第5話 最初で最後の接触
借りたばかりの本が、ばさり、と音を立てて落ちた。
硬いカバーの角が舗道を打つ。
図書館の明かりが、その上を白く滑った。
平助はそれを拾わない。拾えるわけがない。もうその時点で、彼の体は考えるより先に走っていた。
司書のお姉さんは、まだ気づいていない。
いや、正確には、目の前の何かがおかしいことには気づき始めていた。
図書館を出て、夜道へ足を踏み出し、駅へ向かうために歩き出したところで、正面から誰かが妙な勢いで近づいてくる。
その違和感に、彼女の歩幅が一瞬だけ乱れる。
男は速かった。
待っていた人間の動きだった。
迷いがない。
社会の皮を剥がすことに、もう躊躇がない。
普段の館内で見せていた『客』の速度ではない。獲物へ飛びかかると決めた生き物の速度だった。
平助は走りながら、相手の右肩が少し沈んでいるのを見た。
右手。
懐。
引き抜く動き。
刃物だ、という確信はその瞬間すでに体へ伝わっていたのに、頭の方は少し遅れた。
まさか、と思った。
本当に持っているのか。
本当にここで出すのか。
図書館のすぐ前で。
人通りもゼロではないこの場所で。
そこまでやるのか。
やるのだ。
そういう顔をしていた。
「――っ!」
司書のお姉さんが短く息を呑む。
男の手に光るものが見えたのだろう。
街灯の下で、細く、嫌な反射を返す刃。
その瞬間、出芭平助の中で、一年分の理性と、たぶん生涯分のしょうもなさが、まとめて吹き飛んだ。
「危なっ――!」
叫んでいた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
いままで図書館で一度たりとも立てたことのない種類の声。
館内の静けさを愛し、彼女の業務の邪魔をしないことだけは守ってきた男が、初めてその全てをぶち壊す叫びを上げる。
司書のお姉さんが、こちらを見る。
眼鏡の奥の目が、はっきりと見開かれる。
その顔を見た瞬間、平助は思った。
ああ、やっと、まともに目が合った。
こんな時に。
こんな最悪の形で。
でも、合った。
その感慨は、次の瞬間にはもう押し流される。
平助はそのまま男と彼女の間へ飛び込んだ。
考えて押しのけたわけではない。
咄嗟だった。
けれど方向だけは正確だった。
彼女の肩へ、腕を叩きつけるように触れる。
触れた。
一年間、絶対にしないと決めていた接触。
彼女の生活を壊したくなくて、カウンター越しの受け渡しですら指先の距離に気を配ってきたくせに、その誓いを、平助はたった一瞬でぶち破った。
だがもう、そんなことを悔いる暇はなかった。
司書のお姉さんの体が、横へ大きく崩れる。
バランスを失って、トートバッグが揺れ、傘が手を離れ、濡れた舗道に転がる。
そのかわり、男の刃の軌道に入るのは平助の胴だ。
衝撃は、意外なくらい静かだった。
まず熱。
その次に、変な圧迫感。
遅れて、体の奥へ硬いものが押し込まれる感覚。
刺された、と思ったのは、それから一拍遅れてだった。
男の顔が近い。
平凡な顔。
平凡なくせに、ここまで来るともう人間というより現象だった。
目だけが異様に開いている。
「やっぱり、おまえか」
男が言った。
息がかかる距離で、低く、苛立ちと確信の混ざった声。
平助は痛みより先に、その言葉の意味を理解した。
ああ。
そうか。
やっぱり、おまえか。
つまり、そういうことか。
男は最初から平助を知っていた。
知っていて、邪魔だと思っていた。
司書のお姉さんを見ていたのは本当だろう。執着も本物だろう。だが同時に、そこにずっとへばりついている『もう一匹』の存在が、気に入らなかったのだ。
平助の胸の奥に、ひどく冷静な理解が降りた。
自分は、彼女をめぐる舞台の登場人物になってしまっていた。
見守るだけのつもりでいたのに。
脇から見ているだけの、名前もないモブ観客でいたかったのに。
気づいた時には、もう向こうの物語の中で『排除すべき邪魔者』にされていた。
最悪だった。
最悪で、同時に、どうしようもなく納得もした。
だって、そうなるだろう。
図書館へ通い、館内を見て、外でも導線を気にし、あの男の視界に入っていたのだ。
自分が思っていたよりずっと、自分はこの状況の中で輪郭を持ってしまっていた。
男が刃を引こうとする。
平助は反射でその腕へしがみついた。
痛みが、そこでようやく輪郭を持つ。
鈍いとか鋭いとか、そういう形容が一瞬追いつかない。ただ腹の奥で熱いものが暴れて、足元から力が抜けていく。
それでも、手だけは離さなかった。
「お、おまえ……っ」
喉の奥で血の味がした。
声にならない。
だが男の顔は見える。
その向こう、地面に倒れ込んだ司書のお姉さんが、息を呑んでこちらを見ているのも見えた。
眼鏡が少しずれている。
あんなにきっちりしていた人の顔が、いまは明らかに崩れている。
その顔が。
その、完全に日常の外へ放り出された顔が。
平助にとって、ひどく、どうしようもなく、美しかった。
やめろ、と頭のどこかが叫ぶ。
こんな時にまでそれを思うな。
最低だぞ。
本当に最低だぞ、おまえ。
だが思ってしまったものは仕方がない。
彼女はいつだって事務的で、平坦で、仕事の顔をしていた。
平助が好きだったのは、その完成された距離感だ。
だがいま、その全部が崩れている。
恐怖で。
困惑で。
目の前で刺された男――つまり平助――に向けられた、生身の感情で。
こんな顔、見たことがない。
見たことのない顔で、自分を見ている。
その事実が、痛みと熱と恐怖をごちゃまぜにしたぐちゃぐちゃの中で、ひどく甘かった。
男が苛立ったように腕を振る。
平助の体がぐらつく。
もう力が入らない。
なのに、しがみつく手だけは勝手に残る。
「放せよ!」
男が吐き捨てる。
その声で、ようやく周囲の人間たちが現実へ追いつき始めたのかもしれない。
少し離れた場所で悲鳴が上がる。
誰かがスマホを取り出す。
自転車が急ブレーキをかける音。
遅い。
全部、遅い。
でもそれでいい。いま必要なのは、この場が『見られる場所』になることだ。
平助は自分の腕に残った力を振り絞り、男の体へ体重を預けた。
押し倒すほどではない。
そんな力はもうない。
ただ、次の一歩を踏み出しにくくするだけ。
その数秒で十分だった。
男が舌打ちする。
完全に計画が崩れた顔だった。
最初の一撃で終わるつもりだったのだろう。
司書のお姉さんへ向けたそれを、平助が横から奪った。
そしてなお腕に絡みついて、騒ぎまで起きた。
もうここから先は、男にとっても割に合わない。
「くそ……っ」
男は乱暴に腕を引き、平助を突き飛ばした。
体が後ろへよろめく。
足がもつれ、視界が大きく傾く。
そのまま膝から崩れた。
濡れた舗道の冷たさが、やけに遠い。
男は一歩、二歩と下がる。
誰かが叫ぶ。
別方向から人が来る気配。
男は司書のお姉さんを見て、それから平助を見て、最後に舌打ちを一つ残して走り去った。
追う者はいない。
当然だ。
目の前に刺された人間がいるのに、逃げた男を追えるほど人はすぐには動けない。
平助は地面に片手をつき、なんとか意識を保とうとした。
まずい。
これ、かなりまずい。
腹のあたりが熱い。
熱いくせに、指先だけが妙に冷えていく。
呼吸が浅い。
吸うたびに変な味がする。
ああ、刺されたんだな、と今さら実感が来る。
「だ、大丈夫ですか……!」
声が落ちてきた。
上から。
震えていて、いつもの事務的な平坦さがどこにもない声。
司書のお姉さんだった。
彼女が傍へ来る。
膝をつく。
傘はどこかへ転がったまま、髪の毛先が少し濡れている。
トートバッグも脇に投げ出されていた。
眼鏡はずれかけていて、その向こうの目は、痛いほど見開かれていた。
平助は思う。
近い。
人生で初めて、まともに近い。
何を喜んでいるのか。
本当にどうしようもない。
刺されてなお、最初に思うことがそれか。
死ねばいいのに。
いや、もう死にかけているのかもしれない。
「しっかりしてください、救急車……誰か、救急車を――!」
彼女が叫ぶ。
叫んだ。
あの人が。
あの、必要なことしか言わず、館内で私情の温度をほとんど見せなかった人が、いま、声を張り上げている。
平助のために。
平助を助けるために。
それがあまりにも現実離れしていて、平助は少し笑いそうになった。
いや、実際に少し笑っていたのかもしれない。頬の筋肉が勝手に緩む。
「なんで、笑ってるんですか……!」
司書のお姉さんの声が、今度は泣きそうに掠れた。
その時、平助は、ようやく本当の意味で理解した。
この人は困っている。
この人は怖がっている。
この人は、いま、目の前で刺された自分に、ちゃんと感情を向けている。
それは平助が一年間、勝手に想像してきた『理想の司書お姉さん』ではない。
もっと生身で、もっと切実で、もっと雑音に満ちた、一人の女の人だった。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
ああ。
よかった。
最後に、ちゃんと人間として会えた。
平助は口を開こうとした。
大丈夫です、と言いたかったのかもしれない。
警察、と言いたかったのかもしれない。
あるいは、逃げてください、とか。
でも実際に出たのは、まるで別の言葉だった。
「……よかった」
司書のお姉さんが、息を止めるようにしてこちらを見る。
平助は自分でも、何を言っているのか少し分からなかった。
いや、分かっている。
ずっと分かっていた。
ただ、こういう時に口にする種類の言葉ではないだけだ。
「……顔、見れた」
やってしまった。
言ってから、自分でも本気で終わっていると思った。
何だその台詞は。
刺された人間の最期の一言がそれでいいのか。
もっとあるだろう。
犯人の特徴とか、警戒してとか、そういう社会的に有意義な何かが。
だが司書のお姉さんは、怒らなかった。
呆れもしなかった。
ただ一瞬だけ、意味が分からないという顔をして、それからもっとひどく泣きそうな顔になる。
「なに、言って……」
その声が震える。
平助の胸の中で、妙な感動が膨らんでいく。
最悪だ。
本当に最悪だ。
でも、ああ、好きだ。
目の前の彼女は、もうモブヒロインでも何でもない。
ただ、必死になってくれている一人の人だ。
それでもなお、いや、だからこそ、平助にはたまらなかった。
報われない位置に立たされて、仕事の顔でやり過ごして、眠そうな目で毎日を回して、それでも誰かが傷つけばこんな顔をしてしまう。
そういう人だったのだ、この人は。
平助は、薄れていく意識の底で、ひどく満たされていた。
あの男のことは、もうほとんどどうでもよくなっていた。
もちろんよくはない。よくないに決まっている。だが少なくとも、最後の瞬間に平助の心を占めるのは怒りでも恐怖でもなく、目の前の司書のお姉さんの表情だった。
世界が少しずつ遠くなる。
周囲の声が、膜の向こうみたいにくぐもる。
誰かが「救急です!」と叫んでいる。
誰かが男の走り去った方向を言っている。
司書のお姉さんが、何かを押さえている。たぶん傷口だ。
その手が、微かに震えている。
ああ。
触られた。
初めてだ。
彼女の手が、自分に触れている。
もちろん、こんな形は望んでいなかった。
神に誓って望んでいなかった。
でも触れている。
そのことがどうしようもなく甘美で、平助は自分が最後まで救いようのない男だと悟った。
「お願いです、しっかり……!」
司書のお姉さんの声が、今度は完全に泣いていた。
平助は、その顔を見上げる。
眼鏡がずれている。
髪が乱れている。
頬に、いつの間にか涙が一本だけ落ちていた。
綺麗だ、と思う。
それはいつもの意味ではなかった。
モブヒロインの美学とか、報われなさの完成度とか、そういう面倒くさい理屈を全部抜きにして、ただ、ひどく綺麗だった。
自分のために泣いてくれる顔が、こんなにも綺麗だなんて知らなかった。
平助はゆっくりと息を吐いた。
もううまく吸えない。
けれど、苦しくはなかった。
いや、苦しいのだろう。体はたぶんひどく苦しい。
でも、それ以上に胸の奥が妙にあたたかくて、だから恐怖がうまく居場所を見つけられなかった。
なぜ今まで気づかなかったのだろう、と平助は思う。
自分は彼女を見ていたつもりだった。
図書館での仕草も、声も、服も、眼鏡も、棚づくりも、全部見ていたつもりだった。
だが本当に見たかったのは、たぶんこれだった。
誰かのために取り乱す顔。
仕事の皮が剥がれたその下にある、生身の優しさ。
自分なんかのために、それを晒してしまう瞬間。
ああ。
参ったな。
これは、もう駄目だ。
好きとか、そういう言葉で済ませていたら失礼なくらい、本当に、この人が――
そこで思考が途切れた。
代わりに、ひどく間抜けで、ひどく平助らしい願いが浮かぶ。
来世では、絶対ニートになろう。
社畜は駄目だ。
時間が足りない。
平日は仕事で削られ、休日だけでは推し活に限界がある。
しかも退勤後しか動けないせいで、昼間の導線も十分に掴めなかった。完全敗北である。
もし次があるなら、もっと時間が欲しい。もっと全力で、もっとちゃんと、理想のお姉さんを推せる人生がいい。
できれば、触れ合いたい(強欲)。
平助はそこで、自分の思考が最後の最後まで本当にろくでもないことに、ちょっとだけ感心した。
そして、笑った。
笑ってしまった。
「……っ、なんで……」
司書のお姉さんの声が、遠い。
でも、その遠さすら心地よかった。
平助は、彼女の顔を最後まで目に焼きつけながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
世界が白くなる前の最後の景色が、図書館でも、本でもなく、彼女の泣きそうな顔だったことに、どうしようもない幸福を感じながら。
出芭平助は、その夜、恍惚とした笑みを浮かべて、死んだ。
くっ……あれほど眼鏡をずらすなと……!
だって仕方ないじゃあないか。それだけ彼女も必死だったんです。
というわけで、こうして出芭平助という男は、この世界を去りました。
変態男にふさわしい、最低で最高の最後だったのではないでしょうか。
ひとまず、これでプロローグ(導入)は完了です。
ごめんなさい。第1章とか銘打っているくせに、実はこれが異世界転生ものでいうところの『プロローグ』です。
どうか、これに懲りずに、さらに進化していく彼の『変態ムーブ』をご覧になってください。




