第1話 白い狭間
死とは、もっと暗くて、もっと重くて、もっと劇的なものだと思っていた。
たとえば奈落。
たとえば地獄。
たとえば、人生の走馬灯とやらが高速で脳内を駆け抜け、その末に人は自らの生を総括するのだと。そういう、いかにもそれっぽい演出が待っているのだと、どこかで雑に信じていた。
だが実際に出芭平助を迎えたのは、そういう気の利いたものではなかった。
白かった。
ひたすらに、白い。
どこまでも、白い。
最初にそう認識した時、平助は「あ、病院か?」と思った。
次に「いや、天井がないな」と思った。
さらに数秒遅れて、「そもそも寒くも暑くもないのはおかしい」と考え、ようやく、自分が知っている現実の延長線上にはいないらしいと気づいた。
白い。
床があるのか、ないのかも曖昧だった。
だが立っている感覚はある。
足元を見れば、自分の靴が見える。会社帰りに履いていた、ごく普通の革靴だ。血もついていない。スーツも乱れていない。腹を刺されたはずの傷も見当たらない。
体は軽い。
いや、軽いというより、痛みがない。
あれだけのことがあって、痛みがない。
その事実に、平助は数拍ぶん遅れてぞっとした。
死んだのか。
死んだらしい。
思ってみれば最後の記憶は、司書のお姉さんの泣きそうな顔だった。
眼鏡のずれ。
濡れた髪。
自分へ触れていた手。
そのあと、瞼を閉じたところまでは覚えている。
そこから先がない。
ならば、まあ、死んだのだろう。
平助は白い空間の真ん中で、しばらく黙って立ち尽くした。
別に、死を受け入れられないとか、取り乱すとか、そういう劇的な感情はあまり湧かなかった。
もちろん惜しさはある。もっと読みたい本はあったし、積んだままの新刊もある。冷蔵庫には賞味期限ぎりぎりのヨーグルトもあったし、会社の共有フォルダには自分しか知らない作業途中の資料も残っている。たぶん後輩が困る。少しだけ申し訳ない。
だが、なにより先に胸の奥へ沈んでくるのは、奇妙な満足感だった。
最後に、彼女の顔を見た。
それも、ただの司書の顔じゃない。
仕事の顔でもない。
自分のために取り乱して、自分のために泣きそうになって、自分のために声を張り上げてくれた、一人の女の人の顔だった。
あれは、効いた。
とても効いた。
人間、刺されて死ぬ間際にそんな感想を抱くのが正しいかどうかは知らないが、とにかく平助には効いたのだ。
そして、たぶんそれがあるから、いまこうして妙に静かでいられるのだろう。
ふと、白の向こうに、人影が見えた。
少し先。
遠いようでいて、歩けばすぐ着きそうな距離。
白い空間の中で、そこだけがわずかに『何かがある』輪郭を持っている。
人だ。
人影。
誰かがいる。
平助は慎重にそちらへ歩き出した。
慎重に、というのも少し変な話だ。足元の感触は曖昧で、床があるのかないのかも分からないのに、不思議と歩ける。沈みもしないし、滑りもしない。ただ歩けば、その分だけ景色が近づいてくる。
近づくにつれ、人影の輪郭がほどけるように明らかになっていく。
椅子があった。
ひどく簡素な、しかし妙に品のある椅子。白とも灰ともつかない色味で、装飾らしい装飾はない。
その椅子に、誰かが座っている。
女性だった。
最初に見えたのは、手だった。
本を持っている。
大きすぎず、小さすぎず、厚みもほどほどの本。
その頁をめくる指先が、ひどく静かだった。
せかせかしていない。
誇示もしていない。
ただ、その動作だけで「この人は本を読むことに慣れている」と分かる手つき。
指が細い。
爪は短く整えられている。
飾り気はない。
ないが、その無駄のなさがかえって妙に目を引いた。
平助はそこで、わずかに嫌な予感を覚えた。
いや、嫌な予感というのは語弊がある。
正確には、「まずい方向に何か来る気がする」という、馴染み深くてろくでもない予感だ。
女性は本から顔を上げない。
こちらに気づいていないのか、気づいていて無視しているのか、そのどちらとも判断がつかない。
だが近づくにつれ、平助には少しずつその横顔が見えてきた。
髪は淡い色だった。
白ではない。銀に近い、けれど冷たいだけでもない色。月明かりを水に溶いたみたいな、曖昧で静かな色をしている。
長さは胸元あたりまでだろうか。きっちり整えすぎてはいないが、だらしなく崩れているわけでもない。重さのあるまっすぐな髪が、肩のあたりでゆるく落ちている。
顔立ちは、派手ではなかった。
そこがまず、よくなかった。
圧倒的な美貌で人を黙らせるタイプではない。
いかにも女神めいた、きらきらしく完成された顔でもない。
むしろその逆で、視線を受ければ受けるほど輪郭が染み込んでくるような、静かな整い方だった。
鼻筋は綺麗だが主張しすぎず、唇は薄め、顎の線も繊細。
決して地味というわけではない。整っている。十分すぎるくらい整っている。
なのに、第一印象で『完成された主役』の座には収まらない感じがある。
そして、目元。
平助はそこで、完全に足を止めた。
ジト目だった。
いや、厳密に言えば、まだこちらを見ていないのでジト目かどうか断言はできない。だが横顔の時点で分かる。まぶたの重さがある。眠たげというか、世界に対して必要以上の興味を持っていなさそうな、あの少し沈んだ目元。しかも角度によっては、ほんのわずかに三白眼へ寄りそうな気配まである。
やばい。
と、平助は思った。
まずい。
これは、かなりまずい。
死後の世界に何が待っているのか知らないが、少なくとも『いま目の前にいるこの人』が、自分の嗜好の中枢に対して極めて危険な角度から侵入してきていることだけは、理屈抜きに理解できた。
女性は、そこでようやく本を閉じた。
ぱたり、と小さな音がする。
白い空間の中で、その音だけが妙にはっきり響いた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
目が合った。
その瞬間。
平助は、あまりのことに一歩だけ後ずさりそうになった。
いた。
いたのである。
いたのだ。
理想が。
もちろん、司書のお姉さんとは違う。
違うはずなのに、別の角度から、別の純度で、しかし確実に『そっち側』へ深く刺さってくる顔がそこにあった。
眠たげで、やる気がなさそうで、でも本を読む時だけは世界の焦点が合う人の顔。
自分からは前へ出ない。
飾り立てない。
見ようとしなければ見逃される位置に、平然と座っていそうな顔。
そのくせ、ちゃんと見たら、かなり綺麗だと分かってしまう顔。
最悪だった。
出芭平助の変態としての魂が、死後数分で見事に息を吹き返した瞬間だった。
女性は平助を見て、そして、はっきりとため息をついた。
それがまた、ひどくよかった。
落胆でも嫌悪でもない。
もっと、こう、面倒な仕事がひとつ増えた時のような、諦めを含んだ息。
世界の終わりでも何でもなく、単に『ああ、またか』という顔でつくため息。
良い。
ものすごく、良い。
「……あなたが、今回の転生者?」
声は低かった。
鈴のようでも、澄んでいるわけでもない。
かといって濁っているのでもない。
静かな声だ。
乾いていて、でも冷たすぎず、必要以上にこちらを持ち上げない声。
業務連絡みたいな響き。
眠たげな目元と合わさることで完成する、極めて高度な事務的美である。
平助は思った。
死後にこんな試練を置くのはどうなんだ。
いや試練ではないのかもしれない。
天国なのか。
だとしたら、だいぶ自分に都合のいい天国だ。
だがこんな都合のよさは逆に怖い。何かの罠かもしれない。いや、仮に罠でも、この罠は少し魅力的すぎる。
女は平助が黙っているのをどう解釈したのか、半目のままもう一度だけ小さく息を吐いた。
「反応がないわね。死んだ直後だから仕方ないのかしら」
平助は、そこでようやく自分が一言も発していないことに気づいた。
いけない。
完全に見惚れていた。
見惚れるという表現も何か違う。もっと構造に対する理解と敬意を含んだ凝視だった。
だが客観的に見れば、死後の白い空間で知らない女性を無言で見つめ続ける不審者に過ぎない。
「あっ、いえ、その、すみません」
口を開くと、声はちゃんと出た。
喉の痛みもない。血の味もしない。
それが逆に妙だった。
「あなた、声は出るのね」
女性が言う。
そこに安心や親切さはない。
ただ確認しただけ、という感じだった。
素晴らしい。必要以上の気遣いをしない女性は信頼できる。
「ええと……はい。たぶん」
「たぶん、で話を進めるのはやめてくれる? こちらも手順があるの」
平助は一瞬、目を見開いた。
手順。
その単語がいい。
感情や神秘や運命ではなく、『手順』。
死後の案内ですら業務感が出ている。
この人、もしや相当――
そこまで考えて、平助は自分の頬を内側から平手打ちしたくなった。
何をやっている。
おまえはさっき死んだのだぞ。
目の前にいるのが何者かも分からない。ここがどこかも分からない。司書のお姉さんを庇って死んだばかりで、普通ならもう少し人生とか未練とか、そういう方向へ思考が向くだろう。
なのに何だ。
なぜ数十秒でこんなに再起動している。
再起動しているのだ。
はっきりと。
綺麗に終わったと思われた変態が、死後の世界で即座に息を吹き返し、しかも前世で鍛えた審美眼と業の深さをそのまま持ち越して、さらに高度なものへ反応し始めている。
救いようがなかった。
女性はそんな平助の内面の阿鼻叫喚など知る由もなく、本を膝の上へ置いて立ち上がった。
その動作も、またよくなかった。
立ち姿が静かだ。
ひどく静かで、無駄がない。
ローブとドレスの中間みたいな白い衣が、音もなく流れる。装飾は少ない。少ないのに、布の重なり方と体の線の拾い方だけで、必要十分に美しい。
決して露骨ではない。
主張しない。
けれど、主張しないからこそ、『見る側が見つけてしまう美しさ』だけが残る。
ああ、だめだ。
これは駄目なやつだ。
たぶんこの人は、自分がそういう見られ方をすることに無頓着だ。
無頓着なまま本を読み、無頓着なまま溜息をつき、無頓着なままその場に立っている。
それが一番よくない。
分かっていてやっている美しさは、時にメインヒロインになってしまう。だが、無自覚でそうなっている存在には、もっと根深くて救いのない魅力がある。
女性は平助の目の前まで来た。
距離が近い。
司書のお姉さんとは最後までカウンター越しだったくせに、死後にいきなりこれはどういうことなのか。人生というものは、最後まで理不尽だ。
「名前は」
「……出芭平助です」
「へえ」
そこで初めて、女性の声にほんの僅かな変化が混じった。
興味というほどではない。
ただ、『そういう名なのね』と一度だけ意識の上に置いたような響き。
「平助」
「はい」
「死んだ実感はある?」
「ええと……たぶん、まあ……司書のお姉さんを庇って刺されたので、多分そのまま」
「そう」
『司書のお姉さん』という単語に対しても、女性は特に何も言わなかった。
よかった。
そこで説明を求められていたら、平助はたぶん必要以上に語っていただろう。
いや、必要以上に語らないわけがない。
司書お姉さんの素晴らしさについて、死後の世界でも平然と二時間くらい話し始めたに違いない。
女性は平助を上から下まで眺めた。
測るような目ではない。
もっと実務的な、状態確認の目だ。
「身体に異常は?」
「ない、みたいです」
「痛みは?」
「ないです」
「記憶は?」
「あります」
「未練は?」
「あります」
女性の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「即答なのね」
「そりゃ、ありますよ」
「何に」
その問いに、平助は少しだけ息を詰まらせた。
何に。
改めて問われると、答えは妙に難しい。
司書のお姉さん。
もちろんそうだ。
でも『彼女と結ばれたかった』とか、『告白したかった』とか、そういう主役めいた願いではない。
もっと歪で、もっと後ろ向きで、もっとどうしようもない形の未練だった。
「……もっと、ちゃんと推したかったです」
「……は?」
女性が、たぶん初めて明確に聞き返した。
その声に含まれた微かな困惑が、平助には妙にありがたかった。
引かれるべきところでちゃんと引かれている感じがある。
それはそれで好感が持てる。すぐに理解されるとこちらも困る部分があるからだ。
「いや、その……仕事が忙しくて」
「仕事が忙しいと、死んだことへの未練が『ちゃんと推したかった』になるの」
「なりますね」
「どうして」
「時間が足りなかったので」
女性は数秒、沈黙した。
それから、片手で眉間を押さえた。
ああ。
その仕草も、すごくいい。
頭痛を堪える人のそれだ。
面倒な案件を割り振られた人のそれでもある。
死後の狭間だか何だか知らない場所で、転生者対応に頭を抱えている気だるげなお姉さん。
この状況、倫理的にはどうかと思うが、性癖的にはかなり高水準だった。
「……今回、相当面倒ね」
「すみません」
「本当にそう思ってる?」
「かなり」
「なら少し黙って」
ぴしゃりと言われて、平助は素直に口を閉じた。
閉じながら、思う。
だめだ。
この人、かなり好きだ。
もちろん司書のお姉さんとは違う。
違うはずなのに、刺さる角度があまりにも深い。
事務的。
気だるげ。
控えめ。
自己評価も、たぶん高くない。
なのにちゃんと綺麗で、ちゃんと知的で、ちゃんと前へ出ない。
何なんだこれは。
死後の世界というのは、もしかして人間の業へかなり正確に対応してくる場所なのか。
もしそうなら、自分はだいぶ救われていない。
女性は手を下ろすと、ようやく真正面から平助を見た。
近くで見ると、その目はやはり少し三白眼寄りで、でも冷たいだけではなく、むしろ『世界の大半に本気を出していない人の目』という方が正しい気がした。
知れば知るほど、危ない。
「私はフィレイア」
「……フィレイア」
平助は反射的にその名を繰り返した。
音がきれいだった。
静かな響きだ。
強すぎず、飾りすぎず、けれど耳に残る。
書庫の奥に置かれた薄い装丁の本みたいな名前だと思った。手に取る人は少ないかもしれないが、一度開けば忘れられない種類の。
「知識を司ってる」
「えっ、知識の……女神とか、そういう」
「そういう」
女神。
なるほど。
そこで平助は、やっと腑に落ちた。
白い世界。
死後らしき空間。
謎の女性。
気だるげな事務対応。
このあたりを総合すると、たしかに『女神』という単語はかなり説明力がある。
あるのだが。
平助の心を一番占めたのは、神々しさへの畏怖ではなかった。
知識。
知識を司る。
本を読んでいた。
頁をめくる手つきが綺麗だった。
気だるげで、でも知識の話なら少しだけ本気を出しそうな顔をしている。
装飾は少ない。
存在感は静か。
なのに、こちらがちゃんと見たら見つけてしまう美しさがある。
やばい。
と、平助は改めて思った。
非常にやばい。
司書お姉さんで死んで、司書属性の延長線上にある知の女神へ着地するのは、さすがに出来すぎている。出来すぎているが、だからといって平助の性癖が遠慮してくれるわけでもない。
むしろ逆に、司書お姉さんの現実的な生活感とは違う角度から、もっと根源的な『知に寄り添う地味めなお姉さん感』がこちらを刺してきている。
これは高度だ。
死後の世界、ずいぶんと高難度で攻めてくる。
フィレイアはそんな平助の内心など知らず、あるいは少しだけ察しているのかもしれないが、とにかく淡々と告げた。
「あなたはこれから転生する」
「転生」
「そう」
「異世界とか、そういう」
「そういう」
また事務的だ。
その雑な肯定が、実にいい。
いま自分が死後と転生という人生最大級のイベントを告げられているのに、説明の温度が妙に低い。感動の演出も、もったいぶりもない。ただ業務として説明している感じがある。
そういうところだ。
そういうところに、人間は落ちる。
平助はフィレイアを見つめた。
見つめて、しまった。
もうだめだ。
綺麗に死んだ気でいた変態が、ものの数分でここまで息を吹き返しているのだから、救済などどこにもない。
「……なに」
「いえ」
「見すぎ」
「すみません」
「ほんとうに面倒」
そう言ってフィレイアは、また小さくため息をついた。
そのため息にすら、平助はどこか救われた気がした。
死んでもなお。
いや、死んだからこそ。
自分はきっと、こういう『主役の照明から半歩外れたところにいる女の人』を見つけてしまうのだ。
だったら仕方がない。
これはもう、生き様ではなく、魂の癖なのだろう。
白い世界の真ん中で、出芭平助は、自分の変態が無事に死後へ持ち越されていたことを、静かな絶望と、少しばかりの感動をもって受け入れた。
出芭平助、無事に転生イベントを迎える――。
そして、死後数分で、彼にとって最大級の危険がド直球で飛び込んできました。
彼の魂に刻まれた変態性が疼き、最後に残された僅かな理性が『危険だ』と警鐘を鳴らします。
この女神、性癖に刺さりすぎる――!!!
と。




