「はい」
「自信満々ね」
「この件に関しては」
フィレイアが口を閉じた。
ほんの少しだけ、呆れを通り越して何かを考える顔になる。
その沈黙の間に、平助はさらに踏み込む決意を固めた。
「フィレイアさんは、完全にそっちです」
「どっち」
「見つける側に見る目が必要な美しさの側です」
「だから、それを褒め言葉として受け取れないって言ってるのだけど」
「受け取ってください」
「無茶を言うわね」
「無茶じゃありません。本当にそうなので」
「……」
フィレイアが頬を少しだけ背ける。
赤い。
もう、少し赤い。
よかった。
効いている。
しかもこれは、からかわれて顔を赤くしているだけではない。自分の価値をこんな方向から語られたことがなくて、どう処理していいか分からない赤さだ。
その種類の赤面は、平助の心に極めてよく効く。
「たとえば、見た目です」
「またそこに戻る」
「戻ります。大事なので」
「ほんとうにそこばっかり」
「だってそこにすべてが出ます」
「嘘っぽい」
「本当です」
平助は身を乗り出した。
「フィレイアさんは、まず派手じゃない」
「それはもういいわよ」
「よくないです。派手さがないって、ものすごい長所です」
「……どうして」
「本人の在り方が、そのまま出るからです」
「は?」
「主役級の華やかさって、時に演出が勝つんですよ。光の当て方や登場の強さで押し切れる。でもフィレイアさんみたいな方は違う。誤魔化しが利かない。見れば見るほど、その人の本質と整い方が一致してるかどうかが露骨に出る」
「……」
「なのに整ってる。かなり」
「……かなり、って何」
「過不足なく、非常に」
「言い回しが気持ち悪い」
「褒めてます」
「褒め方が気持ち悪いの」
平助は止まらなかった。
「あと目」
「目はもう聞いた」
「まだ足りません」
「足りて」
「ません」
「……」
「その少し重たいまぶた」
「やめて」
「本を読んでる時だけ、たぶん焦点が深くなるところ」
「見てないでしょ」
「見ます」
「怖い」
「それから、いまみたいに困ると少しだけ視線が泳ぐところ」
「泳いでない」
「泳いでます」
「泳いでない」
「いまも」
「泳いでないわよ」
「泳いでます」
「……っ」
フィレイアが明らかに言葉に詰まった。
そしてそのまま、ぷいと横を向く。
完全に、分かりやすく、横を向く。
平助はそこで、心の中で静かに万歳した。
勝った。
いや、勝ち負けではない。
だが、この『分かりやすく目を逸らす』という反応は大きい。
自己評価が低い人間ほど、自分の良い部分を言い当てられると逃げる。信じていないからだ。信じていないことを他人が真顔で肯定してくると、処理できなくなる。
そして、その処理できない感じが、またたまらなく――
いけない。
平助は一瞬、自分の思考があらぬ方向へ滑りかけたのを引き戻した。
だが引き戻しても、本質は変わらない。
フィレイアのこの戸惑いと逃げ方は、ひどくいじらしく、ひどく可愛らしかった。
「あと、能力です」
「まだあるの?」
「あります。かなり」
「……」
「知識って、目立たないでしょう」
「ええ、まあ」
「でも、どんな世界でも最後にものを言うのは知識なんですよ」
「……」
「剣も、魔法も、美も、権力も、全部、使い方を知らなければ半端で終わる。でも知識は違う。最初から最後まで、ずっと底にある」
「……」
「だから、知識を司るって、派手じゃない代わりに、一番逃げ場がないんです」
「逃げ場……」
「はい。だって全部を見てしまうから」
「……それは」
「きついでしょう」
「……」
そこでフィレイアが、初めて明確に黙った。
沈黙の質が変わった。
さっきまでの『理解不能だから返答に困る』沈黙ではない。
少しだけ、痛いところへ触れられた時の黙り方だった。
平助は息をつく。
やっぱりだ。
この人は、自分の力を派手ではないと評しながら、その実、それが持つ重さも、孤独も、ちゃんと知っている。知っているからこそ軽く言う。『自分なんて』という顔の下に、本当は消化しきれていない何かを抱えている。
それを見つけてしまうと、もう駄目だった。
「しかも、その上で前へ出るタイプじゃない」
「……出たくないもの」
「そこです」
「また?」
「ええ、またです」
「本当にしつこい」
「重要なので」
「全部重要なのね」
「全部重要です」
平助は、ほとんど祈るみたいな気持ちで言った。
「前に出ずに、支える側にいる」
「……」
「自分を誇示したいわけじゃないのに、知識を渡すことで誰かの物語を動かしてしまう」
「……」
「でもその価値を、本人がいまいち分かってない」
「分かってるわよ」
「いいえ」
「……」
「分かっている人は、自分のことを『華やかじゃないから』なんて雑に言いません」
「……っ」
フィレイアの肩が、びく、と揺れた。
赤い。
頬だけじゃない。
耳の先まで赤い。
顔を逸らしたまま、でも逃げない。
逃げないくせに、こっちも見ない。
唇だけが少し強張っていて、何か言い返したいのにうまく見つからないみたいな顔をしている。
可愛かった。
あまりにも。
平助は少しだけ、声を落とした。
「フィレイアさん」
「……なに」
「たぶんあなた、思ってる以上にすごいですよ」
「……」
「思ってる以上に綺麗だし、思ってる以上に面倒くさくて、思ってる以上に、こう……刺さる」
「最後のは要らない」
「必要です」
「要らないの」
「いや、本当に」
「ほんとうに、いま一番要らない」
返しが弱い。
弱い、ということは、もうだいぶ押されているのだ。
平助は、そこでふと気づいた。
自分はいつからこんな口調で話していたのだろう。
司書お姉さんを前にしていた時ですら、ここまで真正面から言葉をぶつけたことはない。
言えなかった。
言うべきではなかった。
だからこそ、その反動もあるのかもしれない。
フィレイアには、届いている。
届く相手なのだ。
届いてしまうだけの距離で、いま、自分の前に座っている。
その事実が、平助の熱をさらに増した。
「要するにですね」
「要さなくていい」
「要します」
「……」
「フィレイアさんは、ご自身が思ってるような『ぱっとしない女神』なんかじゃないんです」
「……そんな言い方してない」
「同じことです」
「……」
「むしろかなり高度です」
「高度?」
「はい。見る目がある側じゃないと気づけない」
「……それ、全然一般受けしない褒め方よね」
「ええ」
「開き直るのね」
「ですが本質です」
「……」
フィレイアは、そこでゆっくりとこちらを見た。
赤いままの顔で。
困ったような、呆れたような、でも少しだけ、どうしようもなく揺れている目で。
「……あなた」
「はい」
「そういうこと、いつも言ってるの」
「機会があれば」
「機会があったの」
「残念ながら、心の中で」
「……っ」
フィレイアが、とうとう口元を押さえた。
笑った、のかと思った。
だが違う。
笑ったというより、これ以上何か言うと変な声が出そうになったのを止めている顔だった。
その事実に、平助の胸が大きく鳴る。
ここだ。
いま、この人の中で何かが崩れかけている。
完全に受け入れたわけではない。
むしろ理解不能だろう。
気持ち悪いとも思っている。
でも、その一方で、自分がずっと低く見積もってきた部分を、こんなふうに熱を持って肯定される経験が、彼女にはおそらくなかった。
それが効いている。
静かに、確実に、効いている。
フィレイアは口元に手を当てたまま、目を細めた。
「……おかしい」
「何がです」
「あなた」
「はい」
「変だし、気持ち悪いし、全然意味が分からない」
「はい」
「なのに」
「……」
「なのに、否定しきれないの、すごく腹が立つ」
平助はそこで、息を呑んだ。
それはもう、ほとんど陥落の宣言だった。
否定しきれない。
つまり彼女の中で、自分は華やかではない、劣っている、前に出るような存在ではない、という認識が、いま初めて揺らいでいる。
揺らがされた。
変態に。
しかもかなり本気の熱量で。
あまりにもひどい話なのに、平助にとってはひどく神聖な瞬間だった。
「腹を立てていただいて結構です」
平助は静かに言った。
「でも、その腹立たしさごと、たぶん大事です」
「……どうして」
「自分の見方を崩される時って、少し痛いから」
「……」
「でも、崩れるなら、たぶんそこには崩れるだけの理由がある」
フィレイアはじっと平助を見た。
さっきまでよりも、少しだけ真っ直ぐだった。
まだ照れも、困惑も、警戒も残っている。
それでも、見ている。
平助を。
言葉を。
自分へ向けられた肯定を。
その視線の変化だけで、胸の奥が熱くなる。
「……ほんとうに」
フィレイアが小さく言う。
「厄介」
「光栄です」
「褒めてない」
「知ってます」
「……でも」
そこで彼女は、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
それから、絞るように続ける。
「少しだけ、考える余地はできた」
その一言で、平助の中の何かが、綺麗に満たされた。
大きな勝利ではない。
劇的な変化でもない。
けれど、自分を低く見積もる癖のある女性が、初めてほんの少しだけ『考える余地』を認めたのだ。
それは平助にとって、何よりも尊い前進だった。
フィレイアは赤い顔のまま、本を抱え直す。
「……だから今日は、ここまで」
「はい?」
「これ以上は無理」
「まだ話したいことが」
「無理」
「あと少しだけ」
「無理」
「能力の話、半分くらいしか」
「無理」
「目元の魅力についても」
「黙って」
「はい」
ぴしゃりと言われて、平助は口を閉じる。
だが、その沈黙の中でさえ、胸の内側はひどく騒がしかった。
フィレイアは本を開き直す。
読むふりなのか、本当に読む気なのか、いまはよく分からない。
ただ、その頬はまだ赤かった。
耳も。
そしてページをめくる指先が、ほんの少しだけ落ち着かない。
効いている。
その事実が、平助にはひどく嬉しかった。
死後の白い空間で。
知識を司る自己肯定感の低い女神に向かって。
変態的で濃密なモブヒロイン論を叩き込み、少しだけ彼女の認識を揺らす。
最低で、気持ち悪くて、でもどうしようもなく美しい時間だった。
そして平助は、この時点ではまだ知らない。
この『少しだけ考える余地ができた』が、後に百年を溶かす入口になることを。
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